宝福寺(読み)ホウフクジ

デジタル大辞泉 「宝福寺」の意味・読み・例文・類語

ほうふく‐じ【宝福寺】

岡山県総社市にある臨済宗東福寺派の寺。山号は、井山。開創は貞永年間(1232~1233)。開山は鈍庵で初め天台宗であった。雪舟が得度して相国寺に上るまで修行した寺。雪舟寺

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精選版 日本国語大辞典 「宝福寺」の意味・読み・例文・類語

ほうふく‐じ【宝福寺】

岡山県総社市井尻野にある臨済宗東福寺派の寺。山号は井山。もと天台宗。貞永元年(一二三二)創建。開山は日輪。のち鈍庵慧聰が円爾弁円に帰依し、その弟子の玉渓慧椿を請じて禅寺とする。雪舟が出家して小僧時代を過ごし、涙でネズミの絵を描いたことでも知られる。雪舟寺。井山の大寺。

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日本歴史地名大系 「宝福寺」の解説

宝福寺
ほうふくじ

[現在地名]総社市井尻野

秋葉あきば山南麓の山の谷にある。臨済宗東福寺派。山号は井山、本尊は虚空蔵菩薩。貞永年間(一二三二―三三)の創建と伝える(東福末寺志)。開山は京都東福寺開山円爾の弟子鈍庵聡慧。四条天皇に客星(彗星)が祟った時、詔を受けて宝福寺に新壇を築き祈祷し病気を平癒させたことによって寺領を賜い、勅願寺になったという(同書)。玉渓慧椿を宝福寺二世として招き、禅宗に転じた(同書)。玉渓慧椿は宝福寺に瑜伽経を伝え、密灌を行ったといわれる(慧山旧記)。禅宗でありながらも密教の色彩の濃い寺院であったことが推測されるが、近世においても継承されたと思われる。古河古松軒の日記(斎藤家蔵)に、明和七年(一七七〇)の旱魃の際、当時大徳として名高い井山の大休和尚が湛井たたいで雨乞の秘法を行ったことがみえる。

宝福寺
ほうふくじ

[現在地名]東山区小島

寺門は西面して主典しゆてん辻子に面していたが、明治に入り削減して寺門を北に移した(坊目誌)。「京都府地誌」には、門より東部分は東西一四間余・南北三九間余、西は東西二二間余・南北一四間余、面積にして八〇四坪余りとみえる。時宗、鶴林山と号する。鳥辺野とりべのの葬墓地を管掌する寺として存続し、南無地蔵の通称で知られたが、現在堂宇はない。「京都府地誌」に「天平五年癸酉、僧行基開基。貞和二年丙戌ヨリ、金蓮寺ニ属ス」とある。元来、鳥辺山の北、清水きよみず坂の「子安塔西、中光院東」の地にあったというが(山城名勝志)、江戸時代に旧地はすでに荒廃していたらしく、「菟芸泥赴(貞享元年刊)に「今は寺なくて竹林四方にめぐれる内に石地蔵有。

宝福寺
ほうふくじ

[現在地名]五戸町浅水 浅水

浅水あさみずの西の山麓に位置する。瑞洞山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦牟尼。宝暦(一七五一―六四)の頃の御領分社堂に宝福寺持の観音堂がみえる。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」に「宝福寺 瑞洞山三十石、八戸領名久井法光寺末寺」とあり、寺領三〇石を給され、御目見を許されていた。

宝福寺
ほうふくじ

[現在地名]板倉町板倉

板倉の西部に所在する。大同山と号し、真言宗豊山派。本尊阿弥陀如来。文永九年(一二七二)の上野国板倉大同縁起(宝福寺蔵)によれば、聖徳太子の開基で、坂上田村麻呂が蝦夷征討がかなったので大同元年(八〇六)に伽藍を再興したとある。数次の火災で伝来の古文書のほとんどを失う。寺内に鎌倉時代の性信上人像があり、県指定重要文化財。貞永年間(一二三二―三三)性信が住持であったとき自像を安置したという。

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改訂新版 世界大百科事典 「宝福寺」の意味・わかりやすい解説

宝福寺 (ほうふくじ)

岡山県総社市にある臨済宗の寺。井山(いやま)と号する。鎌倉前期に創建,はじめ天台宗,まもなく慧聡禅師により臨済宗に転じた。近郷の生れだった雪舟は,少年時代当寺で修行し,あまり絵ばかりをかいているので,和尚がこらしめようと本堂の柱にくくりつけたところ,足もとに涙でネズミの絵をえがき,和尚があやうく本物のネズミと見誤るところだったという有名な話は,当寺で生まれたものである。近世の寺領100石。現在,仏殿,方丈,禅堂,庫裏,書院,経蔵,鐘楼などが閑寂な境内に建ちならんでいる。そのうち,三重塔(重要文化財)は1262年(弘長2)北条時頼の建立と伝えられるが,近年,永和2年(1376)の墨書が発見されて南北朝期の建立と考えられている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「宝福寺」の意味・わかりやすい解説

宝福寺
ほうふくじ

岡山県総社(そうじゃ)市井尻野(いじりの)にある臨済(りんざい)宗東福寺派の寺。井山(いやま)と号し、俗称は雪舟(せっしゅう)寺。貞永(じょうえい)年間(1232~33)に鈍庵(どんあん)禅師を開山として創建された天台宗の寺であったが、四条(しじょう)天皇(在位1232~42)のころ禅寺となったと伝えられる。永享(えいきょう)年間(1429~41)雪舟が12歳で得度し、やがて京都相国(しょうこく)寺に上るまで修行をした寺で、本堂正面仏壇にある柱は、少年僧雪舟がくくり付けられて涙で足元に鼠(ねずみ)を描いたときのものと伝えられる。室町時代に兵火にかかり三重塔(国重文)のみを残して焼失。江戸時代に復興された。寺宝に明(みん)の周東村(しゅうとうそん)作と伝える絹本着色地蔵菩薩(ぼさつ)像、同十王像(いずれも国重文)がある。

[菅沼 晃]


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デジタル大辞泉プラス 「宝福寺」の解説

宝福寺

岡山県総社市にある臨済宗東福寺派の寺院。室町時代後期の画僧、雪舟が足の指と涙で床に鼠の絵を書いたという逸話で知られる。1376年に建てられた三重塔は国の重要文化財に指定されている。

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事典 日本の地域遺産 「宝福寺」の解説

宝福寺

(愛知県岡崎市梅園町字白雲9-1)
ふるさとの森」指定の地域遺産。
面積1,150【m2】

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「宝福寺」の意味・わかりやすい解説

宝福寺
ほうふくじ

岡山県総社市にある臨済宗東福寺派の寺院。貞永1 (1232) 年天台宗として創建されたがのち改宗。三重塔は室町建築。また雪舟が小僧として入寺したので有名。

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世界大百科事典(旧版)内の宝福寺の言及

【備中国】より

…臨済宗を日本に伝えた栄西は,吉備津宮の神主賀陽(かや)氏の出身である。画僧雪舟は大井荘赤浜(現,総社市)の出身で,年少のころ近くの井山(いやま)宝福寺で小僧生活を送ったという。宝福寺は臨済宗東福寺派の名刹として知られる。…

※「宝福寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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