宣化天皇(読み)せんかてんのう

精選版 日本国語大辞典 「宣化天皇」の意味・読み・例文・類語

せんか‐てんのう センクヮテンワウ【宣化天皇】

第二八代の天皇継体天皇の第二皇子。諡(おくりな)は武小広国押盾天皇(たけをひろくにおしたてのすめらみこと)。「日本書紀」によれば、檜隈(ひのくま)の廬入野宮(いおりのみや)(=奈良県高市郡明日香村)に遷都し、大伴狭手彦(さでひこ)を派遣して任那(みまな)百済(くだら)を助けさせ、在位四年で没したという。(四六七‐五三九

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デジタル大辞泉 「宣化天皇」の意味・読み・例文・類語

せんか‐てんのう〔センクワテンワウ〕【宣化天皇】

記紀で、第28代天皇。継体天皇の第2皇子。名は武小広国押盾たけおひろくにおしたて新羅しらぎ任那みまな侵入に際し、大伴狭手彦おおとものさでひこを遣わして、任那・百済くだら救援したという。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「宣化天皇」の意味・わかりやすい解説

宣化天皇
せんかてんのう

生没年不詳。記紀によれば第28代の天皇。6世紀前半に在位。武小広国押盾(たけおひろくにおしたて)天皇ともいう。継体(けいたい)天皇の第2子。母は目子媛(めのこひめ)。兄安閑(あんかん)天皇の後を受けて即位、大和(やまと)の檜隈廬入野宮(ひのくまのいおいりのみや)(奈良県高市(たかいち)郡明日香(あすか)村)に都し、橘仲皇女(たちばなのなかつひめみこ)を皇后とする。大伴金村(おおとものかなむら)、物部麤鹿火(もののべのあらかい)を大連(おおむらじ)、蘇我稲目(そがのいなめ)を大臣(おおおみ)とし、諸国屯倉(みやけ)の稲を運ばせて、那津(なのつ)(福岡市博多(はかた))に官家(みやけ)を建て、任那(みまな)・百済(くだら)救援のために大伴狭手彦(さてひこ/さでひこ)を遣わしたと伝えられる。次代の欽明(きんめい)天皇との並立も考えられ、朝廷内部の動揺期にあたる。治世4年で没し、大和の身狭桃花鳥坂上(むさのつきさかのうえ)陵(奈良県橿原(かしはら)市鳥屋(とや))に葬る。『日本書紀』には、皇后とその幼児も合葬したとある。

[志田諄一]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「宣化天皇」の意味・わかりやすい解説

宣化天皇
せんかてんのう

第28代に数えられる天皇。名はタケオヒロクニオシタテノミコト。継体天皇の第3皇子。母は尾張草香(おわりのくさか)の娘,目子媛(めのこひめ)。大和の檜隈廬入野宮(ひのくまのいおりののみや)に都し,仁賢天皇の娘,橘仲皇女(たちばなのなかつひめみこ)を皇后とした。その在位期間中,蘇我稲目が大臣となり,蘇我氏専権の基をなした。諸国の屯倉(みやけ)の稲を運んで非常時に備えさせ,使臣をつかわして朝鮮半島任那百済を助けたと伝えられる。陵墓は奈良県橿原市の身狭桃花鳥坂上陵(むさのつきさかのえのみささぎ)。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「宣化天皇」の解説

宣化天皇 せんかてんのう

467-539 記・紀系譜による第28代天皇。在位536*-539。
継体天皇の第2皇子。母は目子媛(めのこひめ)。「日本書紀」によると,安閑天皇の同母弟で欽明天皇の異母兄。都は檜隈(ひのくま)の廬入野(いおりのの)宮。蘇我稲目(そがの-いなめ)を大臣とした。宣化天皇4年2月10日死去。73歳。墓所は身狭桃花鳥坂上陵(むさのつきさかのえのみささぎ)(奈良県橿原市)。別名は武小広国押盾天皇(たけおひろくにおしたてのすめらみこと),檜隈高田(ひのくまのたかだの)皇子。
【格言など】食(くらひもの)は天下(あめのした)の本(もと)なり。黄金万(よろづ)貫(はかり)ありとも,飢(いひうゑ)を療(いや)すべからず。白玉千箱ありとも,何ぞ能く冷(こい)を救はむ(「日本書紀」)

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朝日日本歴史人物事典 「宣化天皇」の解説

宣化天皇

没年:宣化4(539)
生年:雄略11(467)
6世紀前半の天皇。継体天皇と目子媛の子で,安閑天皇の同母弟。即位前は檜前高田皇子と呼ばれた。諡号は武小広国押盾天皇。安閑死後の536年に即位し,治世4年ののち,73歳で死んだ。『上宮聖徳法王帝説』『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』は仏教公伝年を欽明7年戊午としているが,戊午年は宣化3(538)年に当たる。この食い違いと,継体死去に関する『日本書紀』の不自然な記述から,継体の死んだ辛亥年(531)に安閑・宣化と欽明が対立し内乱に至った(辛亥の変),あるいは2朝並立という異常事態を迎えたという説がある。<参考文献>林屋辰三郎『古代国家の解体』

(大平聡)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「宣化天皇」の解説

宣化天皇
せんかてんのう

記紀系譜上の第28代天皇。6世紀前半の在位という。檜隈高田(ひのくまのたかだ)皇子・武小広国押盾(たけおひろくにおしたて)天皇と称する。継体天皇の第二子。母は尾張連草香(おわりのむらじくさか)の女目子媛(めのこひめ)。同母兄の安閑天皇の後をうけて即位したとされるが,「日本書紀」の伝える異説に,534年,継体天皇・太子(安閑)・皇子(宣化)がともに死んだとあって,継体の死後,異母弟の欽明天皇と対立し,内乱もしくは2朝並立の事態の生じた可能性も指摘されている。

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世界大百科事典(旧版)内の宣化天皇の言及

【継体・欽明朝の内乱】より

…6世紀前半の継体朝末年に皇位継承をめぐって勃発したと想定されている内乱。《日本書紀》では継体天皇の死をその25年辛亥(531)のこととし,安閑天皇1年(534)までの2年間は空位とされる。一方,仏教公伝を《日本書紀》が壬申年(552)とするのに対し戊午年(538)として伝える《上宮聖徳法王帝説》や《元興寺縁起》によれば,欽明天皇の即位は辛亥年となって先の継体没年とつながり,その間に安閑・宣化2天皇の治世をいれる余地がない。…

※「宣化天皇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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