富士松魯中(読み)ふじまつろちゅう

改訂新版 世界大百科事典 「富士松魯中」の意味・わかりやすい解説

富士松魯中 (ふじまつろちゅう)

新内節富士松派の演奏家。(1)初世(1797-1861・寛政9-文久1) 本名野中彦兵衛。前名は鶴賀加賀八太夫。新内節中興の祖。1829年(文政12)ごろ写し絵入り新内節を語り,翌年,浅草の船宿に妻とともに夫婦養子に入ったが,38年(天保9)ごろ3代目家元鶴賀鶴吉の娘ひでとの恋愛問題などで破門された。このため都路加賀太夫を名のったが,天保末期には中絶していた富士松家を再興し,富士松加賀太夫魯中と改名,のち俳名の魯中のみを称した。しかし鶴賀より従来の新内節を語ることを禁じられたため,福岡・久留米富士松紫朝をはじめ一門の高弟の協力を得て新作に専念し,《真夢(まさゆめ)》《弥次喜多(三段)》《高野山(こうやさん)》など60曲ほどの作品を残した。悪声だったが三味線名手と伝える。魯中は旧来の新内節のほか,一中節や宮薗節(みやぞのぶし),義太夫節なども習得したと伝えられ,その作品にはそれらの転用も多く,それまでの新内節とは違った味のあるものが多い。自流を〈富士松浄瑠璃〉と称したが,明治期以降は新内節と総称されるようになった。(2)2世(1852-96・嘉永5-明治29) 初世の長男で本名福太郎。前名は富士松島太夫。1893年2世魯中を襲名実弟の5世富士松加賀太夫没後,6世加賀太夫を襲名。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「富士松魯中」の意味・わかりやすい解説

富士松魯中
ふじまつろちゅう
(1797―1861)

新内節中興の祖といわれる新内の太夫。初世。本名野中彦(ひこ)兵衛。鶴賀(つるが)3世家元鶴吉の門弟で前名鶴賀加賀八太夫。天保(てんぽう)(1830~44)初年に江戸・浅草三好町の船宿相良屋(さがらや)へ妻さだと夫婦養子となる。1838年(天保9)3世家元の娘ひでとの恋愛問題で社中に物議をかもして破門され、一時都路(みやこじ)加賀太夫を名のったが、まもなくそのころ中絶状態の富士松派家元を再興して富士松加賀太夫魯中と改名し、後年はもっぱら魯中を称した。このとき鶴賀派より在来の端物(はもの)を語ることを差し止められ、自流を「富士松浄瑠璃(じょうるり)」と称し、俗受けをねらう当時の傾向を忌み、一中(いっちゅう)節をはじめ他流の摂取に努めた。温故知新を標榜(ひょうぼう)して気品のある原点に立ち戻る意欲に燃え、嘉永(かえい)~安政(あんせい)(1848~60)にかけて久留米紫朝(くるめしちょう)といわれた初世富士松紫朝(1827―1902)をはじめ一門高弟の協力により新作に専念し、『真夢(まさゆめ)』『膝栗毛(ひざくりげ)』ほか数多くの傑作を残した。なお、2世は初世の長男福太郎(1852―96)、前名島太夫が1893年(明治26)に継承したが、のちに弟の次男5世加賀太夫没後、6世加賀太夫を襲名している。

[林喜代弘・守谷幸則]

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百科事典マイペディア 「富士松魯中」の意味・わかりやすい解説

富士松魯中【ふじまつろちゅう】

新内節の太夫。本名野中彦兵衛。前名鶴賀加賀八太夫,鶴賀3代目の家元鶴吉(女性)の門人。師匠の娘との恋愛問題などが原因で鶴賀派から破門され,富士松派を再興して富士松加賀太夫(初世)と名乗りさらに魯中と改名した。鶴賀派から在来の新内を語ることを禁止されたことが契機となって,高弟の協力を得て新作に専念し,《明烏后真夢(あけがらすのちのまさゆめ)》《弥次喜多》《佐倉宗吾郎》ほか多数を作曲。〈富士松浄瑠璃〉と称した。三味線の名手としても知られる。没後長男福太郎が2世を継いだ。→明烏
→関連項目新内節富士松加賀太夫

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「富士松魯中」の意味・わかりやすい解説

富士松魯中
ふじまつろちゅう

[生]寛政9(1797)
[没]文久1(1861)
新内節の太夫。作詞,作曲家。新内節3世家元鶴賀鶴吉の門下で鶴賀加賀八太夫と名のっていたが,天保9 (1838) 年頃鶴賀派を破門された。まもなく,ほとんど絶えていた富士松派 (1世富士松薩摩掾の系統をひく) を再興し,名も富士松加賀太夫魯中と改めた。その際鶴賀派から従来の端物を語ることを禁じられた結果,新作に努力し,『真夢』『膝栗毛 (3段) 』『佐倉宗吾郎』ほか多くの名曲を残した。魯中自身は悪声であったが,作曲にすぐれ,また時代の好みに合せて語り方を渋く格調高くすることによって,新内節の固定化を阻止した。新内節の中興の祖ともいわれる。

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世界大百科事典(旧版)内の富士松魯中の言及

【新内節】より

豊後節(ぶんごぶし)の一派で,鶴賀若歳(つるがわかとし)改め2世鶴賀新内の残した名称。それ以前の同系統の富士松,鶴賀,豊島らの節も含み,また後年富士松魯中(ろちゆう)の称した富士松浄瑠璃も,現在では新内節に含めている。
[歴史]
 享保(1716‐36)の末ごろ,上方から江戸に下った宮古路豊後掾(みやこじぶんごのじよう)にしたがった宮古路加賀太夫は,1745年(延享2)に師家を去って独立,富士松薩摩(翌年富士松薩摩掾を受領)と名のり52年(宝暦2)まで劇場に出演し,57年に没した。…

【富士松加賀太夫】より

…2~4世については未詳。(1)初世 初世富士松魯中の前名。(2)5世(1855‐92∥安政2‐明治25) 初世富士松魯中の三男。…

【富士松紫朝】より

…盲目で,幼少より地歌・箏曲を学ぶ。1846年(弘化3)江戸に出て初世富士松魯中に入門,その新作運動に協力,とくに義太夫節種の新内化にはみずから義太夫節を学んで助けたという。幕末には寄席に出て弾き語りをし,渋く品のいい芸は名人といわれた。…

【真夢】より

…新内節の《明烏(あけがらす)》が有名だったので,その後日談として滝亭鯉丈(りゆうていりじよう)と2世南仙笑楚満人(後の為永春水)の合作による,人情本《明烏後正夢》が出版され(1819‐24),ベストセラーになった。その題名をかりて富士松魯中が1857年(安政4)5月に作詞作曲したもの。上中下に分けられる。…

※「富士松魯中」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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