日本大百科全書(ニッポニカ) 「富田荘(とだのしょう)」の意味・わかりやすい解説
富田荘(とだのしょう)
とだのしょう
尾張(おわり)国海部(あま)郡にあった広大な荘園。「とみたのしょう」「とみだのしょう」ともいう。現在の名古屋市中川区富田(とみだ)町とあま市、海部郡蟹江(かにえ)町・大治(おおはる)町あたりに比定される。戸田川の河口に位置し、東は御厨河(みくりやがわ)(現庄内(しょうない)川)に接していた。本所は近衛(このえ)家で、1103年(康和5)に右大臣藤原忠実(ただざね)の所領として現れる。鎌倉幕府が成立するとこの荘園の地頭職(じとうしき)が北条氏の手に帰し、1211年(建暦1)には地頭北条義時(よしとき)の請所(うけしょ)になった。その後1283年(弘安6)になると、北条時宗(ときむね)が新しく建てた鎌倉円覚寺(えんがくじ)にこの地頭職を寄進し、以後、地頭職は円覚寺領となって伝えられた。同年の円覚寺への年貢高は米1428石8斗、銭1506貫余に及ぶ。円覚寺所蔵の富田荘絵図は1338年(延元3・暦応1)の作成と考証されているが、堤防、道路、河海や宿(萱津(かやつ)宿)、神社、寺院、在家、条里などを描く荘園絵図の代表的な遺例である。
[大山喬平]