寝屋川市(読み)ネヤガワシ

デジタル大辞泉 「寝屋川市」の意味・読み・例文・類語

ねやがわ‐し〔ねやがは‐〕【寝屋川市】

寝屋川

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

日本歴史地名大系 「寝屋川市」の解説

寝屋川市
ねやがわし

面積:二四・〇〇平方キロ

北河内のほぼ中央、淀川左岸に位置する。北は枚方ひらかた市、東は交野かたの市、南は四條畷しじようなわて市・大東だいとう市、南から西は門真かどま市・守口もりぐち市、西は淀川を隔てて高槻たかつき市・摂津市。市域は東部の丘陵地と西部の低地に分れ、中央を東部丘陵に源をもつ寝屋川が南流する。東部は枚方丘陵南端の標高六〇メートル前後の支丘陵で、各所に谷底平地が散在する。西部はもと淀川氾濫原の標高二―三メートルの低湿地で、無数の井路があり、その中央を悪水井路としての機能をもつふる川が南流する。市域西端の淀川沿いを国道一号(近世の京街道)が通り、東部丘陵東麓を丘陵に沿って南北に府道枚方―富田林とんだばやし―泉佐野線(東高野街道)が、また同丘陵西麓を南北に国道一七〇号(近世の枚方道、明治以降の河内街道)が通る。市域北部を東西に通るのが交野道で、南部を国道一六三号(清滝街道)が横切る。市名は市域の中央を流れる寝屋川に由来する。

〔原始〕

縄文時代前期(約七千―六千年前)の大阪平野は、北は高槻市付近まで海が入込んでいた。当市近辺では枚方丘陵の一部で縄文遺跡が発見されているが、市域は海面下にあった。その後流入する淀川や大和川の堆積作用などで水域は縮小し、弥生時代後期から古墳時代前期(約一千八〇〇―一千六〇〇年前)には、河内低地の水域は河内湖と名付けられる淡水湖になった。市域では弥生中期以降の太秦うずまさ小路しようじ・寝屋・成田なりた三井南みいみなみ秦山はだやまの各遺跡が確認される。太秦遺跡は弥生中期の高地性大集落であったことが想定されており、この太秦遺跡を母体として生れたと考えられるのが弥生後期の小路・寝屋両遺跡である。成田・三井南・秦山各遺跡は丘陵西側に南北にほぼ一直線に並んでおり、須恵器などの出土状況から古墳後期の遺跡と考えられている。太秦遺跡を中心とする太秦・はだの丘陵地は古墳時代後・末期の古墳群の地でもある。打上うちあげは「河内名所図会」に「八十塚、同村にあり」と紹介された地であるが、古墳の多くは消滅した。今日各所にその片鱗をとどめる巨石が残り、なかでも珍しいのは石宝殿いしのほうでん古墳で、横口式石槨を主体部とし、南河内と大和に類似するものがある。

〔古代〕

七世紀後半から八世紀にかけて河内低地中央には広大な湖沼が存在した。この頃淀川にはほぼ現在の流路のほかに、現在の古川の川筋をほぼ右岸として湖沼に流入する流れがあり、古川の川筋は近世の木屋こや村か太間たいま村付近で分岐していた。当時大阪平野では大規模な治水・水利の土木工事が実施されており、「日本書紀」仁徳天皇一一年一〇月条にも茨田まんだ堤築造の記事がみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「寝屋川市」の意味・わかりやすい解説

寝屋川〔市〕
ねやがわ

大阪府北東部,淀川左岸の市。 1951年市制。東部は枚方 (ひらかた) 丘陵,西部は低湿な淀川沖積地。丘陵末端部の寝屋川浸食谷付近の秦,太秦 (うずまさ) ,その南の高宮などに先史時代の遺跡がある。 10年京阪電気鉄道開通以後は住宅地に発展。中心市街地は香里園と豊野。西部の国道1号線沿いには金属,機械,電気器具などの工場が進出。北部の木屋に府立淡水魚試験所がある。 34年分霊を遷座した成田不動尊が北部の三井にあり,交通安全祈願,厄よけの神として参詣者が多い。史跡に石宝殿古墳,高宮廃寺跡がある。淀川の河川敷淀川河川公園となっている。 JR片町線,京阪電気鉄道本線,国道1号線,170号線が通じる。面積 24.70km2。人口 22万9733(2020)。

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