専修寺(読み)センジュジ

デジタル大辞泉 「専修寺」の意味・読み・例文・類語

せんじゅ‐じ【専修寺】

三重県津市一身田町にある真宗高田派の本山。山号は高田山。10世真慧しんえが寛正6年(1465)の寺基を現在地に移したのに始まる。天正2年(1574)には門跡寺院となる。専修阿弥陀寺。無量光寺。一身田御殿。
栃木県真岡市高田にある真宗高田派の寺。古くは本山、のちの別院。山号は高田山。開創は嘉禄2年(1226)、開山は親鸞しんらん。関東における真宗発展の拠点となった。下野しもつけ本寺。高田専修寺。

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精選版 日本国語大辞典 「専修寺」の意味・読み・例文・類語

せんじゅ‐じ【専修寺】

[一] 栃木県芳賀郡二宮町高田にある真宗高田派の寺。山号は高田山。三重県津市にある専修寺の別院。親鸞(しんらん)を開山に嘉祿元年(一二二五)創建。後堀河天皇の勅願寺。寛正六年(一四六五)十世真慧(しんえ)が寺基を伊勢国(三重県)に移し、その別院となった。下野本寺(しもつけほんじ)。高田専修寺。
[二] 三重県津市一身田(いしんでん)町にある真宗高田派の本山。山号は高田山。正称は専修阿彌陀寺。下野国(栃木県)の専修寺の寺基を寛正六年(一四六五)真慧が移したのに始まる。永正八年(一五一一後柏原天皇の第二皇子真智が入山して以来門跡寺となった。所蔵する親鸞筆の「西方指南抄」「三帖和讚」は国宝。無量寿寺。一身田御堂(御殿)。

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日本歴史地名大系 「専修寺」の解説

専修寺
せんじゆじ

[現在地名]津市一身田町

一身田いしんでん町の中央部西寄りに位置する。境内は東西約三七〇メートル、南北約二五〇メートルで、一身田集落の四割の面積をもつ。山号は高田山、真宗高田派の本山で、これに属する別院および兼帯所八、末寺六三四。本尊阿弥陀如来は鎌倉時代初期の作で、寛正六年(一四六五)中興真慧が比叡山より与えられたと伝える。

〔起源〕

寺伝は、関東を教化していた親鸞が五三歳の嘉禄元年(一二二五)夢の告げに導かれて善光ぜんこう(現長野市)に赴き、一光三尊仏を感得して帰り、翌年下野国大内おおうち高田たかだ(現栃木県芳賀郡二宮町)に寺院を建立し、これを安置したことに始まるという。その像は今も二宮にのみや町高田専修寺の如来堂に安置されており、鎌倉時代に製作されたとみられる善光寺式の阿弥陀三尊像で、当寺の善光寺信仰との深いかかわりが単に伝説にとどまらないことを示している。この像はいつの頃からか秘仏とされ、専修寺住持が継職の際にのみ開扉して一般にも拝礼せしめていたが、専修寺一七世円猷が享保一四年(一七二九)に伊勢国一身田専修寺へ出開帳を行って以来、一七年目ごとに伊勢国へ出開帳するのが例となっている。ただこれを親鸞の建立とする点については、親鸞の生涯に寺院建立の形跡がないことから、歴史的事実とは認められていない。天文一二年(一五四三)の高田専修寺再興勧進帳(専修寺文書)など室町時代諸文献が親鸞の直弟真仏を開基としているところから、この地方有力武士出身の真仏が親鸞に帰依してその弟子となり、善光寺如来像を祀る堂を建立して、そこへしばしば親鸞を請じ、専修念仏の道場としたものと考えられる。親鸞が京都へ帰った後、残された門弟たちはこの堂を中心とした教団を形成したので、彼らは高田門徒とよばれて、関東の真宗教団をリードする最有力教団となり、京都の親鸞廟堂維持のためにも尽力したことが知られている。

〔寺号〕

寺号は法然が提唱し親鸞が受継いで標榜した「専修念仏」に基づくものであるが、この寺号については、「存覚一期記」正和元年(一三一二)条に、真仏の孫弟子にあたる法智が関東から上洛し、京都大谷の親鸞廟堂に「専修寺」の号をつけ、名筆に額を書かせて掲げたが、延暦えんりやく(現大津市)からの通告によって撤下し、法智はその額を持帰って自分の寺に掲げたとの記事がある。延暦寺が反対したのは、「専修念仏」は旧仏教側から異端とされて、承元元年(一二〇七)以来公には禁止となっていたからであるが、それだけにこの寺号には真宗門徒の想念が込められていたから、京都での掲額を阻まれた門弟たちは、都から遠く離れた東国で、専修念仏の中心道場としての地歩を築いていた高田の如来堂に、その額を掲げることとしたものと思われる。

専修寺
せんじゆじ

[現在地名]二宮町高田

高田山と号し真宗高田派。阿弥陀寺ともいい、また一般には高田たかだ専修寺と称される。本尊は阿弥陀如来。寺伝によれば嘉禄元年(一二二五)夢の告げにより信州善光寺に赴いた親鸞が一光三尊仏を感得、翌二年、当地に寺院を建立、これを安置したのが開創とされるが、実際は親鸞の高弟真仏の創建で、当初は善光寺式阿弥陀三尊を本尊とする如来堂であったと考えられる。

文治三年(一一八七)から建久二年(一一九一)にかけて源頼朝の助成による善光寺再建に東国御家人が協力したこと(「吾妻鏡」文治三年七月二七日条など)、承元四年(一二一〇)まで長沼ながぬま庄を本拠とする長沼宗政が善光寺地頭であったことなどから(同書承元四年八月一二日条)、鎌倉時代初期、当地域に近江園城おんじよう寺系天台密教の善光寺阿弥陀信仰が流布しており、親鸞の関東移住以前に、真仏が念仏信者としてすでに如来堂を創建していたと思われる。真仏は平姓真壁氏系大内氏の一族椎尾弥三郎といい(法雲寺古系図)、関東へ移った親鸞に帰依、如来堂へたびたび親鸞を招じ、同所を専修念仏の道場としたものとも考えられる。親鸞帰京後、門弟たちはこの如来堂を中心に教団を形成、高田門徒とよばれる関東における真宗最有力教団を育てている。如来堂は真仏より顕智に伝えられ、建治三年(一二七七)一一月七日に親鸞の娘覚信尼が墓所として寄進した土地の寄進状のうち一通が、高田の顕智坊、常陸「ヌノ河」の教念坊に預けられるなど(年月日未詳「大谷親鸞廟屋地手継文書目録」本願寺文書)、関東の有力教団として京都大谷おおたにの親鸞廟所の維持に助力したと考えられる。

専修寺
せんしゆうじ

[現在地名]境町伏木

伏木ふせぎの南部に所在。長義山地蔵院と号し浄土宗。本尊阿弥陀如来。寺域は広大で、建物背後に樹木・竹林があり、中世の居館を思わせる。寺前の道を鎌倉街道と称する。寺伝によると正和年中(一三一二―一七)持阿良心の開山。持阿良心は現岩井市の高声こうしよう寺第二祖。開山当時は字北原溜きたはらために寺域を構え、その後、東南へ五〇〇―六〇〇メートルの地に再興したと伝える。天正元年(一五七三)多賀谷氏による伏木焼打ちにあい、さらに移転したのが現在地である。現在地はかつて永塚(長塚)甲斐守長義の居館で、のち青木十兵衛の居館となったと伝え、永塚長義を開基としている。

専修寺
せんしゆうじ

[現在地名]久留米市藤山町

猪之口いのくちにある。浄土宗。一向山無量院と号する。本尊は阿弥陀如来。天平年間(七二九―七四九)行基の開基と伝え、もとの寺地は西方約一キロの寺山てらやまで、七堂伽藍が建立され、塔頭も多数、末寺は筑後・筑前・豊前・肥前の四国に四八ヵ寺あり、寺領も藤山ふじやま村に一〇町あったが、乱逆で焼失して退転。一六世紀初頭頃念誉行明が現在地に移転、中興して一向山と称し、善導ぜんどう寺末になったという(寛文十年寺社開基など)

専修寺
せんしゆうじ

[現在地名]弘前市東和徳町

市街地北東部にあり、国道七号沿いの和徳わつとく町東方に位置。阿闍羅山と号し、浄土宗、本尊は阿弥陀如来。もと貞昌ていしよう寺末寺。

寺伝によれば、阿闍羅あじやら千坊の一宇としてあったが、慶長年間(一五九六―一六一五)居土いつち(現南津軽郡大鰐町)に移り、後さらに現在地へ移転したという。開山は貞昌寺一八世金蓮社良紫貞祐をあてる。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「専修寺」の解説

専修寺
せんじゅじ

1栃木県真岡市にある真宗高田派の寺。高田山と号す。同派では教団発祥の地として本寺(ほんじ)とよび,本山の三重県津市の専修寺住持が兼任する。1225年(嘉禄元)夢告を得た親鸞が信濃善光寺の一光三尊仏を本尊として建立。親鸞の東国布教の拠点となり,2世真仏(しんぶつ)・3世顕智(けんち)の高田門徒は浄土真宗初期教団における最有力信徒集団だった。1464年(寛正5)10世真慧(しんね)は伊勢国一身田に道場を建立し,翌年寺基を移したといい,真慧を中興の祖とする。大永年間の兵火で衰退し,本山としての機能を一身田に移した。本尊の善光寺式阿弥陀三尊像は鎌倉時代の作。如来堂・御影堂は重文,寺域全体は国史跡。

2津市一身田町にある真宗高田派の本山。高田山と号す。同派10世の真慧(しんね)が文明年間に建立した無量寿院(無量寿寺)に始まる。もともとの本山であった下野国高田の専修寺が大永年間の兵火で衰退し,1548年(天文17)に12世尭慧(ぎょうえ)が入寺してからは同派の中心となり,専修寺とよばれるようになった。1634年(寛永11)に越前国畠中村の専修寺との正統争いに勝ち,本山の地位を確立。以降,下野専修寺を本寺と称し,住持は本山の住持が兼ねた。広大な境内には重文の御影堂・如来堂などが並び,寺内町の形跡をいまに伝える。国宝の「三帖和讃」「西方指南抄」,重文の「親鸞聖人消息」「唯信鈔」など多数の親鸞真蹟を所蔵。

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改訂新版 世界大百科事典 「専修寺」の意味・わかりやすい解説

専修寺 (せんじゅじ)

栃木県真岡市の旧二宮町高田にある真宗高田派の寺。山号は高田山。高田派教団発祥の地にあり,〈本寺(ほんじ)〉と呼ばれる。住職は高田派法主が兼務する。寺伝では,親鸞が関東を教化中に,夢告によって感得した一光三尊仏(いつこうさんぞんぶつ)を本尊として,1226年(嘉禄2)に創立したという。今も当寺如来堂にまつられるこの像は,鎌倉時代の制作とみられる善光寺式阿弥陀三尊像で,親鸞と善光寺信仰とのかかわりを思わせる。親鸞帰洛後は,高弟真仏がこれを核として教団を形成し,〈高田門徒〉と呼ばれた。跡を継いだ顕智など歴代住持は各地に教化を広げ,当寺への尊崇を集めることに成功する。しかし室町末期には,教団に内紛が発生し,伽藍も兵火に遭って衰退し,教団の中心は伊勢国一身田の無量寿院(専修寺)に移った。境内は親鸞の宗教遺跡として国指定史跡。親鸞の墓は境内西北隅にあり,鎌倉時代の石塔が立つ。如来堂,御影堂,山門,惣門などは重要文化財に指定されている。
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専修寺 (せんじゅじ)

三重県津市一身田町にある寺。山号は高田山。真宗高田派の本山で,伊勢国内をはじめ,三河,越前など全国に650の末寺を持つ。室町中期に,高田派第10世真慧(しんね)が伊勢国内に教線を拡大し,その中心寺院として建設したのが草創で,初めは無量寿院と称した。しかし教団の中心であった下野国高田の専修寺が兵火で焼失するなどのことがあって,1548年(天文17)からは専修寺住持が住むようになり,実質上教団の中心はこちらに移り,やがて寺名も専修寺となった。現伽藍は,2度の火災を経た3度目の再建で,2万8000坪の境内に巨大な御影堂と如来堂(ともに重要文化財)などが並び,周囲に末寺,坊官や町屋を配置し,さらに外側を濠でかこむという寺内町の形態をとる。親鸞真蹟を数多く所蔵することで知られ,親鸞筆《三帖和讃》3冊と同《西方指南抄》6冊は国宝,親鸞自筆消息10巻,《善信上人絵詞伝》5巻などは重要文化財に指定されている。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「専修寺」の意味・わかりやすい解説

専修寺
せんじゅじ

三重県津市にある真宗高田派(→高田派)の本山。専修阿弥陀寺,無量寿寺ともいい,高田山と号する。もと下野国高田(栃木県真岡市)の善光寺如来堂から親鸞の弟子,真仏,顕智らを中心として発展したもので,10世の真慧が諸国巡礼の際,寛正6(1465)年現在地に移した。如来堂の本尊『木造阿弥陀如来立像』は,証拠の如来と呼ばれ,真慧が比叡山から勧請したもの。文明9(1477)年6月に後土御門天皇勅願所とし,天正2(1574)年には門跡号を勅許された。親鸞自筆の『西方指南抄』『三帖和讃』(ともに国宝)を伝える。なお,高田の旧地には本寺専修寺がある。

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百科事典マイペディア 「専修寺」の意味・わかりやすい解説

専修寺【せんじゅじ】

三重県津市一身田町にある真宗高田派の本山。正称は専修阿弥陀寺,別号は無量寿寺。1225年親鸞が下野(しもつけ)の高田(現,栃木県真岡市)に創建したものを,10世真慧(しんね)が1465年現地に移した。後柏原天皇の子真智が入寺して門跡寺となった。本尊は円仁作と伝える一光三尊の阿弥陀仏で〈証拠の弥陀〉と称せられる。国宝の親鸞の三帖和讃など文化財多数。
→関連項目専修寺津[市]

専修寺【せんじゅじ】

栃木県二宮(にのみや)町(現・真岡市)高田(たかだ)にある真宗高田派の寺。高田派教団発祥地にあり,〈本寺〉と称される。寺伝では1226年親鸞(しんらん)が夢告によって感得した一光三尊仏を本尊として創立という。実際の創建者と考えられる親鸞高弟の真仏(しんぶつ)が〈高田門徒〉とよばれる真宗教団を形成。室町末期に教団の内紛,兵火による伽藍焼失などにより,教団の中心は伊勢一身田(いしんでん)の無量寿院(専修寺)に移った。如来堂・御影堂・楼門・惣門は重要文化財,親鸞の墓がある境内は国指定史跡。

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デジタル大辞泉プラス 「専修寺」の解説

専修寺(せんじゅじ)

三重県津市にある寺院。真宗高田派本山。山号は高田山。「無量寿寺」ともいう。宗祖親鸞聖人の木造を安置した御影堂と“証拠の如来”と呼ばれる阿弥陀如来像を安置した如来堂はいずれも国宝に指定。

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世界大百科事典(旧版)内の専修寺の言及

【津[市]】より

…しかし経済活動の中核をなすのは第3次産業で,その従業者比率は全従業者の68%(1995)と高く,卸売販売額も県下第2位である。北部の一身田(いしんでん)は江戸時代に真宗高田派の本山専修(せんしゅう)寺の寺内町および参宮街道の宿場として発達した。津藩主藤堂氏の山荘であった市立偕楽公園はツツジ,桜の名所で,南部の阿漕(あこぎ)浦は海水浴場として知られる。…

※「専修寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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