尋尊(読み)ジンソン

デジタル大辞泉 「尋尊」の意味・読み・例文・類語

じんそん【尋尊】

[1430~1508]室町時代学僧法相宗興福寺大乗院門跡一条兼良かねらの子。興福寺別当となり、長谷寺薬師寺の別当を兼務して教学振興に努めたほか、「大乗院寺社雑事記」「大乗院日記目録」などの記録を残した。

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改訂新版 世界大百科事典 「尋尊」の意味・わかりやすい解説

尋尊 (じんそん)
生没年:1430-1508(永享2-永正5)

室町時代の興福寺僧で,大乗院門跡(もんぜき)。関白一条兼良(かねら)の第5子。1438年(永享10)前門跡安位寺経覚が将軍足利義教によって追放されたあと,新門主として入院した。したがって尋尊は前門跡の入室弟子でも附弟でもなく,異常な入院となった。40年得度,41年(嘉吉1)院務初め。62年(寛正3)継嗣として二条家から政覚を迎え,ついで院務を譲ったが政覚は早世し,その後一条家から慈尋を迎えたが夭折,さらに九条家から迎えた経尋が得度する前に,尋尊は死没した。尋尊の大乗院在院は結局前後70年に及び,この間興福寺,長谷寺別当も歴任した。この70年は,いうまでもなく中世の権門体制が大きく後退した時代にあたる。51年(宝徳3)には当時大乗院があった禅定院が土一揆の放火に類焼し,応仁・文明の乱がはじまると父一条兼良が尋尊のもとに疎開するなどその影響は奈良にも強く及び,乱後は門跡の被官である古市氏ら衆徒・国民(大和国衙領の在地領主で春日大社末社の神人化した者の身分称)が国人としての動きを顕著にし,大乗院配下の座や荘園には有名無実化するものが多く,神事・法会も退転をはじめた。貴種として大乗院に入院した尋尊は,学僧としてはなんらの業績ものこさなかったが,時代の風潮を〈下剋上〉ととらえ,あえてその流れに抗して〈門跡再興〉〈寺社(興福寺,春日社)繁昌〉をみずから使命とした。そのため,むしろ政治家として衆徒・国民らを指揮し,大和一国はもとより幕府諸国情勢に関心をもった。また大乗院や興福寺の先例や所領などの記録を収集し筆写した。前後50年にわたる日記《大乗院寺社雑事記》をのこしたほか,《大乗院日記目録》《三箇院家抄》《七大寺巡礼記》《大乗院門跡領目録》など多くの記録をのこした。尋尊の面目は,下剋上の時代の証言者である点にあったといえよう。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「尋尊」の意味・わかりやすい解説

尋尊
じんそん

[生]永享2(1430).8.7. 京都
[没]永正5(1508).5.2. 奈良
室町時代の法相宗の僧。興福寺大乗院第 20代門跡。一条兼良の子。号は後大慈三昧院。永享 10 (1438) 年大乗院に入室し,同 13年門跡として院務についた。享徳2 (1453) 年少僧都,同3年大僧都,康正1 (1455) 年法印,僧正と累進し,同2年興福寺別当に就任。翌長禄1 (1457) 年大僧正となった。応仁1 (1467) 年法務に任じられた。尋尊は 70年の間大乗院に在院して多くの記録を残している。日記『尋尊大僧正記』は宝徳2 (1450) 年から永正5 (1508) 年までの分が現存,1931年『大乗院寺社雑事記』として刊行された。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「尋尊」の意味・わかりやすい解説

尋尊
じんそん
(1430―1508)

室町中期の興福寺大乗院門主。一条兼良(かねよし)の子。1438年(永享10)大乗院に入室。2年後に得度、受戒。1441年(嘉吉元)大乗院門跡(もんぜき)を継承。1456(康正2)~1459年(長禄3)まで興福寺別当を務めた。その日記『大乗院寺社雑事記(だいじょういんじしゃぞうじき)』は、寺院経営だけでなく応仁・文明の乱前後の激動する社会を活写する史料として重要である。また、年代記『大乗院日記目録』をまとめた。

[稲葉伸道]

『鈴木良一著『大乗院寺社雑事記――ある門閥僧侶の没落の記録』(1983・そしえて)』

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「尋尊」の解説

尋尊
じんそん

1430.8.-~1508.5.2

室町中期~戦国期の興福寺の僧。興福寺180世別当。大乗院第20代門跡。父は一条兼良,母は中御門宣俊の女。1440年(永享12)得度。維摩会研学竪義(ゆいまえけんがくりゅうぎ)を遂げ,少僧都・大僧都をへて僧正に任じられ,56年(康正2)興福寺別当に就任。のち法務に任じられ,長谷寺・橘寺・薬師寺の別当も兼ねた。応仁・文明の乱では父兼良の日記を兵火から守り,見聞したことを記して「大乗院寺社雑事(ぞうじ)記」(全258巻)中に198巻を収録。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「尋尊」の解説

尋尊 じんそん

1430-1508 室町-戦国時代の僧。
永享2年8月7日生まれ。一条兼良(かねよし)の5男。法相(ほっそう)宗。奈良興福寺の大乗院門跡(もんぜき)。康正(こうしょう)2年(1456)興福寺別当となり,長谷寺,薬師寺などの別当をかねる。翌年大僧正。没年までの約50年間の日記「尋尊大僧正記」をふくむ「大乗院寺社雑事記」,「三箇院家抄」などの記録をのこした。永正(えいしょう)5年5月2日死去。79歳。

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旺文社日本史事典 三訂版 「尋尊」の解説

尋尊
じんそん

1430〜1508
室町時代の法相宗の僧
一条兼良 (かねよし) の子。興福寺大乗院第27代門跡・大僧正。70年間在院し,多くの記録を残した。日記『尋尊大僧正記』はこの時代の貴重な史料。

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367日誕生日大事典 「尋尊」の解説

尋尊 (じんそん)

生年月日:1430年8月7日
室町時代;戦国時代の法相宗の僧
1508年没

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世界大百科事典(旧版)内の尋尊の言及

【正長の土一揆】より

…また近江,大和以外で徳政令が発布されたことが知られるのは河内,摂津,播磨の3ヵ国である。このように正長1年には,京都,奈良だけでなく広い範囲にわたって一揆が蜂起したために,尋尊の《大乗院日記目録》には〈一天下の土民蜂起す,(中略)およそ亡国の基これにすぐべからず,日本開白(かいびやく)以来,土民の蜂起,これ初めなり〉と評されている。【黒川 直則】。…

【大乗院寺社雑事記】より

…興福寺大乗院第19世門跡尋尊(じんそん)の日記。その自筆本が,《寺務方諸廻請》12冊,《大乗院寺社雑事記》167冊,《尋尊大僧正記》20冊に分かたれ,内閣文庫に所蔵されている。…

※「尋尊」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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