小杉玄適(読み)こすぎげんてき

精選版 日本国語大辞典 「小杉玄適」の意味・読み・例文・類語

こすぎ‐げんてき【小杉玄適】

江戸中期の医者。名は在寛。字(あざな)は敬見。若狭福井県出身山脇東洋門下。若狭小浜藩侍医宝暦四年(一七五四京都所司代の許しを得、原松庵、伊藤友信とともに死刑囚解剖に立ち会い、杉田玄白人体解剖動機を与えた。享保一五~寛政三年(一七三〇‐九一

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「小杉玄適」の意味・わかりやすい解説

小杉玄適
こすぎげんてき
(1730―1791)

江戸時代の医師。山脇東洋(やまわきとうよう)とともに日本初の人体解剖を行った先駆者。若狭(わかさ)国(福井県)の人。名は在寛(ありひろ)、字(あざな)は敬見(けいけん)、号は玄適。若狭小浜(おばま)藩酒井忠用(ただもち)(1720―1775)の侍医であったが、1753年(宝暦3)古方(こほう)派の大家山脇東洋に入門、翌1754年、主君に願い出て死体を下げ渡され、これを解剖させ観察した。これはのちに山脇東洋が『蔵志(ぞうし)』として出版した。またその解剖後、杉田玄白(げんぱく)に人体解剖の実行を説くなど、先見の医家であった。

矢数道明

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朝日日本歴史人物事典 「小杉玄適」の解説

小杉玄適

没年:寛政3.1.7(1791.2.9)
生年:享保15(1730)
江戸中期の漢方医。日本で最初の公許による解剖を実現させた。名は在寛。佐治隆建の次男。のちに若狭国(福井県)小浜藩医小杉玄統(誠之)の養子となる。延享3(1746)年京都に出て,宝暦3(1753)年山脇東洋に師事。翌年小浜藩医原松庵,伊藤友信との連署で京都所司代に願い出て許可を受け,山脇東洋主宰の人体解剖を実現させ自らも解剖に加わった。同7年江戸詰になったとき,観臓の実況を小浜藩の杉田玄白に話し強い刺激を与えている。近代医学への扉を開いた山脇,杉田のふたりに大きな影響を与えた人物である。晩年は内科産科を開業し江戸で没した。<参考文献>日本学士院編『明治前日本医学史』5巻

(蔵方宏昌)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「小杉玄適」の解説

小杉玄適 こすぎ-げんてき

1730-1791 江戸時代中期の医師。
享保(きょうほう)15年生まれ。若狭(わかさ)(福井県)小浜(おばま)藩医。宝暦4年京都で刑死人の下げ渡しをうけ,師の山脇東洋らと日本初の人体解剖にたちあう。その記録は東洋によって「蔵志」として刊行された。のち江戸詰めとなり杉田玄白に解剖の模様をつたえた。寛政3年1月7日死去。62歳。本姓は佐治。名は在寛。字(あざな)は敬見。

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世界大百科事典(旧版)内の小杉玄適の言及

【杉田玄白】より

…堂号を小詩仙堂,天真楼といった。官医西玄哲にオランダ流外科を学んだが,その水準にあきたらず,同藩の僚友小杉玄適が京都の山脇東洋に学んで江戸に帰り,東洋の人体解剖や京都の古医方派の動向を伝えたのに刺激され,家業とする外科領域で新しい道を開く志を立てた(22歳)。こうして,中国の外科書を総ざらいし病門を整理して納得できる治法を集め,それに玄白が見聞した日本の経験的薬方や治法を加えて《瘍家大成》の編述を企てた。…

※「小杉玄適」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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