小石元俊(読み)こいしげんしゅん

精選版 日本国語大辞典 「小石元俊」の意味・読み・例文・類語

こいし‐げんしゅん【小石元俊】

江戸中期の医者。本姓林野。名は道。号大愚・碧霞。山城の人。永富独嘯庵古医方を学ぶ。西国を遊歴し、のち江戸でオランダ医学を修め、京坂に帰って著述に専念し、医学館究理堂を設立した。著に「元衍略義」「衛生堂医訣」など。寛保三~文化五年(一七四三‐一八〇八

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「小石元俊」の意味・わかりやすい解説

小石元俊
こいしげんしゅん
(1743―1808)

江戸後期の関西蘭医(らんい)学の開拓者。父は本姓林野(はやしの)、もと若狭(わかさ)小浜(おばま)藩国家老小石李伯(りはく)。山城(やましろ)国桂(かつら)村(京都市西京区桂)の生まれ。名は道、字(あざな)は有素(ゆうそ)、大愚、碧霞(へきか)山人と号す。元俊は通称。1750年(寛延3)父に従い大坂に移り、淡輪元潜(たんのわげんせん)(1729―1808)、さらに永富独嘯庵(ながとみどくしょうあん)について漢洋医学を修め、慈雲(飲光(おんこう))に参禅した。1764年(宝暦14)父の没後、数年間西国を歴遊して帰坂。1777年(安永6)京都に移り、開業のかたわら、皆川淇園(きえん)につき文技を磨き、『元衍(げんえん)』60巻を著し、陰陽五行説が実学に益のないことを強調した。1783年(天明3)伏見(ふしみ)で解剖実検を試みただけに『解体新書』に触発され、1786年江戸へ行き、前野良沢、杉田玄白大槻玄沢(おおつきげんたく)、石川玄常(1744―1815)らと論議を重ね、翌1787年帰京。火災にあい、1788~1796年大坂で開業(「衛生館」とよぶ)。1790年(寛政2)、間重富(はざましげとみ)とともに支援して橋本宗吉を大槻玄沢に学ばせ、オランダ語訳読の協力者とした。京都に移ったのちは著述に専念したが、1799、1800年江戸に行き、1801年(享和1)京都に医学館究理堂を設立、「実験」を旨として教育した。人物は豪快誠実、多くの医学者、文人と親交を結んだ。文化(ぶんか)5年12月25日没。墓所は京都市北区大徳寺町大徳寺塔頭(たっちゅう)孤篷庵(こほうあん)。著作に『元衍』『元衍略義』『学医要論』『有因心語』『衛生堂医訣(いけつ)』などがある。

[末中哲夫]

『山本四郎著『小石元俊』(1967/新装版・1989・吉川弘文館)』『京都府医師会医学史編纂室編『京都の医学史』(1980・思文閣出版)』

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朝日日本歴史人物事典 「小石元俊」の解説

小石元俊

没年:文化5.12.25(1809.2.9)
生年:寛保3.9.16(1743.11.1)
江戸後期の医者,解剖家。関西への蘭学導入者。名は道,元俊は通称。字は有素,号は大愚。父は若狭小浜藩主酒井家の家臣林野市之進(のち小石姓)。父浪人中に京都の桂村で生まれる。家計補助のため10歳のとき,大坂にいた九州柳河藩医淡輪元潜に,のち元潜の友人で長門の人永富独嘯庵 に医を学び頭角をあらわす。京都に移住し,皆川淇園に漢学を学び,河内の高僧慈雲に参禅した。西国を漫遊して医技を磨き,『西游再功』(未刊)を著す。明和6(1769)年大坂に開業,また京都に移住して天明3(1783)年橘南谿らと伏見で解剖を行う(『平次郎臓図』あり)。以後京坂の間に居住し,寛政8(1796)年から京都釜座通竹屋町に住み,医学塾究理堂を開く。同10年三雲環善らの解剖を主宰(『施薬院解男体臓図』あり),当時の医史に「元俊は解体者なり」とあり,自ら医家の名門山脇家の解屍に自分の関係せぬものはないという。杉田玄白の京遊の際訪問,天明6年東遊して旧交を温め,大槻玄沢宅に寓居。関西に蘭医学の優秀さを喧伝,山片蟠桃と協同で傘屋の橋本宗吉を玄沢門に入れ,のち蘭書を翻訳させた。のち2回丹後の田辺藩(舞鶴市)の藩主を江戸で診療,嗣子元瑞を伴う。畢生の著書『元衍』は火事で焼け,再び稿を起こしたが成らなかった。また築造術,造船術なども学ぶ。武士的風格を持ち,医は国を医すという信念を持つ。小石家(究理堂文庫)は蘭学研究の宝庫。

(山本四郎)

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百科事典マイペディア 「小石元俊」の意味・わかりやすい解説

小石元俊【こいしげんしゅん】

医家。山城桂村生れ。永富独嘯庵に古医方を学ぶ。1769年大坂で開業,1783年橘南谿らと刑死体を解剖し《平次郎臓図》を作る。1786年江戸へ出て杉田玄白大槻玄沢に師事,帰国後京坂を往来して《解体新書》を講義。木村蒹葭堂と交わり,また間(はざま)重富と計り傘師橋本宗吉を玄沢に入門させ,また子の元瑞〔1784-1849〕も玄沢につかせるなど京都蘭学の開拓者となった。
→関連項目橋本宗吉

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「小石元俊」の解説

小石元俊 こいし-げんしゅん

1743-1809* 江戸時代中期-後期の医師。
寛保(かんぽう)3年9月16日生まれ。淡輪(たんなわ)元潜らにまなぶ。天明3年(1783)橘南谿(たちばな-なんけい)らと人体解剖をおこない,「解体図平次郎解剖」を作成。江戸の杉田玄白らと親交をもち,京都に私塾の究理堂を設立し蘭方医をそだてた。文化5年12月25日死去。66歳。京都出身。名は道。字(あざな)は有素。号は大愚,碧霞(へきか)。著作に「元衍(げんえん)」「究理堂医訣(いけつ)」など。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「小石元俊」の意味・わかりやすい解説

小石元俊
こいしげんしゅん

[生]寛保3(1743).若狭
[没]文化5(1808).京都
江戸時代中期の蘭方医。名は道,字は有素,号を大愚または碧霞という。もと林野氏。淡輪元潜 (たんのわげんせん) ,永富独嘯庵に医学を学び,京都,大坂で開業。 40歳頃に江戸で蘭学を学び,京都に戻って蘭学を普及させるとともに人体解剖を盛んに行い,平次郎臓図など,解剖絵巻を残した。

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367日誕生日大事典 「小石元俊」の解説

小石元俊 (こいしげんしゅん)

生年月日:1743年9月16日
江戸時代中期;後期の医師;解剖家
1809年没

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