活版印刷は小説を産業化し、だれでも買える値段で量産される小説は、ルネサンス以後、急速に発展した市民階級の一般的娯楽として大いに普及した。そして、この量産のシステムは、近代、現代においても同様である。しかし、小説そのものは時代とともに変化する。いつまでも騎士道物語が続くわけではない。「知的世界観に関する限り、近代は17世紀に始まった」と、ラッセルBertrand Arthur William Russell(1872―1970)はその『西洋哲学史』に書いている。そして、ティコ・ブラーエの天体観測データを基にしてケプラーが発見した惑星運動の三法則を紹介している。すなわち、惑星の軌道は楕円(だえん)であり、太陽はその焦点の一つにすぎない、というものである。ケプラーによるこの宇宙楕円説は、完全なるもの=円という、それまでの観念を打ち砕いた。世界の中心は一つではない。つまり、世界の形が変わったのである。
セルバンテスの『ドン・キホーテ』(1605、1615)の出現は、小説の世界におけるケプラー説だともいえるだろう。もちろん、この小説は、ある日突然生まれたのではない。スペインにはセルバンテスの前に、16世紀なかばごろ『ラサリーリョ・デ・トルメスの生涯』という、作者不明のピカレスク小説novela picarescaが存在していた。ピカレスク小説は、普通「悪漢小説」とよばれているが、わかりやすくいえば、世の中の形式主義を裏返しにして滑稽(こっけい)化する、暴露的、喜劇的リアリズムである。
この小説の主人公はもともとは農民であった。ところが騎士道物語に読みふけり、ついに猟も畑仕事もしなくなったばかりか、畑を売ってはロマンスを買い込む。買い込んではむさぼり読む。そしてついに騎士道物語のヒーローと同一化する。ときに彼、50歳。彼は「世の不正、不条理と戦うべし」という「騎士道」の声を聞く。それは同時に「甘美で高尚な」恋の夢想と結び付く。そしてついに、古ぼけた鎧兜(よろいかぶと)に身を固め、長槍(やり)を抱き、痩(や)せ馬ロシナンテにまたがって遍歴の途につく。その遍歴に、途中から農民の従者サンチョ・パンサが加わる。しかし2人の関係は、絶対的な縦の主従関係とはならず、楕円の二つの焦点のように横に並んでいる。ドン・キホーテのすべての行為、すべてのことばは、彼が読みふけった騎士道物語の「模倣」なのである。一方、サンチョ・パンサはリアリスト、ピカロである。ドン・キホーテの夢想と狂信は、サンチョの目によって笑われ、批評される。
[後藤明生]
『ドン・キホーテ』は、ロマンスによってつくられたロマンスのパロディーであり、ロマンスの模倣とその批評による楕円である。そして、その楕円の遍歴は、そのまま近代小説の出発となった。つまり、1605年は「近代小説元年」となった。
[後藤明生]
つまり『ドン・キホーテ』は、単なる一小説作品であることを超えて、近代小説における普遍的な「ドン・キホーテのテーマ」となった。文学における普遍的なテーマは、神話、伝説、説話、民話、童話などに起源をもつものが多い。たとえば「オイディプスのテーマ」などは、ギリシア神話が生んだもっとも代表的なテーマの一つだろう。また、「変身のテーマ」「分身のテーマ」などは、世界中の神話、伝説、説話、昔話、童話にみられるし、錬金術、中国の道教(タオイズム)、シャーマニズムの世界構造、仏教の輪廻転生(りんねてんしょう)思想、ソクラテスの霊魂論などにもみられる。オウィディウスの『転身譜』は、ギリシア神話中の「変身のテーマ」のコレクションであり、そのほか「貴種流謫(るたく)のテーマ」「シジフォスのテーマ」などがよく知られている。
小説が、先行するさまざまなジャンルを模倣すると同時に批評するという、そもそもの発生において「混血的」「分裂的」なジャンルであることは、プラトンの『饗宴(きょうえん)』を例にあげて始めに述べた。そして、ここでいう「普遍的なテーマ」というのは、その場合の先行する、あるいは同時代において隣接する、一つのジャンルと同じ性質をもつもの、という意味である。つまり、『ドン・キホーテ』は単なる一小説作品であることを超えて、一つのジャンルとなった。したがって、それをいかに意識し、それといかに格闘するかが、それ以後の近代小説の宿命となった。と同時に、それは、さまざまに模倣され批評されることにより、無限の変奏を可能にする普遍的なテーマなのである。
[後藤明生]
19世紀は、「小説の黄金時代」とよばれている。その理由はいろいろ考えられるが、その一つは、この世紀の世界文学にアメリカ文学とロシア文学が加わったことである。
フランスでは、大革命のあと英雄ナポレオンが登場したが、そのモスクワ遠征軍にスタンダールも一将校として参加していた。彼は雪のなかを命からがら敗走し、そして2年後、ナポレオンの失脚によって、その文学は開始された。『赤と黒』は、スタンダールが心酔したナポレオン時代のあとにきた王政復古時代における作者の挫折(ざせつ)感とルサンチマン(怨念(おんねん))の産物である。彼は、美青年ジュリアン・ソレルと美貌(びぼう)の人妻レナール夫人の姦通(かんつう)事件を枠組みにして、貴族と僧侶(そうりょ)が支配する社会のシステムを暴露した。同時に、この小説は通俗恋愛心理学の教科書にもされたが、それは、男女の心理が徹底して紋切り型に分析されているためである。ジュリアンは、そのような紋切り型的恋愛心理学をロボットのごとくに実践するドン・キホーテだともいえる。
[後藤明生]
フロベールの『ボバリー夫人』も姦通小説である。女主人公エンマ・ボバリーは、修道女学校の寄宿舎でこっそり恋愛小説に読みふける。『ポールとビルジニー』その他、書名もあれこれ小説中に出てくる。彼女の頭のなかはそれら通俗恋愛小説の類型的場面でいっぱいになる。彼女はやがて田舎(いなか)医師ボバリーと結婚するが、その日常は、かつて頭のなかを満たしていたロマンスとは似ても似つかぬ退屈な世界であった。そこで彼女は、頭のなかを埋めていたロマンスを実行する。2人の男と姦通し、借金に追い込まれ、自殺する。つまり、この小説は、騎士道物語を読みすぎて騎士道のロボットになったドン・キホーテの女性版ともいえる。また、恋愛心理学のロボットであったジュリアンの女性版だ、といえないこともない。
この小説は、「ボバリー夫人は私だ」という作者の謎(なぞ)めいた名文句とともに近代文学史上不滅である。実際、この「名文句」の解釈をめぐって、いまなお日本では決着がつかず、「私小説」論を混乱させている。それだけでも、日本の近代小説とは切っても切れない小説だといえる。
この小説の思想は、ルソーのロマン主義の終焉(しゅうえん)、ということだろう。エンマの自殺は、当時の実証主義という非人間的な思想と、近代経済の原則によるシステムに支配された社会におけるロマンス病患者の死を意味する。では、「ボバリー夫人は私だ」という名文句はどうなるのか。
それは「写実」というこの小説の方法と無関係ではない。つまり作者は、「ロマンス=騎士道物語をただ退屈にしただけではないか」といわれるような物語を、ほとんど無表情に、人物の外側から描写し続ける。したがって、もし「ボバリー夫人は私だ」とすれば、それは「私」の描写だということになる。そして、それが退屈であるのは、実証主義や実験医学の代理人としての、医師であり夫であるボバリー氏の凡庸さのせいであり、また「借金」によるボバリー夫人の自殺は、「近代経済」の原則ということになるのだろう。
つまり、フロベールは、彼自身と社会の関係式を、ボバリー夫人と田舎医師ボバリー氏の関係に置き換えた。この関係式の変換が、彼の写実主義的虚構=リアリズム・フィクションである。そしてそれが彼の思想であり、方法であった。では、例の「名文句」はどうなるのか。それは、たぶんフロベールが心理的にちょっと気どってみたのであろう。つまり、「ボバリー夫人は私の分身だ」といえば、話は簡単だったのである。それが虚構というものの基本だからである。
フロベールと同時代のフランスでは、バルザック、ゾラ、モーパッサンたちが活躍した。彼らの文学はフランス自然主義とよばれ、いずれも日本の明治以後の小説に大きな影響を与えた。ある意味で彼らの影響は、フロベールよりも大きかった。近代写実主義の基本にもっとも忠実であったフロベールの方法=リアリズム・フィクションが、日本ではもっとも理解されにくかったのである。
[後藤明生]
ドイツでは、フランス中心主義に抵抗して、いわゆる「シュトゥルム・ウント・ドラング」運動(1770~1780)がおこった。そして、ドイツ文化の自立をスローガンとするこの運動のなかから、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』が生まれ、そのロマン主義は全ヨーロッパを刺激した。また、彼の『ウィルヘルム・マイスターの修業時代』(1796)は、ドイツ教養小説=ビルドゥングスロマンの規範をつくった。
[後藤明生]
18世紀の後半にヨーロッパから分離した新しい国アメリカには、当然のことながら文学的伝統も古典もなかった。したがってポーはギリシア、ヨーロッパの古典から出発したが、短編の形式で書かれた彼の幻想・怪奇小説は19世紀を代表するだけでなく、20世紀文学にもさまざまな影響を与えている。
その一つは「都市のテーマ」である。近代の巨大都市は、土地や故郷を喪失した無数の根なし草人間を生んだ。彼らは群衆のなかで「ひとりごと」をいう。不安定な意識は分裂し、錯乱、妄想、幻想などを育て、犯罪が生まれる。街路、ビルディング、アパート、密室などから、ポーは小説の新しい空間を創造した。ロンドンの街をただ歩き続ける『群衆の人』は、その代表作である。『モルグ街の殺人』『マリー・ロージェの秘密』はパリが舞台である。それらの都市小説は近代推理小説の原型となり、日本にも日本近代推理小説を代表する江戸川乱歩(らんぽ)が誕生した。また、「分身のテーマ」による『ウィリアム・ウィルソン』(1839)は、スティーブンソンの『ジキル博士とハイド氏』より約50年早く書かれている。
[後藤明生]
短編小説のポーに対して、19世紀アメリカの長編小説の代表作はメルビルの『白鯨』である。伝説的な幻の白鯨を追い求める捕鯨船ピークォド号の船長エイハブの名は、『旧約聖書』「列王紀」の異教徒の王からとられている。また、最後にただ一人生き残ってこの物語の語り手となっているイシュメールは、『旧約聖書』「創世記」中のアブラハムの私生児の名である。そして、この小説全体は、『旧約聖書』「ヨブ記」のパロディーだともいえる。つまり、深淵(しんえん)の大魔王モービー・ディックは「ヨブ記」のレビアタンであり、それに挑戦するエイハブは、エホバの神に反逆するヨブだともいえるからである。
しかし、この小説が20世紀まで認められなかったのは、そのためではない。この小説の方法のためである。全133章からなる小説のうち、実際に白鯨を追跡し、白鯨と格闘する場面は最後の3章にすぎない。あとは、『旧約聖書』、ギリシア神話、哲学、歴史、考古学、航海史、錬金術、捕鯨史、海洋伝説、新聞記事その他、そのほか世界中の鯨に関する書物の断片を組み合わせた、書物による織物である。つまり、あらゆるジャンルを巨鯨のように呑み込んだ、超ジャンルとしての小説の見本のような小説だといえる。
この小説の扉には、『緋文字(ひもんじ)』の作家ナサニエル・ホーソンへの献辞が掲げられている。しかし、そのホーソンにも認められなかった。
南北戦争(1861~1865)後のアメリカでは、マーク・トウェーンが『トム・ソーヤの冒険』『ハックルベリ・フィンの冒険』などを書いた。俗語、方言、ほら話などをふんだんに用いた彼の小説は、アメリカ型の新しいピカレスク小説といえるだろう。
[後藤明生]
ロシアの近代は、ピョートル大帝(1世)のペテルブルグ(サンクト・ペテルブルグ)建設によって始まった、といえる。「ヨーロッパよりもヨーロッパ的な都市」というスローガンによるこの近代ロシアの首都は、1712年に完成した。そして、ロシアの近代小説は、ペテルブルグ抜きには考えられない。「ヨーロッパよりもヨーロッパ的な都市」とは、どんな都市か。それは古代ギリシア、ローマの様式から、ゴシック様式、ルネサンス様式、バロック様式、そして近代都市ロンドン、パリに至る建築様式のすべてを同時に並べた都市であった。ロシアは、いわゆる「タタールのくびき」といわれるモンゴルの支配によって、13世紀なかばごろから15世紀末までの約250年間、西欧との交流が断絶した。その250年の遅れを一挙にゼロ化しようとしたピョートル大帝の野心と夢を実現した空間、それがペテルブルグである。
ドストエフスキーは『地下室の手記』のなかで、ピョートル大帝が「西欧への窓」とよんだこの首都を、この地球上でもっとも人工的な街だ、と書いている。実際、ペテルブルグは、フィンランド湾に注ぐネバ川(ネバはフィンランド語で「泥」の意味)の河口の湿地帯の上に、突然、蜃気楼(しんきろう)のように出現した都市である。そのために、この街はいずれ神の怒りに触れて消滅するであろう、と噂(うわさ)されたらしい。ロシアの旧貴族たち、ギリシア正教会の高級僧侶(そうりょ)たちにとっては、ロシアの中心は絶対にモスクワでなければならなかったのである。
しかしピョートルは断固として西欧化を強行した。そのためには、彼を「アンチ・クリスト」よばわりした実弟アレクセイを処刑することさえ辞さなかった。そして、ギリシア語からつくられた古い教会スラブ語の文字を新アルファベットに変え、新しい官僚機構制度をつくり、ロシア文学でおなじみの「官等」を制定した。そして、モスクワ時代の旧貴族たちにとって「黄金時代の象徴」であった、スラブ派の「髭(ひげ)」を剃(そ)り落とすことを命じた。
これがピョートルによるロシアの文明開化である。その手本はフランスで、フランス語が、貴族、知識階級、官吏の公用語となった。この徹底した文化大革命は、スラブ派(スラボフィル)と西欧派(ザーパドニキ)の分裂を生み、それは、19世紀に入って、知識人を二分する「スラブ派」対「西欧派」の大論争となった。そして、同時にそれは、19世紀の近代ロシア小説の一大テーマでもあった。すなわち、「露魂(ろこん)」と「洋才」の分裂=混血のテーマである。
この「露魂」「洋才」の分裂=混血のテーマは、そのままペテルブルグという都市のテーマでもあったといえる。実際ペテルブルグは、スラブと西欧の分裂=混血による近代ロシアの象徴であり、ほとんどメタファーであった。つまり、この首都を描くことは近代ロシアを描くことであり、近代ロシアを描くためには、この首都を描かなければならなかった。なにしろペテルブルグは、ロシアであってロシアでなく、ロシアでもあればヨーロッパでもあり、ロシアでもなければヨーロッパでもない、そういうロシアの首都だったからである。
いわばペテルブルグは、それ自体がすでに、都市というフィクションであった。そして、プーシキン、ゴーゴリ、ドストエフスキーは、この首都をそれぞれの方法で描いた。
[後藤明生]
ロシアの近代小説はプーシキンの『エウゲーニー・オネーギン』(1825~1832)に始まる。彼は貴族の子弟が学ぶ学習院(リツェイ)時代、早くもその才能を認められ詩人として出発した。そしてイギリスの反逆貴族バイロンの影響を受けたが、『オネーギン』においては、すでにバイロンはパロディー化されている。つまり、この小説の主人公オネーギンは、いわばバイロンの『チャイルド・ハロルドの遍歴』を読みすぎて、自らロシアのチャイルド・ハロルドを演じるドン・キホーテとして描かれている。また女主人公のタチヤーナは、これまでの解説では、ロシアの美と魂を代表するロシア女性の理想像ということになっている。しかし、オネーギンに本心を打ち明けようとしてペンをとると、いつのまにかその手紙はフランス語になっていた、とプーシキンは書いている。
オネーギンは、ルソー、アダム・スミスを読み、ラテン語のエピグラム、ホメロスやオウィディウスの一節を暗誦(あんしょう)し、もちろんフランス語は自由自在という貴族青年である。これはほとんど作者の分身といえるが、プーシキンはそれを、「ロンドン仕立てのマントを着たペテルブルグっ子」「ロシア製ヨーロッパ人」の典型として描いている。
この小説は、実は韻文で書かれている。しかし、そこには、叙情詩、叙事詩、風刺詩、自作批評、茶番、悪ふざけや噂話、古典や同時代文学者の文体模写、引用など、あらゆるジャンルのレトリック、文体が自由自在に取り入れられている。それが、スラブと西欧の混血=分裂を自己喜劇化するプーシキンの方法だったのである。同時に彼は、ゴーゴリの「笑い」の最初の発見者でもあった。
[後藤明生]
プーシキンが近代ロシアの反逆貴族だとすれば、ウクライナからペテルブルグに出てきたゴーゴリは「さまよえるロシア人」であった。最初彼は、ウクライナ地方の、魔女や妖精(ようせい)などが出没するフォークロアを素材にした『ジカニカ近郷夜話』(1831)でデビューし、プーシキンに認められた。
しかし、やがて彼のテーマはペテルブルグそのものに移り、『ネフスキー大通り』『狂人日記』『鼻』そして『外套(がいとう)』を書いた。これらは「ペテルブルグもの」とよばれる、ロシア文学の新しいジャンルとなった。ロシア文学の、というより世界文学の新しいジャンルといったほうがよいであろう。
ポーの都市小説とゴーゴリの「ペテルブルグもの」との決定的な相違は、次の点である。ポーは、近代巨大都市の産物である「根なし草人間」を、見知らぬ他者たちの群れのなかを1人で歩き続ける「群衆の人」として描いた。それに対してゴーゴリは、ペテルブルグという分裂=混血都市を、人間関係の謎(なぞ)の空間、迷路としてとらえた、ということである。
[後藤明生]
たとえば『鼻』は、八等官の鼻がある朝突然消えてなくなっていたという「事件」で始まる。彼は新聞に鼻探しの広告を出そうとするが、係員との会話はまるでトンチンカンである。警察署長宅へ出かけて相談をもちかけるが、話せば話すほど会話はどんどんずれていく。このずれが、ゴーゴリにおける人間と人間の、謎としての関係である。迷路としての関係である。このずれは悪夢的な不条理だともいえる。悪夢は原因不明の恐怖である。しかし、ゴーゴリはただ『鼻』という奇怪なる悪夢を描いてみせたのではない。彼は悪夢の方法によって、アイデンティティを喪失した都市人間の意識の分裂を表現した。また『鼻』には「分身のテーマ」も含まれている。それはドストエフスキーの世界につながる。また20世紀のカフカにもつながる。「悪夢の方法」も同様である。『外套』は、ゴーゴリの喜劇の方法を考えるうえでもっとも典型的な作品だといえる。それはひとことでいえば、ロシア・フォルマリストの一人ボリス・エイヘンバウムが『ゴーゴリの「外套」はどのように作られているか』(1919)において指摘したとおり、「語り」という方法による「素材」の「異化」である。この中編小説の主人公はすでに世界中に広く知れわたっている。彼は40を過ぎてまだ独身の万年九等官である。彼は新しい外套を買うためにお茶代まで節約する。しかし、ようやく新調された外套は、何者かによって、あっというまに奪われ、哀れな九等官は死ぬ。そして、その幽霊が他人の外套を剥(は)ぎ取るという噂がペテルブルグ中に広がる。
つまり、この小説の素材、ストーリーは「哀話」であった。しかし小説『外套』は世界中のだれが読んでも喜劇である。そして、この謎を「知恵の輪」のように鮮やかに解いてみせたのが、ロシア・フォルマリズムの「異化理論」であった。すなわち、ゴーゴリは「語り」=「文体」という方法によって、あたかも錬金術のごとく、哀話としての素材を喜劇に「異化」したのである。この『外套』論は、ベリンスキー以来のリアリズム理論によるゴーゴリ解釈を「コペルニクス的」に反転させた。同時にこの理論は、始めに紹介したプラトンの方法論にそのまま通じる。
[後藤明生]
「われわれはみなゴーゴリの『外套』から出てきた」とドストエフスキーはいった。これはなにもロシア文学に限らず、小説は先行するテキスト=作品の「模倣と批評」から生まれるという意味において、普遍的な小説論であり、また小説史論であるということができる。事実、1846年に出現したドストエフスキーの『貧しき人々』は、文字どおりゴーゴリの『外套』の「模倣と批評」そのものである。この小説は、中年を過ぎた貧しい独身の九等官と、貧しいみなしごの娘との往復書簡体であるが、この九等官の外的=社会的条件はほとんど『外套』の九等官そっくりである。ただ、決定的な違いは、『外套』の九等官がほとんど自分のことばをしゃべらない、いわば黙示録的存在であるのに対して、ドストエフスキーの九等官は少女への手紙のなかで徹底的にしゃべりまくる。つまり、ゴーゴリが、九等官を外部から描き出したのに対して、ドストエフスキーは、外的条件において『外套』の主人公とそっくりの九等官を内面から描いた。
そして大胆不敵にも、作中の九等官に『外套』を読ませ、あんな九等官などペテルブルグには存在しない、といわせている。つまり小説のなかで小説を批評する。いわば「九等官のテーマ」を変奏した「メタ小説」であるが、この小説のもう一つのテーマは「三角関係のテーマ」である。『外套』は、外套を奪われる物語であり、『貧しき人々』では、ある日突然出現した中年の地主に少女を奪われるのである。少女がすでに地主の馬車で出発したあと、九等官は「私はこれからだれあてに手紙を書けばいいんです」と書く。この最後の訴えは、なるほど悲痛である。しかし彼は同時に、「あちらへ着いたらまた手紙を下さい」とも書いている。ここで九等官は、単なる老いたる失恋者から「夢想家」に変貌(へんぼう)する。彼の悲痛さは、現実的なものから幻想的なものとなる。その後もドストエフスキーは、この「夢想家のテーマ」「三角関係のテーマ」を、さまざまな組合せによって繰り返し書き続けた。シベリア流刑(1849~1859)以前の代表作『分身』は、「夢想家」「三角関係」に「分身のテーマ」が結び付いたものといえる。
[後藤明生]
ドストエフスキーの作中人物の意識や思想やイデオロギーや行動は、文芸評論家や専門の研究家だけでなく、世界中の哲学者、宗教学者、精神分析学者などによってさまざまに分析されたり、定義づけられたりしてきた。しかし、その最大のテーマは、『地下室の手記』の「語り手」=「私」による次のことばによって総括できる。「ヨーロッパの知識教養を身につけたために、ロシアの大地と国民的本質から切り離された人間、それがわがロシアの知識人である」。
すなわちそれは、スラブと西欧との混血=分裂のテーマであり、「露魂」と「洋才」との混血=分裂のテーマであり、楕円形ロシアのテーマである。プーシキンの『オネーギン』以来のこのテーマは、『地下室の手記』と『悪霊』にもっともはっきりと表れている。そしてドストエフスキーはこのテーマを、ロシア・フォルマリストの一人ミハイル・バフチンが、その『ドストエフスキイ論――創作方法の諸問題』のなかで「ポリフォニー」(多声法)と名づけた方法によって表現したのである。
[後藤明生]
また、バフチンは、ドストエフスキーの作品はその全体が「対話的構造」をもっている、という。彼の作品ではモノローグでさえ対話的だ、という。この「対話」は、現実的な場における実際の「会話」とは限らない。意識=自己の内部における、他者の意識との関係である。つまり、ゴーゴリが、ずれとしての他者との関係を会話の形で外部から書いたのに対して、ドストエフスキーは、そのずれとしての他者との関係を内部から書いた。そのもっともわかりやすい一例は、『地下室の手記』における、「私」と下男アポロンとの関係だろう。そしてその両者の関係は、『ドン・キホーテ』におけるドン・キホーテと従者サンチョ・パンサとの楕円的関係にそのまま重なる。と同時に、その分裂し混血した楕円形は、ほかならぬドストエフスキー自身の内面=自意識の形でもあった。
つまり、これまでしばしば問題にされてきた、彼が西欧派であったかスラブ派であったかという分類は、あまり意味をもたない。「現代は産業の世紀です」と彼は早くも『分身』の主人公にいわせていた。「もはや、ルソーの時代ではないのです」ともいわせている。彼の意識には、当然のことながら、ルソー的な「自然」としての純潔な「内面」は存在しえなかった。と同時に、フロベールのように、実証主義によってシステム化されたブルジョア社会=外部を、「愚劣なる俗物」として「嫌悪」し「軽蔑(けいべつ)」すればすむというものでもなかった。なぜならば、フロベールの「私」=「内面」は、外部を嫌悪し、軽蔑するという形でまだ一貫している。ところが、そのフロベールにおける「私」=「内部」と社会=外部との対立関係が、ドストエフスキーにおいては、すでに、そのまま、ほかならぬ彼自身の意識であり、内面だったからである。つまり、ドストエフスキーにとって、スラブと西欧との混血=分裂都市ペテルブルグは、もはやフロベールにとっての外部=社会ではなく、彼自身の内部そのものがペテルブルグと同じ形に“破裂”してしまっていた。そして、ポリフォニーの文体は、その“破裂”した「私」=「内面」を自己喜劇化する方法だったのである。ドストエフスキー作品の自己意識と方法は、19世紀の境界を超えて、すでに20世紀に突入している。
[後藤明生]