小野篁(読み)おののたかむら

精選版 日本国語大辞典 「小野篁」の意味・読み・例文・類語

おの‐の‐たかむら【小野篁】

平安前期の公卿、漢学者。歌人。「凌雲集」の撰者、岑守の子。従三位参議に至る。承和元年遣唐副使となったが、船舶のことで大使藤原常嗣と争い、「西海謡」を作って遣唐の役を風刺したため、一時、隠岐国へ流された。「令義解」の編纂に携わり、その序文を草した。詩文は「経国集」「扶桑集」「本朝文粋」などに見える。野相公(やしょうこう)と称せられる。「篁物語(集)」は後人の作。延暦二一~仁寿二年(八〇二‐八五二

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デジタル大辞泉 「小野篁」の意味・読み・例文・類語

おの‐の‐たかむら〔をの‐〕【小野篁】

[802~853]平安前期の漢学者・歌人。清原夏野らとともに令義解りょうのぎげ編纂へんさん。遣唐副使となったが大使と争って行かず、隠岐おきに流され、のち許されて参議となる。詩文は経国集和漢朗詠集扶桑集に、和歌は古今集などに収載。野宰相やさいしょう。野相公。

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改訂新版 世界大百科事典 「小野篁」の意味・わかりやすい解説

小野篁 (おののたかむら)
生没年:802-852(延暦21-仁寿2)

平安時代の漢詩人,歌人。野宰相,野相公などと称される。岑守(みねもり)の子。岑守は《内裏式》《凌雲集》などの撰者として高名だが,その子篁は若年のころ弓馬に熱中して学問を顧みなかったため嵯峨天皇を嘆かせた。これによって一念発起した篁は学業に精励し,822年(弘仁13)文章生の試験に及第し,以後巡察弾正,弾正少忠,大内記,蔵人,式部少丞,大宰少弐等を歴任,833年右大臣清原夏野らとともに撰述した《令義解(りようのぎげ)》の序文を書いた。同年東宮学士,弾正少弼となり,834年遣唐副使に任命されたが,翌々年進発した遣唐船は難破して渡航に失敗,さらに翌年の渡航も失敗した。838年の3度目の渡唐に際して,篁は大使藤原常嗣の専横に抗議し,病と称して出航を拒み《西道謡(さいどうよう)》という詩を作って風刺したため嵯峨上皇の怒りに触れ,隠岐国に配流された。この道中に制作した《謫行吟(たつこうぎん)》七言十韻は時人を感動させたが,《西道謡》とともに今は伝存しない。《小倉百人一首》の〈わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人にはつげよ海人の釣舟〉の歌はこの時の詠である。840年京に召還され,翌年本位に復し,刑部大輔,陸奥守,東宮学士,蔵人頭,左中弁等を経て847年参議に昇進し弾正大弼を兼ねた。852年に左大弁となり同年病没した。《文徳実録》の篁卒伝に〈当時文章天下無双〉と述べられ,《三代実録》に〈詩家ノ宗匠〉と称された篁には《野相公集》5巻が存在したというが現存せず,その作は《経国集》に2首,《扶桑集》に4首,《本朝文粋》に4編,《和漢朗詠集》に11首,《新撰朗詠集》に3首,《今鏡》《河海抄(かかいしよう)》にそれぞれ1首を伝えるにすぎない。和歌は《古今集》に6首入集。なお《新古今集》以下の6首は後人の作たる《篁物語》よりの撰入ゆえ篁の実作とは考えがたい。篁は多情多感な博識の英才自恃(じじ)するところ高く,直情径行,世俗に妥協せぬ反骨の士であり,野狂の異名がある。その奇才に因由する数々の話柄が《江談抄》《俊頼口伝》《今昔物語集》《宇治拾遺物語》等に伝えられている。唐の白楽天と詩境を同じくする才幹であることを称揚する説話は篁を9世紀の漢風謳歌時代を代表する詩人として理想化する伝承だが,その他隠岐配流事件をめぐる和歌説話,篁を冥官とする蘇生説話などがある。なお異母妹との恋愛談や大臣の娘への求婚談から成る《篁物語》は虚構であり,その成立時期については,諸説があるが,平安中期から鎌倉初期までの間と推定される。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「小野篁」の意味・わかりやすい解説

小野篁
おののたかむら
(802―852)

平安前期の漢詩人、歌人。小野妹子(いもこ)の子孫で、父は『凌雲(りょううん)集』の撰者(せんじゃ)小野岑守(みねもり)。一族に書家道風(とうふう)や武人好古(よしふる)がいる。参議に任ぜられて、野宰相(やさいしょう)、野相公(やしょうこう)などとよばれた。多感、俊才、あるとき嵯峨(さが)天皇が『白氏文集(はくしもんじゅう)』の一節を一部変えて示したところ、白楽天のもとの詩にまったく同じように改めたとか、「子」の字を12並べたのを、「猫の子の子猫、獅子(しし)の子の子獅子」と読んで頓才(とんさい)を示したとか、詩のすばらしさから、大臣藤原三守(みもり)の婿になれたとか、その才人ぶりは、説話化されてではあるが、『宇治拾遺物語』『十訓抄(じっきんしょう)』『江談抄(ごうだんしょう)』などにさまざまな形で伝えられている。自らをたのむところもまた強かったらしく、838年(承和5)の遣唐使派遣の際には、トラブルを起こして乗船を拒否し、ために隠岐(おき)国(島根県)配流という憂き目にもあっている。現存している作品はきわめて数が少ない。わずかに『経国(けいこく)集』以下に詩文が、『古今和歌集』以下に和歌が残されているにすぎず、大部分は散逸したようである。なお家集として『小野篁集』があるが、これは『篁物語』『篁日記』などともよばれており、実は篁説話を素材とした後人の手になる作品と考えられる。

 わたの原八十(やそ)島かけて漕(こ)ぎ出でぬと人には告げよあまの釣舟
[久保木哲夫]


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百科事典マイペディア 「小野篁」の意味・わかりやすい解説

小野篁【おののたかむら】

平安前期の漢詩人,歌人。岑守の子。小野妹子の子孫。小野道風は孫。通称,野相公,野宰相。《令義解》の序を書き,文名が高く,草隷の書をよくした。遣唐副使となったが大使と争い,838年―840年隠岐国に流された。漢詩は《経国集》《本朝文粋》等に,和歌は《古今和歌集》等に入集。また後人の作になる《篁物語》の主人公。篁はその直情径行により野狂とも呼ばれる一方,広い分野における才能は《江談抄》《今昔物語集》などに伝えられる。
→関連項目百鬼夜行横山党

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朝日日本歴史人物事典 「小野篁」の解説

小野篁

没年:仁寿2.12.22(853.2.3)
生年:延暦21(802)
平安前期の公卿,文人。『凌雲集』の選者岑守の子。嵯峨天皇が武芸好きの篁をみて,父に似ぬ子と慨嘆したと聞いて発憤,学問に専心するようになったといい,その型破りの性格から野狂(粗野と小野を兼ねる)と称された。「無悪善」という落書きを,「サガ(悪)無クバ,善カリナマシ」(嵯峨天皇がいなかったら世の中がよくなるのに)と詠んで嵯峨の怒りを買ったというエピソードもある(『江談抄』)。承和1(834)年遣唐副使に任命されたが,同5年,3度目の出発のとき,大使藤原常嗣から篁の船を求められたことに憤慨,病気と偽って乗船を拒否したため隠岐に配流された。その際「西道謡」をつくって渡唐を批判したというが,詩は伝えられていない。2年後召還され,同14年,参議。博識多才で漢詩は白楽天,書は王羲之父子に匹敵するといわれたほど。『経国集』『和漢朗詠集』『古今集』などに作品を残すほか,『令義解』の編集にも携わった。冥土へ往来したとか,冥官(地獄の閻魔王の庁の役人)になったといった類の逸話が多く(『今昔物語』『江談抄』),珍皇寺(京都市東山区)や千本閻魔堂(引接寺,上京区)にはそうした伝承がある。隠岐(島根県)にも篁にまつわる幾つかの伝承を残す。京都市北区にある紫式部のそれと並ぶ土まんじゅうが,古来篁の墓とされてきた。

(瀧浪貞子)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「小野篁」の解説

小野篁 おのの-たかむら

802-853* 平安時代前期の公卿(くぎょう)。
延暦(えんりゃく)21年生まれ。小野岑守(みねもり)の長男。文章生(もんじょうしょう)となり,のち「令義解(りょうのぎげ)」の編集にくわわる。天長10年東宮学士。承和(じょうわ)元年遣唐副使となるが,5年大使とあらそって乗船せず,隠岐(おき)(島根県)に流された。のちゆるされて14年参議。従三位,左大弁。漢詩,和歌にすぐれ「扶桑集」「和漢朗詠集」「古今和歌集」などに作品がある。仁寿(にんじゅ)2年12月22日死去。51歳。通称は野相公,野宰相。
【格言など】わたの原八十島(やそしま)かけて漕(こ)ぎ出でぬと人には告げよ海人(あま)の釣舟(「小倉百人一首」)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「小野篁」の意味・わかりやすい解説

小野篁
おののたかむら

[生]延暦21(802)
[没]仁寿2(852).12.22.
平安時代前期の漢詩人,歌人。小野妹子の子孫で,岑守 (みねもり) の子。少年時代弓馬に熱中したが,嵯峨天皇のいさめで学業に励んで大学に学び,『令義解 (りょうのぎげ) 』の撰定に加わった。承和5 (838) 年遣唐副使となったが病と称して渡航せず,隠岐国に流された。許されたのちに陸奥守などを経て参議にいたった。その博識,詩才は世に重んじられ,奔放な性格は野狂 (やきょう) と称された。また書家としても知られ,のちに彼を主人公にして『篁物語』が書かれている。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「小野篁」の解説

小野篁
おののたかむら

802~852.12.22

平安初期の公卿。岑守(みねもり)の子。最高官位にちなみ野宰相(やさいしょう)・野相公(やしょうこう)と称される。822年(弘仁13)文章生(もんじょうしょう),833年(天長10)東宮学士をへて834年(承和元)に遣唐副使に任命される。しかし2度の難航,大使藤原常嗣(つねつぐ)との不和のため,3度目の出航に乗船を拒否,嵯峨上皇の怒りにふれて隠岐国へ配流された。840年帰京が許され,847年参議となる。「経国集」「和漢朗詠集」などに漢詩を,「古今集」「小野篁集」(後世の偽作も多い)などに和歌を残し,文人としても名高い。

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旺文社日本史事典 三訂版 「小野篁」の解説

小野篁
おののたかむら

802〜852
平安初期の学者
岑守 (みねもり) の子。漢詩文で名声高く,『令義解 (りようのぎげ) 』の編集に参加。遣唐副使として大使藤原常嗣と争い,隠岐 (おき) へ配流。のち許されて従三位・参議となった。そのいちずで奔放な性格から野相 (やしよう) 公といわれた。『古今和歌集』『経国集』『和漢朗詠集』に作品がある。

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世界大百科事典(旧版)内の小野篁の言及

【篁物語】より

…物語。《篁日記》《小野篁集》ともいう。成立時期については平安前期・中期・末期,鎌倉初期など諸説があって一定しない。…

【珍皇寺】より

…山号は大椿山。創建については慶俊(きようしゆん)僧都の開基,また小野篁(たかむら)の開創,宝皇寺の後身といわれて異説に富む。だが,寺地が葬送所として有名な鳥辺(とりべ)山のふもとにあることから,中世以来,当寺は冥府とこの世の出入口に当たると信じられ,亡者の精霊迎えの信仰で栄え,〈六道(ろくどう)さん〉〈六道珍皇寺〉の名で親しまれた。…

【藤原常嗣】より

…翌年再度出航するが壱岐島に漂着して再び失敗,翌838年夏,やっと渡唐に成功した。この間,副使の小野篁(おののたかむら)は大使の船が不備なため副使の船と換えられたことを不満とし,病と称して出発せず,遠流に処された。839年8月新羅船に乗って大宰府に帰着し,9月に天皇から功を賞されて従三位に進められたが,半年後に没した。…

※「小野篁」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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