尾張藩(読み)おわりはん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「尾張藩」の意味・わかりやすい解説

尾張藩
おわりはん

尾張国名古屋(名古屋市)に藩庁を置く親藩中の雄藩。名古屋藩ともいう。前身は同国春日井(かすがい)郡清須(きよす)(愛知県西春日井郡清洲町)を本拠とする清須藩。本能寺の変後、織田信雄(のぶかつ)が領有、1590年(天正18)豊臣秀次(とよとみひでつぐ)がこれにかわる。1595年(文禄4)福島正則(まさのり)が入封するが、関ヶ原の戦いの戦功で安芸(あき)に移り、徳川家康の四男松平忠吉(ただよし)と交代。1607年(慶長12)忠吉は無嗣(むし)のまま死没、家康の九男徳川義直(よしなお)が甲斐(かい)から転じた。翌年将軍秀忠(ひでただ)から尾張一国を領知すべき旨の判物を受けた。当時義直は幼少で駿府(すんぷ)(静岡市)の父のもとにおり、国政は傳役(もりやく)の平岩親吉(ひらいわちかよし)が代行した。清須の地は低湿で水利に乏しく、大兵力の駐留にも適しないため、家康は1610年今川氏の旧城地名古屋に義直の居城を築き、藩庁を清須より移転し、清須藩は消えた。

 1611年親吉の死去を機に、付(つけ)家老成瀬正成(なるせまさなり)、竹腰正信(たけのこしまさのぶ)を頂点とする統治機構の整備、渡辺、石河(いしこ)、山村(やまむら)、千村(ちむら)ら幕臣の付属など家臣団の編成が活発化した。大坂の陣ののち、義直が初入国。領内巡視、法令の制定、年寄の創置、家臣への知行(ちぎょう)封与が行われ、藩政は軌道にのった。藩祖義直以後、光友(みつとも)、綱誠(つななり)、吉通(よしみち)、五郎太(ごろうた)、継友(つぐとも)、宗春(むねはる)、宗勝(むねかつ)、宗睦(むねちか)、斉朝(なりとも)、斉温(なりはる)、斉荘(なりたか)、慶蔵(よしつぐ)、慶勝(よしかつ)、茂徳(もちなが)、義宜(よしのり)と続く歴代藩主は「尾張殿」と公称され、徳川三家の一として、大名中最高の格式をもつ。1869年(明治2)6月、義宜は朝廷に版籍奉還、尾張藩は消滅した。

 藩政史上二つの重要な改革がなされた。第一は2代光友の寛文(かんぶん)(1661~73)の改革である。寺社奉行(ぶぎょう)・評定所(ひょうじょうしょ)の新設、名古屋市制の改変、世禄(せいろく)制の撤廃、木曽(きそ)林政の強化、藩札発行を断行した。藩制の完成期と目してよい。第二は9代宗睦の天明(てんめい)・寛政(かんせい)(1781~1801)の改革である。幕府の緊縮方針に抗し景気浮揚策を展開した宗春時代の財政難を克服するため、殖産興業の促進、勝手方用達(ようたし)、新田金(しんでんがね)、綿布役銀(めんぷやくぎん)の創設、藩札の再発行に踏み切ったほか、世禄制の復活、地方(じかた)制度の刷新、刑法改正も行った。儒者細井平洲(ほそいへいしゅう)を総裁に藩校明倫堂(めいりんどう)が開かれたのもこの時期である。藩政末期は藩主擁立や勤王・佐幕をめぐる家中の抗争、藩札の整理、長州出兵などが相次ぎ、複雑な様相を呈した。藩高は1619年(元和5)に確定した61万9500石で、尾張全域と、美濃(みの)、三河、近江(おうみ)、摂津、信濃(しなの)の各一部を所領とした。藩士は1854年(安政1)現在、知行(ちぎょう)給与1311人、現米支給4677人。要職に付家老成瀬・竹腰両家年寄や年寄、城代、用人、目付、三奉行がある。藩法として幕府法系の「盗賊御仕置御定(とうぞくおしおきおさだめ)」などが知られる。支藩に、光友の子松平義行(よしゆき)の子孫である美濃高須(たかす)藩がある。尾張の陶磁器、木綿、美濃の紙、柿、信濃の檜(ひのき)材、駒(こま)をはじめ、領内は産物に富む。

[林 董一]

『『新編物語藩史 第5巻』(1975・新人物往来社)』『林董一著『尾張藩公法史の研究』(1962・日本学術振興会)』『林董一編『尾張藩家臣団の研究』(1975・名著出版)』『『名古屋市史 政治編・学芸編・産業編』(1915~34・名古屋市)』


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改訂新版 世界大百科事典 「尾張藩」の意味・わかりやすい解説

尾張藩 (おわりはん)

尾張国(愛知県)名古屋に藩庁を置く親藩の大藩。徳川三家の一つ。1600年(慶長5)関ヶ原の戦後,清須城主福島正則に代わり,徳川家康の四男松平忠吉が入封したが,07年無嗣断絶。あとへ家康の9子徳川義直が甲斐より移封,翌年将軍秀忠の尾張一国を領知すべき旨の判物を受けた。しかし当時義直は幼少で駿府の父のもとにあり,国政は傅(もり)役の平岩親吉がとった。10年名古屋築城により,清須から士民を移住させた。11年親吉死去を機に,成瀬正成・竹腰正信を軸とした統治機構の整備,渡辺守綱・石河光忠ら幕臣の付属など,家臣団の形成が活発化した。大坂の陣への従軍をへて,16年(元和2)領主義直の初入国,翌17年の領内巡見,法度制定,年寄職の設置,家臣に対する知行封与,20年の領知追加支給を終え,藩政はようやく軌道に乗った。藩祖義直以後光友,綱誠(つななり),吉通,五郎太,継友,宗春,宗勝,宗睦(むねちか),斉朝,斉温(なりはる),斉荘(なりたか),慶臧(よしつぐ),慶勝,茂徳(もちなが),義宜(よしのり)と続き,尾張徳川家の当主は〈尾張殿〉と公称された。1869年(明治2)6月義宜は版籍を朝廷に奉還し,名古屋藩知事を拝命した。260年以上にわたる藩政史で注目されるのはまず寛文期(1661-73)。2世光友の治世にあたり,寺社奉行・評定所の創設,市制・禄制改正,藩札発行などを断行し,藩制の完成期といってよい。つぎは9世宗睦の天明・寛政年間(1781-1801)。放漫華美の政治で吉宗将軍と対立した徳川宗春時代以降の,窮乏した藩庫を立て直すため,禄制・官制に改革を加え,勝手方用達・綿布役制度を採用し,藩札の復活に踏み切った。ほかに刑法の改正,藩校明倫堂の開設も行われた。宗睦逝去ののちは藩主擁立や勤王・佐幕をめぐる家中の抗争,藩札整理,長州出兵と難事件が相次ぎ,藩情は複雑な様相を深めていった。藩高は1619年(元和5)に確定した61万9500石。支藩に光友の子松平義行を祖とする美濃高須藩がある。藩領は尾張全域をはじめ,美濃国武儀・加茂・可児・恵那・土岐・各務・山県・羽栗・中島・本巣・安八・石津・不破・多芸・大野・方県・厚見・池田郡,三河国(愛知県)加茂郡,近江国蒲生郡,摂津国武庫郡の一部と信濃国筑摩郡木曾。職制上主要な役職としては,いわゆる〈付家老(つけがろう)〉成瀬氏竹腰氏の両家年寄を筆頭に年寄,城代,用人,目付,寺社奉行,町奉行,勘定奉行,熱田奉行,岐阜奉行,城付。領内要地へ代官を配した。藩法に代々条目,名古屋町中仕置令,寺院法度,社家法度,評定所定書などがあり,幕府法にならった刑罰法規〈盗賊御仕置御定〉も知られる。藩士は1854年(安政1)現在知行給与1311人,現米支給4677人。3万5000石の成瀬隼人正家を最高とし,1万石以上が5家もあった。1849年(嘉永2)から53年までの5年間の平均歳入27万7164両余,歳出26万6133両余。別に巨額の調達金元利払金があり,困難な財政事情であった。1674年(延宝2)の尾張国領民6万5101戸,37万8031人。
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藩名・旧国名がわかる事典 「尾張藩」の解説

おわりはん【尾張藩】

江戸時代尾張(おわり)国愛知郡名古屋(現、愛知県名古屋市)に藩庁をおいた親藩(しんぱん)で、水戸藩紀伊藩とともに御三家の一つ。藩校は明倫(めいりん)堂。藩高は1615年(元和(げんな)1)に確定した61万9500石で、領地は尾張一国に加え、木材産地の信濃(しなの)国木曽地方や三河(みかわ)国美濃(みの)国などにもあった。前身は清洲(きよす)藩で、1600年(慶長(けいちょう)5)の関ヶ原の戦い後、戦功で安芸(あき)国広島藩に移った福島正則(まさのり)に代わり、徳川家康(とくがわいえやす)の4男松平忠吉(ただよし)が入った。07年、忠吉が無嗣(むし)で死没、家康の9男義直(よしなお)が入封(にゅうほう)した。義直は幼少で駿府の父のもとにおり、藩政は傳役(もりやく)の平岩親吉(ひらいわちかよし)がとった。10年に名古屋城が築かれて武士も庶民も町ごと名古屋へ移住、清洲藩は廃され、尾張藩が成立した。11年の親吉死後、付家老(つけがろう)の成瀬正成(なるせまさなり)、竹腰正信(たけのこしまさのぶ)を頂点とする統治機構が整備され、家臣団も編成された。大坂の陣従軍のあと、16年(元和(げんな)2)に義直が初入国、以後明治維新まで尾張徳川氏16代が続いた。1871年(明治4)の廃藩置県により、名古屋県を経て翌年愛知県に編入された。◇名古屋藩ともいう。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「尾張藩」の意味・わかりやすい解説

尾張藩
おわりはん

江戸時代,尾張国 (愛知県) 地方を領有した藩。慶長 12 (1607) 年徳川家康が6歳半の9男義直に尾張国を与えて甲府 (山梨県) から清洲 (愛知県) に移し,次いで同 15年新築の名古屋城に移したのに始る。初め 53万 9500石であったが寛文 11 (71) 年に加増され,61万 9500石となり,明治維新まで 16代続き,廃藩置県にいたった。領地は尾張1国のほか,美濃 (岐阜県) ,木曾 (長野県) そのほかに及んだ。御三家の筆頭で,江戸城大廊下詰。2代光友の代に藩政の確立をみ,とりわけ寛文5 (65) 年の木曾材木事務藩営取込みが注目される。6代宗春は城下町名古屋の発展に画期的役割を果したが,その放漫,華美な施策は,8代将軍吉宗の改革政治と対立し,元文4 (1739) 年幕命により引退した。8代宗睦は,細井平洲を用いて藩政改革を行い,財政を建直した。 14代慶勝は,人材登用を推進し,幕府の寛政改革を目標として藩政の刷新にあたった。安政5 (1858) 年,将軍継嗣問題で大老井伊直弼と対立して謹慎を命じられ,のち許されて第1回長州征伐の征長総督となった。しかし再征には反対し,明治維新後,新政府の議定となる。なお,付家老成瀬氏3万 5000石の居城犬山と,同竹腰氏3万石の居城美濃国安八 (あんぱち) 郡今尾は慶応4 (1868) 年1月別に犬山藩と今尾藩を起し廃藩置県にいたった。

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旺文社日本史事典 三訂版 「尾張藩」の解説

尾張藩
おわりはん

江戸時代,尾張地方を領有した藩
徳川氏の親藩で,紀伊・水戸と並んで御三家の一つ。徳川家康の9男義直が1610年入封し初代藩主となった。石高61万9500石。城下町は名古屋。享保年間(1716〜36)の藩主宗春(1696〜1764)は将軍徳川吉宗に反目し,享保の改革に抵抗して華美・放漫な政治を展開した。幕末の慶勝 (よしかつ) (1825〜83)は第1次長州征討の総督で,王政復古後の新政府では議定となった。

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デジタル大辞泉プラス 「尾張藩」の解説

尾張藩

尾張国、名古屋(現:愛知県名古屋市)を本拠地とした親藩。徳川御三家のひとつ。前身は清須(現:愛知県清須市)に本拠を置いた清須藩。1610年に築城された名古屋城に藩庁が移り、清洲藩は消滅。藩祖・徳川義直(家康の9男)以降、代々の藩主は“尾張殿”と公称され、藩名はこれに基づく。尾張徳川氏は16代続いて明治維新を迎えた。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「尾張藩」の解説

尾張藩
おわりはん

名古屋藩(なごやはん)

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世界大百科事典(旧版)内の尾張藩の言及

【徳川宗春】より

…江戸中期の大名。第3代尾張藩主徳川綱誠(つななり)の子。幼名は万五郎,求馬,のち通春と名のる。…

【徳川慶勝】より

…幕末・維新期の大名。尾張藩14代藩主,のち再家督して17代藩主。支藩の美濃高須藩主松平義建(よしたつ)の第2子として江戸に生まれる。…

【藩法】より

…(a)御定書系統のものは,1778年(安永7)の福井藩〈公事方御定書〉,89年(寛政1)の丹波亀山藩〈議定書〉,1809年(文化6)の盛岡藩〈文化律〉,25年(文政8)の松代藩〈御仕置御規定〉,52年(嘉永5)の鳥取藩〈律〉が知られている。なお1745年(延享2)に制定され94年に全面的な改正が行われた尾張藩〈盗賊御仕置御定〉も,《公事方御定書》の影響の下に成立した刑罰法規である。なお刑法典を編纂するのでなく,幕府に随時問い合わせるなどして,《公事方御定書》に基づく裁判を行った藩も少なくない。…

【美濃国】より

…しかし信長・信忠の死後は領主の変動著しく,近世の政治体制は1600年(慶長5)の関ヶ原の戦を経て形成された。関ヶ原の戦に勝利して美濃を掌握した徳川家康は,一方では中山道沿いの加納に女婿奥平氏を封ずるなど,西国の押えを強く意図した大名配置を行い,その主軸に尾張藩をすえた。他方では岐阜城を廃し,美濃の幕領支配と,当国の役人足徴収や木材採運河川の管理などを行う代官頭,のちの美濃国奉行大久保長安の役所を岐阜町においた。…

※「尾張藩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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