尾道(読み)オノミチ

デジタル大辞泉 「尾道」の意味・読み・例文・類語

おのみち〔をのみち〕【尾道】

広島県南東部の市。瀬戸内海に面し、古くから商業港として発展。向島との間の尾道水道に尾道大橋が架かる。千光寺浄土寺など古寺が多く、志賀直哉林芙美子などの作品に描かれた。千光寺公園に文学碑の立つ「文学の小道」がある。平成17年(2005)御調みつぎ町・向島町を、翌18年に因島市瀬戸田町を編入。人口14.5万(2010)。

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精選版 日本国語大辞典 「尾道」の意味・読み・例文・類語

おのみち をのみち【尾道】

広島県南東部、瀬戸内海に面する地名。古くから良港として知られ、米の積出港、対明貿易の根拠地となり、商業都市として発達した。浄土寺、千光寺、西国寺がある。「万葉集」には「多麻宇良(たまのうら)」とうたわれている。明治三一年(一八九八)市制。玉の浦。尾路。

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改訂新版 世界大百科事典 「尾道」の意味・わかりやすい解説

尾道[市] (おのみち)

広島県南東部の市。2005年3月旧尾道市が御調(みつぎ)町と向島(むかいしま)町を編入,さらに06年1月因島(いんのしま)市と瀬戸田(せとだ)町(生口(いくち)島)を編入して成立した。人口14万5202(2010)。

瀬戸内海中央部,芸予諸島の島。旧豊田郡瀬戸田町の大部分を占め,現在は尾道市南西端にあたる。面積30.5km2。南東隅のみ旧因島市に属する。旧瀬戸田町の行政域は西方の高根島を合わせ,面積32.7km2,人口は9606(2000)。古くは長講堂領生口荘が置かれ,後にこの島を本拠とした生口氏は海上に勢力を振るった。瀬戸田港は尾道,三原,今治に通じる内海交通の要衝で,西の日光と呼ばれる耕三寺への観光客が多い。島の中央,観音山(472m)一帯は古生層からなって急峻だが,周囲は花コウ岩からなる山麓緩斜面で,かんきつ類の栽培が盛ん。因島との間に本州四国連絡橋尾道~今治ルートが通る。

尾道市南部の旧市。1953年土生,田熊,三庄の3町と中庄,大浜,重井,東生口の4村が合体し,全国でも珍しい一島一市となった(ただし東生口地区のみ生口島)。人口2万8187(2000)。明治末期からの伝統をもつ〈造船のまち〉である。その中核は1911年開設の日立造船広島工場であり,最盛時には同工場と造船関連産業の従業者は市内全就業者の40%をこえ,総工業生産額の95%を占めていた。70年代の構造不況によって日立造船が閉鎖すると,市の経済基盤は大きく揺らぎ,深刻な雇用問題に見舞われることになった。83年因島大橋の完成によって因島市はいち早く本土(尾道市)と陸続きとなったが,市発展の確たる方向を見出しかねていた。99年の本四連絡橋尾道~今治ルート完成に伴い,美しい海や島の景観を生かした観光・リゾートの都市創造を目ざしている。

尾道市北部の旧市。瀬戸内海に面した港湾商業都市。1870年(明治3)久保,十四日(とよひ),土堂の3町が合体して尾道町となり,98年県下で2番目に市制を施行する。人口9万2586(2000)。市域の大部分は標高100~300mの丘陵性山地であるが,市街地は幅300mの尾道水道に面して東西に細長い。尾道の名も,町並みが海に迫る〈山の尾〉のすそをはう〈道〉に由来する。尾道の生命は港であり,歴史もそこから始まる。12世紀後半には船津倉敷地となり,中世,近世を通じ瀬戸内海ならびに対大陸,西廻り航路の中継地として発展した。明治以降汽船時代になると,尾道港の性格は前面の芸予諸島や対岸四国の今治(いまばり),新居浜などに至る地方的なものとなり,さらに1975年山陽新幹線駅が西隣の三原市にできるとその地位も低下した(なお88年に新幹線の新尾道駅が開業)。本州四国連絡橋尾道~今治ルートは,2006年西瀬戸自動車道として全線開通し,新たな交通拠点として発展が期待されている。山陽自動車道のインターチェンジもある。尾道は瀬戸内海の流通中継基地の役割を担いながら,造船とその関連業種,海産物とその加工業が盛んで,卸売業・小売業と製造業にそれぞれ全就業者の4分の1が従事する。浄土寺,西国寺,千光寺をはじめ数々の重要文化財や美術品があり,海を見おろす古い家並み,志賀直哉,林芙美子など文学ゆかりの記念物も多い。なかでも頼山陽が〈六年重ねて来る千光寺山紫水明指顧に在り〉と歌った千光寺は,備後における熊野信仰の中心の一つであった。
執筆者:

和名抄》の御調郡の郷名にみえる〈歌島〉は尾道の対岸向島である。地名としては〈備後州御調郡尾道浦摩尼山西国寺由来之記〉とみえるのが早く,この末尾には永保元年(1081)6月日と記されている(西国寺文書)。1168年(仁安3)〈御調郡内尾道村〉に大田荘の倉敷地が設けられ,倉庫が建ち年貢輸送にあたる人々が住みつくようになった。鎌倉時代になると他荘の米や塩などの年貢や商品を輸送する船も多く寄港するようになり,これに津料(港湾使用料)を課したこともあった。中世の尾道は,内海中央部における随一の港町として栄えていた。1320年(元応2)この富裕な町をねらって侵入した軍勢のために1000余軒の民家が焼き払われている。71年(建徳2・応安4)九州探題として西下途中の今川了俊は,山の麓に家々が網を干す庭もないほど所狭く建ち並び,港には遠国の船が多く出入りしていると述べている。1420年(応永27)朝鮮使節の宋希璟は,往復ともにこの地に立ち寄っており,人家が海岸にびっしりと屋根を接し,寺々が山上まで重なり連なって建っている情景を記している。内海航路のみならず日明・日朝貿易においてもその一拠点となった。貿易の実権は内海地域に勢力を有する大内,細川,山名などの諸大名と,これと結ぶ西国商人に掌握されていた。貿易船として内海中部の大型船が多く使われ,51年(宝徳3),64年(寛正5)の遣明船は,出発の際いずれも尾道に立ち寄っている。この港が守護山名氏の内海の拠点であっただけでなく,主要な輸出品である銅や刀剣がおもに中国地方で生産されたからである。尾道,田島の船などが遣明船に使用されているが,この地方にはこれらを所有する海運業者がおり,こうした大船を造船できる技術も発達していたことがうかがえる。応仁の乱後,毛利氏の勢力が強くなり,尾道は毛利氏の直轄領となり,1512年(永正9)ごろには尾道奉行の存在が知られる。天正年間(1573-92)ごろに渋谷与右衛門,泉屋一相,笠岡屋又左衛門は毛利氏より知行地をあてがわれた。渋谷氏は,毛利氏の要請する船や諸物資の調達にあたっており,とくに朝鮮出兵に際しては軍需品の輸送を引き受けている。
執筆者: 1601年(慶長6)芸備両国を領した福島正則の検地によって町在分離が行われ,尾道は村高733.66石,浦(町)高348.67石となった。尾道村は浦の後背丘陵地を中心とし,29年(寛永6)には後地(うしろじ)村と改称,浄土寺,西国寺をはじめ寺院51,神社19,堂祠40など尾道寺社の大半を含んでいた。尾道浦は海岸部の市街地を中心とし,1615年(元和1)久保,十四日,土堂の3町にそれぞれ町年寄が置かれた。支配機構は,はじめ御調郡代官のもと各町に町年寄1人,組頭2人,肝煎(きもいり)1人,月行事10人が配され,月番制で町行政を執務した。1715年(正徳5)尾道町奉行が新設されると,町行政,尾道寺社方および海陸輸送関係,とくに藩の津出年貢蔵,大坂登米(のぼせまい),畳表・たばこ運上,抜荷改めなどを管轄下においた。戸口の推移は,1638年724軒,1702年(元禄15)1057軒,20年(享保5)1685軒,1825年(文政8)2926軒(人数9488)と増加している。だいたい元禄期までは,本役家(家持)と無役家(借屋)が相半ばしていたが,その後は本役家が停滞ないし減少するのに対して無役層は増大傾向にあり,市民層の形成がみられた。

 尾道町には寛永期に西国街道(中国路)・石見街道の宿駅,1649年(慶安2)に浦辺蔵の設置,また元禄期までに薬師堂浜,荒神堂浜,住吉浜など海岸埋立てがすすみ,港湾都市としての整備が進行した。このため広島藩の蔵米・蔵物を大坂市場へ輸送する拠点とされ,さらに幕府の大森銀山荷,山陰諸特産荷の積替港としても大きな役割を果たすようになった。とくに西廻航路が開かれると,廻船寄港が頻繁となり,内海屈指の中継交易市場として日本海岸諸国,九州,四国の米穀,海産物をはじめとする諸国特産物が取引されるようになった。それは初期豪商を中心とした隔地間交易が明暦・寛文期(1655-73)には消滅し,代わって荷主,問屋,仲買を中心とする中継的問屋商業に発展したのである。そして1712年に問屋54軒による問屋仲間ができ,40年(元文5)には問屋株65軒となって問屋座(後に問屋会所)が結成され,商業活動を独占する。その景況は,1825年の《芸藩通志》に〈今は実に尺寸の地をあまさず,諸国往来の舟船,ここに輻湊し,百貨交易便を得て,富家多く,西国一の都会なり〉と記される。
執筆者:

尾道市北端の旧町。旧御調郡所属。人口8111(2000)。高原状の山地に囲まれ,中央を芦田川の支流御調川が北東流する。川沿いの道は古代の山陽道にあたり,北岸丘陵の斜面に本郷平(ほんごうびら)廃寺跡がある。礎石や瓦などが出土,御調郡衙所在地とも考えられている。南北に通る国道184号線はかつての石見(いわみ)路で,中心集落の市は古代山陽道の者度(いつと)駅の地に比定されるとともに,近世には石見路の宿場でもあった。御調川沿いの谷底平野での水田耕作を中心に林業や畜産も行われ,菅野地区の串柿は特産品。東の福山市,南東に接する旧尾道市への通勤者も多く,工場の誘致も進められている。市(いち)にある浄土真宗照源寺は鎌倉期の木造涅槃仏像(重要文化財)を蔵する。丸河南(まるかなん)の高御調(たかみつぎ)神社の例祭には〈みあがり踊〉が奉納される。

尾道市中部の旧町。旧御調郡所属。人口1万6710(2000)。尾道水道を隔てて旧尾道市の向いにある向島の西の過半部と,その西に浮かぶ岩子(いわし)島とからなる。向島は古代の歌島(うたのしま)郷(《和名抄》)の地に比定され,中世には大炊寮(おおいりよう)領歌島荘となっており,塩年貢を納めていた。南部の高見山(283m)を中心に丘陵や台地が広がるが北部は平地で,江戸時代には城下の豪商天満屋によって富浜塩田が開かれ,昭和30年代まで製塩業が続けられた。温暖な気候にめぐまれてかんきつ類や野菜,花卉が栽培されている。尾道水道にあった岡島(現在は陸続き)に岡島城(小歌島城)跡,南に突出する観音崎に村上水軍の城と伝える余崎城跡がある。西瀬戸自動車道の向島インターチェンジがあり,旧因島市,旧尾道市と結ばれ,向島~岩子島の間には向島大橋が架かる。
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旺文社日本史事典 三訂版 「尾道」の解説

尾道
おのみち

広島県南東部にある港町で,水上交通の要地
瀬戸内海航路の中間に位置し,中世以来諸荘園の年貢や商品輸送が盛んになるにつれて繁栄。室町時代には勘合貿易,江戸時代には西廻り航路の主要拠点となる。弓削 (ゆげ) 島産の塩の集散港として有名。1898年市制を施行。

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