山中貞雄(読み)やまなかさだお

精選版 日本国語大辞典 「山中貞雄」の意味・読み・例文・類語

やまなか‐さだお【山中貞雄】

映画監督。京都出身。マキノ映画にはいり、時代劇に新しい表現や画面構成、歯ぎれのよい話術を取り入れ、すぐれた作品を残した。代表作人情紙風船」。明治四二~昭和一三年(一九〇九‐三八

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デジタル大辞泉 「山中貞雄」の意味・読み・例文・類語

やまなか‐さだお〔‐さだを〕【山中貞雄】

[1909~1938]映画監督。京都の生まれ。初監督作品「磯の源太 抱寝だきね長脇差ながどす」で注目を集める。新感覚の時代劇を世に出し、高く評価された。代表作「街の入墨者」「丹下左膳余話たんげさぜんよわ 百万両のつぼ」「河内山宗俊こうちやまそうしゅん」「人情紙風船」など。

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改訂新版 世界大百科事典 「山中貞雄」の意味・わかりやすい解説

山中貞雄 (やまなかさだお)
生没年:1909-38(明治42-昭和13)

映画監督。29歳の若さで逝った天才監督として知られる。京都生れ。マキノ省三の下をへて嵐寛寿郎プロで才能を認められ,脚本家として,次いで監督としてデビュー。第1回監督作品《磯の源太・抱寝(だきね)の長脇差》(嵐寛寿郎主演)を発表した1932年から,遺作になった《人情紙風船》を撮り上げ,のち召集されて戦地で病没した38年まで,6年間に無声映画10本,トーキー作品12本を残した。無声映画時代には,巧みな場面転換と字幕の挿入による独特の映画的〈話術〉を確立し,さらにトーキー時代に入ってからは,主として小市民的な生活感を時代劇に移入して〈時代劇の小市民映画〉と評され,新しい感覚とスタイルをスクリーンに造形した特異な時代劇監督であった。

 筈見恒夫(《映画五十年史》)によれば,伊藤大輔監督によって築かれた〈サイレント時代劇〉の歴史は,稲垣浩伊丹万作と山中貞雄の3人に引き継がれて完成される。とくに,字幕を単にサイレント映画のスポークンタイトル(会話字幕)や説明としてではなく,画面と同質のカットとして扱い,その機能を徹底的に利用する〈話術〉(画面と字幕を交互にリズミカルモンタージュしたカット・バックの手法)は,山中貞雄の一連の無声股旅時代劇によって洗練され,完成されることになる。《磯の源太・抱寝の長脇差》では,〈矢切一家の急を聞き,喧嘩の場所へ宙を飛んで走って行く源太の名乗り,“常陸の国は”“茨城郡”“祝生れの”“源太郎”--その切れ切れの名乗りの字幕表現と,人影なき堤の左から右上へと斜め横に切れ上って行く移動撮影画面との,交互的接続は,颯爽たる旅人の身を捨てて走ってゆく勇ましい気骨を感じさせ〉(岸松雄評),次いで第2作《小判しぐれ》(1932,嵐寛寿郎主演)では,映画史上伝説的になった〈“流れて”“流れて”“此処は”“何処じゃと”“馬子衆に問へば”“此処は”“信州”“中仙道”という民謡風の字幕と,川を流れて行く笠,美しい山野や街道の画面とのモンタージュにより時間・空間の変化を表現する方法〉(山本喜久男評)として,その〈話術〉を完成させる。トーキー時代に入ると,さらにこの〈話術〉を,例えば《丹下左膳余話・百万両の壺》(1935)で大河内伝次郎の左膳が絶対に行かないとだだをこねるように言い張るところを見せておいて,次の画面では左膳がもう道へ出て歩いている,といったコミカルな手法(〈逆手の話術〉などと評された)や,あるいは《森の石松》(1937)で黒川弥太郎の石松がみずから投げた1文銭が回っている間に敵を一太刀で切り倒すといった〈すごみのあるカット・バック〉にまで昇華する。

 最後の無声映画《風流活人剣》(1934,片岡千恵蔵主演)あたりから,〈小津安二郎を思はせるやうな,時代劇の小市民映画〉(筈見恒夫評)が山中時代劇を彩るようになり(なお,実際に小津とは親交があり,その作品に強く影響されたといわれるが,小津自身は山中貞雄の〈話術〉を〈韻文的な作風〉と呼んでいる),《人情紙風船》を頂点とする〈長屋もの〉の系列に流れつく。また,1934-37年ころ,京都の鳴滝住人だった8人の脚本家・監督が〈鳴滝組〉というグループをつくり,梶原金八という合同ペンネームで〈ちょん髷をつけた現代劇〉をめざしてシナリオの共同執筆や映画の共同製作を行ったが,そのグループの中心になったのも,山中貞雄であった。《街の入墨者》(1935),《河内山宗俊》(1936),《人情紙風船》(1937)は前進座が出演した作品であり,《河内山宗俊》は時代劇初出演の原節子(当時16歳)が,その〈かれんな美しさ〉で一躍注目を浴びた作品でもある。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「山中貞雄」の意味・わかりやすい解説

山中貞雄
やまなかさだお
(1909―1938)

映画監督。京都市生まれ。1927年(昭和2)市立第一商業高校卒業後、同窓のマキノ正博(まさひろ)(1908―1993)の伝手でマキノプロに入社。1932年嵐寛寿郎(あらしかんじゅうろう)プロで『磯の源太 抱寝(だきね)の長脇差(ながどす)』を発表、その清新な映像感覚で一躍注目される。移籍後の日活で『盤嶽(ばんがく)の一生』『鼠(ねずみ)小僧次郎吉』(1933)と快作を放ち、松竹の小津安二郎(おづやすじろう)の知遇を得る。官憲に追われる忠治を支える宿場の人々を描いた『国定忠治』(1935)、前科者とその妹夫婦の交情を描破した『街の入墨者』(1935)などで「髷(まげ)をつけた現代劇―小市民時代劇」を確立。小津や自ら結成したシナリオ集団「鳴滝組」との交流の成果でもあった。隻眼隻手の怪剣士、丹下左膳(たんげさぜん)のキャラクターを人の良い矢場の用心棒に転換し、観客席の笑いを誘ったフィルムが現存する『丹下左膳餘(よ)話 百萬両の壺』(1935)がその雰囲気を伝えている。前進座と組んだ『河内山宗俊(こうちやまそうしゅん)』(1936)で、黙阿弥(もくあみ)ものを鮮やかに演出した後、新たに発足したPCLに移籍。『人情紙風船』(1937)で街の無法者と仕官の道を断たれた浪人の姿をペシミスティックに描出した後、応召して中国の戦場へ向かい、昭和13年9月17日、戦地で病没した。29歳。

[佐伯知紀]

資料 監督作品一覧

磯の源太 抱寝の長脇差(1932)
小判しぐれ(1932)
小笠原隠岐守(1932)
口笛を吹く武士(1932)
右門捕物帖三十番手柄 帯解け仏法(1932)
天狗廻状 前篇(1932)
薩摩飛脚 剣光愛欲篇(1933)
盤嶽の一生(1933)
鼠小僧治郎吉 江戸の巻、道中の巻、再び江戸の巻(1933)
風流活人剣(1934)
足軽出世譚(1934)
勝鬨(かちどき)(1934)
雁太郎街道(1934)
国定忠治(1935)
丹下左膳餘話 百萬両の壺(1935)
関の弥太ッぺ(1935)
街の入墨者(1935)
大菩薩峠 第1篇 甲賀一刀流の巻(1935)
怪盗白頭巾 前篇(1935)
怪盗白頭巾 後篇(1936)
河内山宗俊(1936)
海鳴り街道(1936)
森の石松(1937)
人情紙風船(1937)

『佐藤忠男・加藤泰監修『山中貞雄作品集』3巻・別巻1(1985~1986・実業之日本社)』『加藤泰著『映画監督山中貞雄』(1985・キネマ旬報社)』『山中貞雄著『山中貞雄作品集』(1988・実業之日本社)』『千葉信夫編『監督山中貞雄』(1988・実業之日本社)』『千葉信夫著『評伝山中貞雄――若き映画監督の肖像』(1999・平凡社)』『『生誕百年記念 山中貞雄監督特集――鑑賞の手引』(2009・コミュニティシネマ支援センター)』

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百科事典マイペディア 「山中貞雄」の意味・わかりやすい解説

山中貞雄【やまなかさだお】

映画監督。京都生れ。1927年京都市立一中卒業後,上級生だったマキノ雅広の紹介で映画界入り。のち嵐寛寿郎プロに所属。当時のスターシステムにのっとり,俳優本位の作品作りのなかでシナリオを量産する。監督第1作は《磯の源太・抱寝の長脇差》(1932年)。海外の映画を換骨奪胎し,娯楽性に富んだ時代劇を発表した。戦争などで作品が焼失したため,現在完全な形で残されているのは《丹下左膳余話・百万両の壺》(1935年),《河内山宗俊》(1936年),遺作《人情紙風船》(1937年)の3本のみ。1937年応召,翌年中国で戦死。
→関連項目稲垣浩加藤泰原節子

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「山中貞雄」の意味・わかりやすい解説

山中貞雄
やまなかさだお

[生]1909.11.7. 京都
[没]1938.9.17. 開封
映画監督。京都市立第一商業学校卒業後,マキノ映画に入社 (1927) 。翌年嵐寛寿郎プロへ移り,1932年監督第1作『抱寝の長脇差』を撮り,その新鮮な技法と時代劇感覚で一躍注目を浴びた。以後,『小判しぐれ』 (32) ,『盤嶽の一生』 (33) ,『街の入墨者』 (35) ,『河内山宗俊』 (36) その他ユニークな秀作を次々と発表したが,『人情紙風船』 (37) を最後に召集を受け,中国で戦病死。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「山中貞雄」の解説

山中貞雄 やまなか-さだお

1909-1938 昭和時代前期の映画監督。
明治42年11月7日生まれ。昭和7年初監督作品「抱寝の長脇差(ながどす)」が評価され,以後「国定忠治」「百万両の壺」「街の入墨者」「河内山宗俊」など時代劇の傑作を発表。12年「人情紙風船」をとったあと召集され,昭和13年9月17日中国で病没。30歳。京都出身。京都市立第一商業卒。
【格言など】「人情紙風船」が山中貞雄の遺作ではチトサビシイ(遺書)

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世界大百科事典(旧版)内の山中貞雄の言及

【時代劇映画】より

…いずれも片岡千恵蔵主演作品である。同じころ,山中貞雄監督が嵐寛寿郎プロダクションから《磯の源太・抱寝の長脇差》(1932)でデビューし,映画的文体のみごとさと抒情の美しさによって絶賛され,さらに嵐寛寿郎と組んだ《小判しぐれ》《口笛を吹く武士》などのあと,大河内伝次郎主演で風刺性にあふれた《盤嶽の一生》(1933),詩情豊かな人情劇《国定忠治》(1935),市井の人々を描いた《丹下左膳余話・百万両の壺》(1935)をつくり,長屋に住む人々の生を透徹したペシミズムで描写した《人情紙風船》(1937)でその作風を頂点に達せしめた。 稲垣浩や山中貞雄と多く組んだ脚本家は三村伸太郎で,小市民的感覚によって自由人としての股旅やくざ像を造型した点に特色がある。…

※「山中貞雄」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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