デジタル大辞泉 「山田」の意味・読み・例文・類語
やまだ【山田】[姓氏]
[補説]「山田」姓の人物
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
南北朝時代頃からみえる地名。現山田町一帯および都城市の一部に比定される。現山田町の中心部の丘陵上大字山田の
嘉慶三年(一三八九)二月二五日の山田華舞六所権現棟札(庄内地理志)によると、地頭島津幸久は「山田六所権現」(現山田神社)の宝殿を造営している。南九州の領主配置を伝える文明六年三州処々領主記(都城島津家文書)には、
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
伊勢神宮外宮鎮座地,またその鳥居前町。現在,内宮の鳥居前町宇治とともに三重県伊勢市の中心部。《止由気(とゆけ)宮儀式帳》《延喜式》は外宮の所在地を度会(わたらい)郡沼木(ぬき)郷山田原(やまだのはら)とし,12世紀には山田村,あるいは山田郷としても現れる。1181年(養和1)には熊野山衆徒が宇治・山田を侵略,民家を破壊した事件が生じている。山田が外宮の門前市として発展するのは室町時代からで,御師(おし)による伊勢信仰の広がりと参宮者(道者)の増加による。1413年(応永20)には道者数十人が船の転覆により死亡したという。15世紀末には,三日市(岩淵町),五日市(下馬所前(げばどころまえ)町),六日市(岡本町),八日市(八日市場町)の市場がみられ,米,麴,酒,瀬戸物,釜など多数の座が存在したことが知られる。
門前市として発展するにともない,その指導権をめぐり,神人(じにん)と神役人=地下人(じげにん)との間に抗争が生じた。すでに1392年(明徳3)神人の確執があったが,1429年(永享1)には神役人が徳政を要求,土一揆を起こして神人と衝突し,山田民屋数百軒が焼失した。この土一揆は幕府の調停で翌年収拾したが,41年(嘉吉1)ふたたび勃発した。結果は神人の敗北に終わり,神役人が山田の指導権を掌握した。この間31年山田は外宮から,度会,多気,飯野の神三郡の所務知行権の3分の1を賦与され,自治都市へと成長していく。
49年(宝徳1)山田が宇治への参道を塞いだことにより,宇治と対立したが,翌50年の和談の場には〈山田三方〉から長3人が代表として出席しており,〈三方〉の原型がこのころ形成されたことが知られる。この三方とは岩淵方,須原(すはら)方,坂方をいい,15世紀中葉には単独で行動する場合が多かったが,文明年間(1469-87)には〈三方老分〉として,結束して知行地の支配,座の統制,神宮との交渉,警察司法などに〈公界沙汰〉としてあたった。その際には三方の公印(花押)を使用して,自治的性格を強めている。しかし一方では山田は,宇治と,参詣人の獲得,関所の設置などをめぐり,幾度か激しい闘争をひき起こしている。49年の確執をはじめ,60年(寛正1)には外宮造営料関山田関をめぐる抗争,85年(文明17)には山田が岡本番屋を設置し,宇治への通路を塞いだため,翌年宇治は国司北畠氏を頼んで山田に侵寇,このときは外宮正殿のほか,民家多数が炎上した。その後も抗争はたびたび生じており,93年(明応2)にはふたたび北畠氏の侵寇にあい,山田は荒野に帰したという。その後復興したが,1544年(天文13)の火災で,6000軒が焼失したと伝えられる。69年(永禄12)織田信長の伊勢進出とともに,山田は,実質的に織田信雄(のぶかつ)の支配下に入った。
執筆者:稲本 紀昭 近世になると伊勢信仰の普及,交通路の整備で参宮客が増え,彼らを泊めて神楽を奏し,祈禱をする御師の邸宅を中心にする町になった。遊興的な要素もあったが,御師の手に入る物品が商業に活気を与え,17世紀初期には家数8400軒余,人口3万人余に及ぶ伊勢第一の都市になった。山田・宇治両域の公事(くじ)裁判,監視,両宮警備は幕府山田奉行所の管轄だったが,町の内政は神仏の意を受ける祭政一致の考えに立って会合衆(えごうしゆう)が行った。山田では重立(おもだち)衆24家が数人ずつ交代で会合所に出勤して町政に当たり,支配下の町々の町年寄衆を支配した。各町は十人組制をとった。自治領の経費は〈貫(つなぎ)〉と称し,軒割(のきわり)で徴収した。会合所を維持する定時貫のほかに,宮川堤修理,京・江戸表への年始・慶賀などにあてる臨時貫があった。寛政改革後は自治の権限が弱まった。1889年宇治山田町となり,1906年市制,55年伊勢市と名称を変更した。
→伊勢[市]
執筆者:深谷 克己
岩手県東部,下閉伊(しもへい)郡の町。人口1万8617(2010)。陸中海岸の中央部に位置し,内陸部は北上高地からの支脈がのびて急峻な山岳地帯を形成する。東部は船越半島が北の山田湾と南の船越湾を分ける。山田湾奥の山田と船越湾奥の船越はともに三陸海岸中部の良港であり,国道45号線とJR山田線によって結ばれる。湾内ではカキ,ホタテガイなどの養殖漁業が行われ,三陸漁場ではスルメイカ,サンマ漁などが盛んである。漁港,加工施設,魚市場も整備され,大型外来船の入港が増えている。海岸は,陸中海岸国立公園に属し,〈海の十和田湖〉と称される山田湾をはじめ,原生林におおわれた船越半島,その南のタブの自生北限地船越大島など景勝地が多い。2011年3月の東日本大震災では,死者行方不明848人,全壊住宅2790戸にのぼった。
執筆者:松橋 公治
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
昭和期の仏文学者 東京大学名誉教授。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…三重県南東部の市。1906年宇治山田町が市制,55年豊浜,北浜,城田,四郷の4村を編入して改称。人口10万2632(1995)。…
…中世の伊勢には東国に多数分布する伊勢大神宮領から送進される年貢物の集散や陸揚げを行う大湊など港津が発達し,また畿内と東国を結節する地理的条件に恵まれたため桑名のような自治都市の成立もみられ,多くの廻船業者,問屋が輩出した。安濃津(あのつ)(現,津市)も大神宮領からの年貢物の取扱い,さらには海外貿易港として発展し,山田の三日市・八日市には多数の市座商人や土倉がたむろし,活躍していた。これら商人の中には大湊の角屋氏のように海外貿易に進出するもの,後北条氏の城下町小田原に進出して住みつくもの,さらには遠く会津若松など東国に行商を行うものも現れた。…
…桑名,員弁(いなべ),朝明(あさけ),三重,鈴鹿,河曲(かわわ),奄芸(あむぎ∥あんへ),安濃,壱志(いちし),飯高,多気(たけ),飯野,度会(わたらい)の13郡を管する。伊勢神宮は,垂仁天皇の世に倭姫命が五十鈴川上に天照大神の斎宮をたてたのが内宮のはじまり,雄略天皇の世に豊受大神を山田原にまつったのが外宮のはじまりとされる。桑名郡多度町の多度神社は,鉄工業の神として古来尊崇され,788年(延暦7)の〈神宮寺伽藍縁起幷資財帳〉がある。…
※「山田」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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