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山県 有朋 ヤマガタ アリトモ

20世紀日本人名事典の解説

山県 有朋
ヤマガタ アリトモ

江戸時代末期〜大正期の政治家,陸軍大将,元帥,公爵 首相;元老;枢密院議長。



生年
天保9年閏4月22日(1838年)

没年
大正11(1922)年2月1日

出生地
長門国萩城下川島庄(山口県萩市)

別名
幼名=辰之助,前名=小輔,狂介

経歴
松下村塾に学び、高杉晋作伊藤博文ら尊王派志士と交わる。文久3年(1863)奇兵隊軍監となり、4国連合艦隊に敗戦。また慶応2年(1866)第2次征長の役に参戦。戊辰戦争時は北陸鎮撫総督・会津征討越後国総督参謀。明治2年渡欧、3年帰国後兵部大輔、5年陸軍大輔・中将。徴兵令を制定し軍制を確立。6年陸軍卿に就任、佐賀の乱西南の役に参軍。その後木戸・大久保の死去、大隈・板垣の失脚により、伊藤博文と共に藩閥政府の最高指導者となる。16年内務卿、18年第1次伊藤内閣の、21年黒田内閣の内相。20年保安条例を公布した。22年首相に就任し、教育勅語を発布。23年陸軍大将に進み、25年第2次伊藤内閣の法相、26年枢密院議長日清戦争時は第1軍司令官日露戦争時は参謀総長を務めた。31年元帥。同年第2次内閣を組閣、33年軍部大臣現役武官制を制定。42年伊藤の死後は政界に絶大なる権力を振るったが、大正10年宮中某重大事件(皇太子妃選定問題)で各方面の非難を受け、枢密院議長を辞任した。終生の政党嫌いで知られる。著書に「懐旧記事」(全5巻)「山県有朋意見書」など。一方、近藤芳樹、井上通秦らに師事して和歌を学び、のち森鷗外らと歌会常磐会(明治39年〜大正11年)を催した。歌集に「葉桜日記」「椿山集」「年々詠草」などがある。

出典|日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について | 情報

新訂 政治家人名事典 明治~昭和の解説

山県 有朋
ヤマガタ アリトモ


肩書
第3・9代首相,元老,枢密院議長

別名
幼名=辰之助 前名=小輔 狂介

生年月日
天保9年閏4月22日(1838年)

出生地
長門国萩城下川島庄(山口県萩市)

経歴
松下村塾に学び、高杉晋作・伊藤博文ら尊王派志士と交わる。文久3年(1863)奇兵隊軍監となり、4国連合艦隊に敗戦。また慶応2年(1866)第2次征長の役に参戦。戊辰戦争時は北陸鎮撫総督・会津征討越後国総督参謀。明治2年渡欧、3年帰国後兵部大輔、5年陸軍大輔・中将。徴兵令を制定し軍制を確立。6年陸軍卿に就任、佐賀の乱、西南の役に参軍。その後木戸・大久保の死去、大隈・板垣の失脚により、伊藤博文と共に藩閥政府の最高指導者となる。16年内務卿、18年第1次伊藤内閣の、21年黒田内閣の内相。20年保安条例を公布した。22年首相に就任し、教育勅語を発布。23年陸軍大将に進み、25年第2次伊藤内閣の法相、26年枢密院議長。日清戦争時は第1軍司令官、日露戦争時は参謀総長をつとめた。31年元帥。同年第2次内閣を組閣、33年軍部大臣現役武官制を制定。42年伊藤の死後は政界に絶大なる権力を振るったが、大正10年宮中某重大事件(皇太子妃選定問題)で各方面の非難を受け、枢密院議長を辞任した。終生の政党嫌いで知られる。著書に「懐旧記事」(全5巻)「山県有朋意見書」など。一方、近藤芳樹、井上通秦らに師事して和歌を学び、のち森鷗外らと歌会常磐会(明治39年〜大正11年)を催した。歌集に「葉桜日記」「椿山集」「年々詠草」などがある。

没年月日
大正11年2月1日

出典|日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について | 情報

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