山科区(読み)ヤマシナク

デジタル大辞泉 「山科区」の意味・読み・例文・類語

やましな‐く【山科区】

山科

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日本歴史地名大系 「山科区」の解説

山科区
やましなく

面積:二八・六九平方キロ

京都市東部、東山ひがしやま山地東側に広がる山科盆地のほぼ全域と周辺の山地部よりなる。北は滋賀県大津市と左京区、東は逢坂山おうさかやま山系を隔てて大津市、南は伏見区、西は東山山系で東山区にそれぞれ接する。三面を五九三メートルの音羽おとわ山を最高峰とする山に囲まれてはいるが大部分は平地で、中央部を南北に山科川が流れ、支流のみや川・安祥寺あんしようじ川・旧安祥寺川などとともに山科盆地をつくる。また北部には東海道(三条街道)、中部には渋谷しぶたに街道が東西に通じ、奈良街道が南北に走り、交通も至便である。

〔原始〕

無土器(先土器)時代遺跡の発見はまだないが、縄文時代から古墳時代にまで続く複合遺跡である中臣なかとみ遺跡がある。土器・住居跡・墓などが多く発見されており、長い時代にわたって人間生活が営まれていたことが知られる。近江に抜ける街道の要地にある芝町しばまち遺跡も土器・石鏃・瓦などが出土、縄文時代晩期から奈良時代までの複合遺跡である。中臣遺跡は西南部の栗栖野くりすの丘陵、芝町遺跡は東北部の山麓部に位置し、山科盆地は早く縄文時代から人が居住していたことがわかる。弥生時代の遺跡は多くを確認できないが、この両遺跡から推定して人間生活が継続して営まれたことは疑いない。

山科川をはじめ各河川は、流域面積は狭いが農業用水として利用され、水田農業が展開したであろうことは、中臣遺跡の竪穴式住居がよく物語っている。古墳時代の遺跡は後期古墳がいくつか存在し、同時代の窯跡も知られる。

〔古代〕

山科区は宇治うじ郡の北部を占め、小野おの・山科・余戸あまるべの各郷にまたがっていたらしい。現在は新興住宅地としての開発が急で条里制の遺構は消滅しつつあるが、平安時代末期―鎌倉時代初期の様子を描いたと思われる山城国山科郷古図(彰考館旧蔵)が残されており、山科盆地全体の条里の在り方を里名もあわせて詳しく知ることができる。安祥寺・勧修かじゆう寺の寺領を記した資財帳にも里名が散見し、山科区内の条里制はほぼ完全に復原できる。

歴史時代の山科区は中臣氏から始まる。早くから中臣氏が住み、中臣鎌子(藤原鎌足)は当地の出身で、陶原すえはら(末原館)とよばれる邸宅をもち、飛鳥の宮廷で重きをなした。この館が山科精舎となり、後に興福寺(現奈良市)へと発展する。興福寺が別名山階やましな寺と称するのはもと山科に建立されたからだといわれている。もっとも奈良時代以降に、中臣氏の居住を宇治郡に確認できず、鎌足からそう遠くない時期に山科の地を去ったとも考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「山科区」の意味・わかりやすい解説

山科〔区〕
やましな

京都市南東部の区。 1976年東山区のうち,東山連峰より東の部分が分離して新設。 1931年に東山区に合体された旧山科町の範囲で,山科盆地とその周辺山地から成り,京都市中心部とは東山連峰をへだてて別の独立した地形区をなす。近郊農業地帯であったが,近年急速に住宅地化が進行。室町時代に蓮如によって壮大な山科本願寺が建立されたが,現在はほとんど痕跡をとどめていない。隨心院 (境内は史跡) ,歓喜光寺 (国宝『一遍上人絵伝』を所蔵) があり,南部には美しい庭園をもつ勧修寺がある。古来,交通の要地で,JR東海道本線,京阪電気鉄道京津線,国道1号線が東西に通じ,名神高速道路も通じて京都東インターチェンジがある。面積 28.70km2。人口 13万5101(2020)。

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