岡倉 天心(読み)オカクラ テンシン

20世紀日本人名事典 「岡倉 天心」の解説

岡倉 天心
オカクラ テンシン

明治期の美術行政家,美術教育家,美術史家,,思想家 東京美術学校校長;日本美術院創立者。



生年
文久2年12月26日(1863年)

没年
大正2(1913)年9月2日

出生地
武蔵国横浜本町(神奈川県横浜市)

本名
岡倉 覚三(オカクラ カクゾウ)

別名
幼名=覚蔵

学歴〔年〕
東京大学文学部〔明治13年〕卒

経歴
東大在学中フェノロサを知り影響を受けた。明治13年文部省に入り、17年図画教育調査会委員となり古美術の保護、美術教育調査に当たった。19年美術取調委員としてフェノロサと共に欧米出張。22年東京美術学校(現・東京芸術大学)創立に尽力監事となり、23年校長に就任、日本美術史講義を担当した。また帝国博物館理事・美術部長、臨時全国宝物取調掛を兼任。この間、22年に美術誌「国華」を創刊した。24年日本青年絵画協会、29年日本絵画協会などを組織。26年中国に出張。29年美校に西洋画と図案の2科を新設。31年反岡倉派の策謀天心排斥の美術学校騒動が起こり、天心は辞職したが、橋本雅邦ら15人が連判辞職、門下横山大観、菱田春草らを率い日本美術院を創立した。34年内務省命でインドに旅行。37年ボストン美術館の招きで渡米、同館中国日本部顧問となった。38年帰国、また渡米、中国、ヨーロッパを渡航。その後、日本美術院は経営難に陥り同年茨城県五浦に移転した。40年文展審査委員となり、43年東京帝大で泰東巧芸史を講じ、同年10月ボストン美術館中国日本部管理者に任命された。45年中国、インドへ旅行し大正2年病を得て帰国、五浦に帰った。主著英文の「東洋理想」(36年)、「日本の覚醒」(37年)、「茶の本」(39年)がある他、「岡倉天心全集」(全9巻)がある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

367日誕生日大事典 「岡倉 天心」の解説

岡倉 天心 (おかくら てんしん)

生年月日:1863年12月26日
明治時代の美術評論家;思想家。東京美術学校校長
1913年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

今日のキーワード

脂質異常症治療薬

血液中の脂質(トリグリセリド、コレステロールなど)濃度が基準値の範囲内にない状態(脂質異常症)に対し用いられる薬剤。スタチン(HMG-CoA還元酵素阻害薬)、PCSK9阻害薬、MTP阻害薬、レジン(陰...

脂質異常症治療薬の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android