島津氏久(読み)しまづうじひさ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「島津氏久」の意味・わかりやすい解説

島津氏久
しまづうじひさ
(1328―1387)

南北朝時代の武将嘉暦(かりゃく)3年4月11日生まれ。父は島津貞久(さだひさ)。1363年(正平18・貞治2)父より大隅(おおすみ)国守護職(しゅごしき)を相続したが、薩摩(さつま)国守護職は兄師久(もろひさ)が相続し、島津氏の守護職は分割相続された。氏久は奥州(おうしゅう)島津氏の祖となる。足利直冬(あしかがただふゆ)党の畠山直顕(はたけやまただあき)方、宮(みや)方と戦い、国人一揆(こくじんいっき)とも戦った。一時は鎮西(ちんぜい)探題方とも対戦し、居城を大姶良(おおあいら)城、志布志(しぶし)城から鹿児島の東福寺(とうふくじ)城へ移すなどして守護職として領国統一を目ざし、明(みん)貿易にも努めた。至徳(しとく)5年5月4日没。墓は鹿児島市の福昌寺(ふくしょうじ)墓地改葬馬術に関する『在轡(ざいひ)集』がある。

三木 靖]

『山本正誼編『島津国史』(1972・鹿児島県地方史学会)』

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朝日日本歴史人物事典 「島津氏久」の解説

島津氏久

没年:嘉慶1/元中4(1387)
生年:嘉暦3(1328)
南北朝時代の大隅(鹿児島県)守護。貞久の4男。越後守,陸奥守。観応2/正平6(1351)年,観応の擾乱で九州の武家方が将軍足利尊氏方と佐殿同直冬方に分裂すると,佐殿方畠山直顕の軍勢と戦い,その後宮方に転じ大隅国の国人層を帰伏させていった。貞治2/正平18年に父貞久から大隅国守護職を譲られ,鹿児島東福寺城,大隅大姶良城(鹿屋市),日向志布志城(鹿児島県志布志町)と居城を移し,領国経営に努めた。永和1/天授1(1375)年,少弐冬資が肥後(熊本県)水島で九州探題今川了俊に謀殺されると今川氏方と対立,了俊は反島津氏の国人一揆を組織してこれに対抗した。馬術に優れ,馬術書「在轡集」を残す。<参考文献>山口隼正「大隅国守護」(『南北朝期九州守護の研究』)

(福島金治)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「島津氏久」の解説

島津氏久 しまづ-うじひさ

1328-1387 南北朝時代の武将。
嘉暦(かりゃく)3年生まれ。島津貞久(さだひさ)の4男。足利尊氏に属し,北朝方,将軍方としてたたかう。貞治(じょうじ)2=正平(しょうへい)18年(1363)大隅(おおすみ)守護職をつぎ,奥州家島津氏初代となる。総州家島津氏初代の兄師久(もろひさ)とともに島津氏6代。九州探題今川了俊と対立しつつ,領国経営につとめた。至徳4=元中4年閏(うるう)5月4日死去。60歳。通称は又三郎。著作に馬術書「在轡(ざいひ)集」。

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世界大百科事典(旧版)内の島津氏久の言及

【大隅国】より

…ついで大隅には肝付氏に代わって日向の楡井(にれい)氏が進出,南朝方の中心として活躍した。島津氏久がもっぱらこれに当たり,日向から入部してきた畠山直顕も協力した。しかしやがて畠山氏と島津氏が大隅の支配権をめぐって争うことになり,一時は大隅国の豪族の大半は畠山方について島津氏を苦しめた。…

【薩摩国】より

…旧国名。薩州。鹿児島県西半部。
【古代】
 西海道に属する中国(《延喜式》)。大隅国と同じく日向国より分出し,合わせて南九州の三国,奥三州などと呼ばれた。《日本書紀》白雉4年(653)7月条に〈薩麻之曲竹島之間〉とみえ,《続日本紀》大宝2年(702)8月条に薩摩・多褹(たね)を征討し,戸を校(かんが)え吏を置く,10月条に唱更(はやひと)国司の言上で国内の要害に柵を建て兵を置くとあり,その説明に唱更国とは今の薩摩国府なりとあることから,このころ薩摩国は日向国より分出設置されたと思われる。…

※「島津氏久」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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