島田(読み)しまだ

精選版 日本国語大辞典 「島田」の意味・読み・例文・類語

しま‐だ【島田】

〘名〙 「しまだまげ(島田髷)」の略。
仮名草子東海道名所記(1659‐61頃)三「はたご屋の女はちりのつくも髪せめて嶋田にゆふよしもかな」

しまだ【島田】

静岡県中部、大井川下流左岸の地名。東海道五十三次の宿駅で、対岸の金谷とともに大井川の渡し場として有名。製材・木製品などの工業がさかん。昭和二三年(一九四八市制

しまだ【島田】

(「しまた」とも) 姓氏の一つ。

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デジタル大辞泉 「島田」の意味・読み・例文・類語

しまだ【島田】[姓氏]

姓氏の一。
[補説]「島田」姓の人物
島田一男しまだかずお
島田三郎しまださぶろう
島田清次郎しまだせいじろう
島田善介しまだぜんすけ
島田蕃根しまだばんこん
島田雅彦しまだまさひこ
島田陽子しまだようこ

しまだ【島田】[地名]

静岡県中部の市。もと東海道宿場町で、大井川の渡し場として有名。木材の集散地製材業が盛ん。牧之原市との境に静岡空港がある。平成17年(2005)に金谷町と合併。平成20年(2008)に川根町を編入。人口10.0万(2010)。

しまだ【島田】

島田髷しまだまげ」の略。

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改訂新版 世界大百科事典 「島田」の意味・わかりやすい解説

島田[市] (しまだ)

静岡県西部の市。2005年5月大井川をはさみ対岸にある旧島田市と金谷(かなや)町が合体,08年4月川根(かわね)町を編入して成立した。人口10万0276(2010)。

島田市西部の旧町。旧榛原(はいばら)郡所属。人口2万0836(2000)。大井川下流西岸に位置する。中心部をJR東海道本線,国道1号線が通り,大井川沿いに上流の井川まで延びる大井川鉄道の起点でもあり,大井川流域の交通の要地となっている。南部は牧ノ原台地で,東洋で最大規模の大茶園が広がり,農林水産省茶業試験場などがある。農業は茶生産を主体にミカンや野菜の栽培,低地での米作が行われる。工業は地場産業の製茶,製材のほか,医薬品,コンクリート製品,鉄工などの工場が進出しているが,特に製茶機械の生産は全国有数である。八十八夜の新茶の時期にお茶祭が開催され,観光客が多数訪れる。武田信玄が築いた諏訪原城(史)がある。
執筆者:

遠江国の宿駅。大井川をはさみ,対岸の島田宿とともに東海道の交通の要地として発展。〈かなや〉の地名があらわれるのは室町時代末,太田道灌の作という《平安紀行》や宗祇の《名所方角抄》以降のことである。近世の宿駅としては,1601年(慶長6)に幕府により設定された。金谷宿は金谷町と河原町からなり,前者はおもに伝馬役を,後者は加宿としておもに川越役と歩行役を勤めた。《宿村大概帳》によれば,宿内町並東西16町24間,1843年(天保14)の改めで,宿内人口加宿とも4271人,家数1004軒(うち本陣3,脇本陣1,旅籠屋51軒)であった。宿建人馬はふつう100人・100疋であったが,人足155人5分・馬100疋と定められた。これは,金谷宿が東は大井川の渡,西は小夜ノ中山(さよのなかやま)の峠越という,交通の難所であることが配慮されたからであろう。また,川留めの際には一度に多数の旅人が滞在するため,休泊を請け負う寺院が10ヵ寺にものぼっている。
執筆者:

島田市北部の旧町。旧榛原郡所属。人口6501(2000)。中央部を大井川が南流し,川に沿って大井川鉄道が通る。大井川には西から家山川,東から笹間川,身成川が注ぎ,これらの河川沿いに集落が点在する。中心地は家山で,中世には山香荘のうちにあった。町域の大半が山林で占められ,茶の栽培と林業が営まれる。茶業は長い伝統をもち,気候条件にも恵まれて,天然玉露とも呼ばれる名茶,川根茶を産し,茶の生産額は農業生産額のほとんどを占める。林業は杉,ヒノキの素材生産のほかにシイタケの栽培が行われる。町内には桜や紅葉の名所の天王山,河跡湖の野守の池,笹間ダムなどがあり,旧島田市との境にある笑い仏から南部をまわって西端の大日山金剛院までの17kmが東海自然歩道になっている。
執筆者:

島田市中東部の旧市。1948年市制。人口7万5248(2000)。市域の大部分は大井川左岸にあり,市街地は大井川左岸扇状地の扇頂部に位置するが,平安末期以降初倉荘に属した初倉地区は右岸にある。中心の島田は明治初年に大井川の渡船と架橋が解禁されるまでは,東海道の主要な宿場町で,川止めによる通行の難所として知られた。島田髷は当宿の遊女が結い始めたといわれる。明治以降は大井川のいかだ流しを利用した木材の集散地として発展,製材,木工,製材機械などの工場が集中した。大井川上流に広大な社有林をもつ紙パルプ工場が工業の中心であるが,近年は自動車部品,繊維,食品などの工場も増加した。農業は茶が主体で,北部山地では茶,ミカン,シイタケ,西部の牧ノ原台地は茶,南部の平野部は米のほか,レタス,キュウリなどの施設園芸が盛んである。大井川川越遺跡(史)や天台宗智満寺があり,智満寺の本堂,千手観音像(本尊)などは重要文化財,十本杉は天然記念物に指定されている。また大井神社では3年に1度,帯祭が行われる。JR東海道本線が通る。
執筆者:

駿河国の宿駅。大井川下流左岸に位置する東海道の交通の要地として発展する。《吾妻鏡》によれば,1190年(建久1)に源頼朝が上洛の帰途島田に宿泊しており,鎌倉期にはすでに宿駅として整備されていた。以後中世を通じて,紀行文などにその名がみえる。近世宿駅としては,1601年(慶長6)に幕府により設定された。東は藤枝宿へ2里8町,西は大井川を越えて金谷宿へ1里半である。ところが,04年に大井川の洪水により大打撃をうけ,一時元島田に移転するが,15年(元和1)に旧宿域へ戻った。《宿村大概帳》によれば,宿内町並東西9町40間,天保期(1830-44)の人口6727人,家数1461軒(うち本陣3,旅籠屋48軒)となっている。また川止めで多数の旅人が滞在することもあり,休泊を請け負う寺院が5ヵ寺あった。当宿では大井川の渡が重要業務となっており,1696年(元禄9)には川越(かわごし)の管理・統制にあたる川庄屋が2名任命され,後に川会所も設けられた。1803年(享和3)の〈島田宿書上控〉によれば,川会所には川庄屋4人,年行事9人,添役2人,待川越12人,川越小頭12人とされ,川越人足は350人であった。また《大概帳》によれば,他宿と同様人馬継問屋場があり,問屋1人,年寄3人,帳付4人,馬指3人,人足指3人,飛脚番10人と定められている。当宿は町組(宿)と枝組(地方(じかた))とからなっており,枝組の名主は町組の問屋・年寄の兼帯であった。そしてその支配が恣意的であったため,枝組の農民が町組宿役人の非法を代官所や江戸の勘定奉行に訴えるなど,両者の対立がくりかえされた。また当宿内には,島田代官所の陣屋があった。初代代官長谷川長盛は,1616年に野田村にあった代官所を宿内に移し,以後新田開発や大井川の治水に尽力しつつ,長谷川氏が5代にわたり代官を務めた。その後の代官は野田,窪島,大草など次々に変わり,1794年(寛政6)に至り,駿府代官所に統合された。
執筆者:

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事典・日本の観光資源 「島田」の解説

島田

(静岡県島田市)
東海道五十三次」指定の観光名所。

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世界大百科事典(旧版)内の島田の言及

【大井川】より

…またこの川には先の接阻峡,寸又峡をはじめとして,本流の田代~徳山間,塩郷~笹間渡(ささまど)間(鵜山七曲(うやまななまがり))などに著しい穿入(せんにゆう)曲流区間があって,景勝の地として知られる。島田~金谷間のやや北で山地を離れた大井川は,南と西を牧ノ原台地に限られて,扇状地性の大井川平野を東方に向けて発達させている。この牧ノ原台地は,旧大井川のはんらん原がその後に隆起してできた洪積台地で,面上には明治以降に開かれた大茶園が広がっている。…

※「島田」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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