崇福寺(読み)そうふくじ

精選版 日本国語大辞典 「崇福寺」の意味・読み・例文・類語

そうふく‐じ【崇福寺】

[一] 福岡市博多区千代にある臨済宗大徳寺派の寺。山号は横嶽山。仁治元年(一二四〇)湛慧(たんえ)が大宰府の横嶽に創建。翌年宋から帰朝した円爾弁円を開山に迎えた。慶長五年(一六〇〇黒田長政が現在地に移し、黒田氏の菩提寺とした。
[二] 長崎市鍛冶屋町にある黄檗(おうばく)宗の寺。山号は聖寿山。寛永九年(一六三二)中国商人王氏らが福州出身の僧超然(ちょうねん)を開山として創建。隠元隆琦・即非如一らが住み堂宇を修築した。中国風の様式を持つ黄檗宗寺院の代表的建築として知られ、第一峰門(唐門)・大雄宝殿は国宝。中国人の信徒が多い。支那寺。赤寺。福州寺。唐寺。

すうふく‐じ【崇福寺】

[一] 滋賀県大津市滋賀里町にあった古寺。天智天皇七年(六六八)天智天皇の勅願により創建。十大寺または十五大寺の一つとして栄えたが、長寛元年(一一六三)延暦寺の衆徒の手で焼かれて廃絶。礎石や基壇などが残存する。国史跡。志賀寺。志賀山寺。紫郷(しが)山寺。

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デジタル大辞泉 「崇福寺」の意味・読み・例文・類語

そうふく‐じ【崇福寺】

福岡市博多区にある臨済宗大徳寺派の寺。山号は横岳山。仁治2年(1241)湛慧たんえが太宰府に創建。慶長5年(1600)黒田長政が現在地に移し、菩提寺として再興した。
長崎市鍛冶屋かじや町にある黄檗おうばくの寺。山号は聖寿山。中国福建省の商人らが福州人の菩提寺として寛永6年(1629)創建。開山は超然ちょうねん中興開山即非如一そくひにょいち。大雄宝殿と第一峰門は国宝。福州寺。支那寺。すうふくじ。

すうふく‐じ【崇福寺】

滋賀県大津市滋賀里町にあった寺。大津宮おおつのみや遷都の翌年、天智天皇7年(668)勅願によって創建。たびたびの火災で衰微、寛喜2年(1230)園城寺に付属し、以後廃絶。志賀寺。志賀山寺。
そうふくじ(崇福寺)
Sung Phuc Tu》⇒タイフーン寺

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日本歴史地名大系 「崇福寺」の解説

崇福寺
そうふくじ

[現在地名]博多区千代四丁目

横岳山を山号とする臨済宗大徳寺派の寺院。本尊は釈迦三尊。当寺は仁治元年(一二四〇)宋から帰国した随乗房湛慧が大宰府よこ岳の地に寺を建立したことに始まる。湛慧は顕密の教学を修めて入宋し、宋国五山の第一位興聖万寿禅寺(中国浙江省杭州府。通称は径山)無準師範のもとに参じた僧であった。日本に帰国する際に同じ無準師範に参ずる円爾との間で、帰国したら一寺を建立して円爾を招聘することを約束した。湛慧は円爾の弟子でもあった。同二年に帰国した円爾は約束どおり湛慧の請いに応じて当寺の開堂式を行い、南宋より将来した仏鑑(無準師範)直筆の「勅賜万年崇福禅寺」の八大字額を掲げて禅法を挙揚した(聖一国師年譜)。円爾による開堂は大宰府の地で博多禅の展開が本格的に始まったことを示す。その後当寺は円爾の管掌する禅寺として、同じく円爾が開山した博多承天じようてん寺と同様の歩みをする。文応元年(一二六〇)には南宋の名僧兀庵普寧が当寺に止宿し、文永六年(一二六九)には円爾の弟子で南宋に渡海した山叟慧雲が承天寺から移るなど(山叟和尚語録・古尊宿語録)、渡海僧とのかかわりが深い。また寛元元年(一二四三)有智山うちやま(現太宰府市)の衆徒が新興勢力である禅宗(承天寺)を圧迫したため、当寺は承天寺とともに勅命によって官寺に加えられた(聖一国師年譜・元亨釈書)。弘安三年(一二八〇)死期を迎えた円爾が京都東福寺関係の後事を定めた規式(同年六月一日「東福寺規式」東福寺文書/鎌倉遺文一八)には、承天寺を円爾の法房(円爾の寺)とし、当寺のことも東福寺が責任をもって処理することが明記されている。このなかで少弐経資(資能の子)が檀那として当寺を扶持していることも書かれており、両者は強固な関係で結ばれていた。

文永八年入宋僧南浦紹明が筑前姪浜めいのはま(現西区)興徳こうとく寺から当寺に入った(円通大応国師塔銘)。南浦紹明は宋の浄慈寺の虚堂智愚に参じるなど最新の大陸情報に精通し、帰国後は鎌倉建長寺に入るなど幕府と関係の深い人物であった。

崇福寺
すうふくじ

[現在地名]大津市滋賀里町甲

近江大津宮時代、天智天皇の発願により造立されたと伝える寺院。志賀しが寺・志賀山しがのやま寺の称もあり、「枕草子」寺はの段に「石山、粉河、志賀」とある。「扶桑略記」によると金堂・講堂・小金堂・三重宝塔・僧房などを擁する大伽藍であった。古墳時代後期の百穴ひやつけつ古墳群を含めた広大な寺域は国指定史跡。

〈近江・若狭・越前寺院神社大事典〉

〔創建時期と寺号〕

平安時代成立の「延暦僧録」「崇福寺綵錦宝幢記」「三宝絵詞」「扶桑略記」「今昔物語集」などには天智天皇が発願して大津宮の乾の地に志賀寺(崇福寺)を造立したことがみえ、いわゆる大津宮所在論争の重要な論点ともなっている。しかし「日本書紀」をはじめ六国史にはこのような所伝は認められず、従来からその記述の信憑性に疑問も出されている。事実、志賀山寺の初見は「万葉集」巻二の「穂積皇子に勅して近江の志賀の山寺に遣はす時、但馬皇女の作りましし御歌一首」で、「後れ居て恋ひつつあらずは追ひ及かむ道の阿廻に標結へわが背」とある。これは持統朝のことであり、六国史ではさらにおくれ、「続日本紀」大宝元年(七〇一)八月四日条をはじめとし、同書天平元年(七二九)八月五日条(紫郷山寺)、同一二年一二月一三日条などにみえ、同書天平勝宝元年(七四九)閏五月二〇日条、同七月一三日条では崇福寺の名でみえる。これらから当初所在地の名をとって志賀山寺とよばれていたが、天平末年頃崇福寺という寺号を得て、両者を併用することになったと考えられる。

「日本紀略」延喜二一年(九二一)一一月四日条にも「暁、崇福寺堂塔雑舎等焼失、建立之後二百五十三年」とあるように、天智天皇七年(六六八)説は依然有力で、あるいはこの頃に着工された可能性が大きい。しかし壬申の乱後造営は中止されたとみられ、その事実上の初見が持統朝であることは、乱後の反天智天皇の感情が天武天皇の死後ようやく収まり、天智天皇の娘である持統天皇による父の名誉回復・追福の一部として志賀山寺造営の再開がなされたと考えられる。「続日本紀」大宝元年前掲条に志賀山寺の食封を前年の文武天皇四年(七〇〇)から教えて三〇年で停止するという太政官処分がなされたとあるのは、この年施行された大宝律令の食封五年の規定に対する例外的な優遇措置とみられ、天智天皇への追福意識の高まりを示しており、この前後に急速に寺容が整備されたとみられる。

崇福寺
そうふくじ

[現在地名]長崎市鍛冶屋町

大光だいこう寺の南東にある。興福こうふく寺・福済ふくさい寺とともに唐三ヵ寺と称され、福州ふくしゆう寺とも号した。聖寿山と号し、黄檗宗。本尊は釈迦如来。寛永六年(一六二九)明から来た超然を開基とする。唐人による寺院の建立は先祖の供養と海上安全を祈願して長崎奉行に申請したものであるが、キリスト教禁令下でその取締を避けるためでもあり、福州出身の王氏・林氏などの船主らが相談して超然を招いた。檀主は林太卿(楚玉)。当時は媽姐の祀堂としての性格が強かったとされる。正保元年(一六四四)頃から諸檀家の寄進で殿堂が整備され、この年唐通事の守(楚玉の子、日本名は林仁兵衛)の寄進で赤門(第一峰門、国宝)が造立されたが、軒下に四手先三葉が詰組みされた独特のもの。この用材はすべて中国産で、大陸の工匠が製作して船で運び、当地で組立てたという(長崎実録大成)

崇福寺
そうふくじ

[現在地名]岡崎市中島町 道海

中島なかじま地籍の北東部に位置する。三河三檀林の一つで、廬安山と号する。浄土宗西山深草派の中本寺で、本山は京都円福寺であった。本尊阿弥陀如来。寺伝では昌泰三年(九〇〇)醍醐天皇の勅願道場として建立され昌泰しようたい寺と称し、天台宗であった。開山天祐は応安三年(一三七〇)播磨国白旗城で生れ、同国守護赤松師範の八男である。嘉吉元年(一四四一)の嘉吉の乱後に三河に来て、由良光家の菩提所昌泰寺を興し、文安年中(一四四四―四九)に浄土宗に改宗して崇福寺としたという。「後深草史」では天祐の三河入国を永享一〇年(一四三八)としている。

崇福寺
そうふくじ

[現在地名]岐阜市長良福光

長良橋北詰の北西方に位置。神護山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊地蔵菩薩。寺伝では、文明元年(一四六九)土岐氏の重臣長井藤左衛門長弘により建立されたとも、明応二年(一四九三)守護代斎藤利国(妙純)の実弟斎藤利安が長良の居館を禅寺にしたともいい、開山は京都妙心寺東海派の祖悟渓宗頓の弟子独秀乾才が招請された。以後独秀派の根本道場として栄え、名僧が輩出した。なかでも有名な僧は、永禄七年(一五六四)一〇月四日以前に甲斐の恵林えりん(現山梨県塩山市)に移った快川である(「武田信玄書状」寺蔵文書)

崇福寺
そうふくじ

[現在地名]稲沢市稲沢町 居屋敷

美濃路と三宅みやけ川の間にあり、金剛山と号し臨済宗妙心寺派、本尊薬師如来。明徳二年(一三九一)以前の創建、開山は禅源ぜんげん寺開山大清。貞享四年(一六八七)神明宮境内から現在地へ移したと伝える(徇行記)

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改訂新版 世界大百科事典 「崇福寺」の意味・わかりやすい解説

崇福寺 (すうふくじ)

滋賀県大津市滋賀里町甲にあった古代の官寺。志賀山寺ともいい,668年(天智7)天智天皇が霊夢により大津宮の北西山中に創建したと伝える。《扶桑略記》が引く縁起によると,諸堂舎がそなわり,弥勒の丈六像を本尊とした。798年(延暦17)には十大寺の一つに数えられたが,921年(延喜21)火災のため焼失した。再建の後もまた965年(康保2)火災にあい,しだいに衰退し,13世紀以後まったく廃絶した。
執筆者:

二つの小さな谷をはさんで南北3ヵ所に礎石が残っている。1938年,39年発掘調査が行われた。中央の舌状台地に西に小金堂,東に塔があり,谷をへだてた北の山腹を削り出した段に弥勒堂とよばれる講堂が構えられ,両者を橋で連絡していたことがわかり,これが668年につくられた大津宮(近江大津宮)と考えられる。39年の塔の発掘で地下1mに心礎が検出され,心礎の東側面に横穴状の舎利孔が創建当初の状況でみつかった。ここに金のふたをしたフラスコ形の緑色ガラス製の舎利容器が,長方形の内にガラス容器をのせる蓮華座をつけた金製の内函,同形の銀製中函,香様(こうざま)の台をもつ青銅製外函に収められていた。これに金銀平脱鉄鏡,無字銀銭,鈴,玉を伴っていた。中央台地北斜面から7世紀中葉の瓦とともに塼仏,塑像片などが発見されている。この寺の廃絶後桓武天皇がこの地に臨みこの寺を復興させた。

 小金堂,塔,弥勒堂のほかに中央台地より谷をへだてた南に金堂と講堂と現在よんでいるより規模の大きな堂宇もつくられ,これらすべてを梵釈寺とよんだとも考えられる。泥塔,緑釉陶,須恵器硯をはじめ平安時代の瓦が全域で検出される。八花鏡,佐波理(響銅(さはり))鋺なども採集されている。
執筆者:

崇福寺 (そうふくじ)

長崎市にある黄檗(おうばく)宗の寺。山名は聖寿山。黄檗宗の寺としては日本最古の寺である。1629年(寛永6)(一説には1632年)明人商人王氏らにより創建され,福州より渡来した超然(ちようねん)を開山とした。このため福州寺とも別称される。1644年(正保1)重建され,51年(慶安4)には道者超元が院事を領し,続く55年(明暦1)には京都の万福寺の開祖として名高い隠元が入寺した。この後,隠元門下の即非如一が中興として堂舎の改築に尽力した。当寺は入港船舶の海上安穏を祈るとともに明人商人等の菩提寺の役割も果たしていた。境内には国宝に指定された第一峰門(だいいつぽうもん)(1644),大雄宝殿(1646)をはじめ,重要文化財の鐘楼堂(1648),護法堂(1731),媽姐門(1827),三門(1849)などが建つ。第一峰門は中国で部材を切り組み,これを舶載して建立したものと伝え,とくに斜め方向に組物を出し,網目状に軒下を覆うなど,中国明末・清初の建築様式を伝えている。大雄宝殿は当時の本堂にあたり,建立当初は単層で,のちに上層を付加した。初重の軒回りの工法,絵様の繰形(くりかた)など,中国建築の影響が顕著である。長崎の福済寺(1945年の戦災で焼失)および京都の万福寺とともに黄檗宗の代表的建築であるが,こうした建築様式は日本の近世建築に影響を及ぼすまでにはいたらなかった。
黄檗美術
執筆者:

崇福寺 (そうふくじ)

福岡市博多区にある臨済宗大徳寺派の寺。山号は横岳山。1241年(仁治2)随乗房湛慧が大宰府横岳に建立し円爾弁円を開山とした。43年(寛元1)官寺に列せられ,71年(文永8)南浦紹明も入寺し,80年(弘安3)には東福寺下に属した。その後,室町時代には諸山,十刹にも列せられ,また大友宗麟の保護も受けたが,1586年(天正14)兵火に罹(かか)り諸堂がことごとく焼失した。近世に入り,1602年(慶長7)黒田長政は寺基を現在の地に移し菩提所となし,諸堂再建,寺領寄進等を行う一方,京都大徳寺の春屋良把を請じて中興開山とした。以来当寺は九州一派の惣録所として繁栄。境内には黒田孝高・長政等の墓もある。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「崇福寺」の意味・わかりやすい解説

崇福寺【そうふくじ】

長崎市鍛冶屋町にある黄檗(おうばく)宗の寺。本尊釈迦如来。1629年明の帰化商人王氏らが僧超然を開山として創建,のち隠元が住して黄檗宗を伝え,その弟子即非が伽藍(がらん)を整備した。明末清初の形式をそのまま伝える第一峰門,大雄宝殿(本堂)や腰を漆喰(しっくい)塗とした三門等特異な建築が多い。これらのほか,赤門,護法堂なども国宝。
→関連項目黄檗宗長崎[市]

崇福寺【すうふくじ】

近江(おうみ)国滋賀郡にあった古寺。668年天智天皇の創建と伝え,1230年に園城寺に付属するが,廃絶した。遺跡は大津市滋賀里町にあり,国指定史跡。金堂,講堂,弥勒(みろく)堂,小金堂,塔の跡が通称見世山中に点在する。塔心礎から金・銀・銅製の三重箱にガラス壺を納めた舎利容器(国宝)が発見されたほか,多数の遺物が出土。
→関連項目魚々子

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「崇福寺」の意味・わかりやすい解説

崇福寺
そうふくじ

長崎県長崎市鍛冶屋町にある黄檗宗の寺。山号は聖寿山。支那寺ともいう。中国の福州から渡来した商人たちによって創建され,福州出身の僧超然(ちょうねん)を開山としたので,福州寺の別称がある。承応4(1655)年から隠元隆が止宿し,明暦3(1657)年には隠元の招きによって即非が来住,大いに栄えた。明の様式を取り入れた堂宇は黄檗宗建築の代表例として名高く,大雄宝殿,第一峰門は国宝建造物。長崎の興福寺,福済寺とともに三福寺といわれる。

崇福寺
そうふくじ

福岡市博多区崇福寺新町にある臨済宗の寺。山号は横岳山。仁治1 (1240) 年に湛慧 (たんえ) が太宰府横岳に建立,同2年宋から帰朝した円爾を迎えて開山とし,文永9 (72) 年来住した南浦紹明が大いに寺の名を揚げた。慶長5 (1600) 年黒田長政によって現在地に移され,以後黒田家の菩提寺となって栄えた。

崇福寺
すうふくじ

滋賀県大津市滋賀里町の山中に天智7 (668) 年に建立された寺。平安時代になって数回の火災と地震にあい,天喜5 (1057) 年に再興されたが,やがて荒廃し,現在は廃寺となっており,金堂,講堂などの礎石だけが残っている。「そうふくじ」ともいう。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「崇福寺」の解説

崇福寺
そうふくじ

長崎市鍛冶屋町にある黄檗(おうばく)宗の寺。通称は福州寺・赤寺。聖寿山と号す。興福寺・福済寺とともに三福寺の一つ。中国の福州から来日した超然(ちょうねん)が1635年(寛永12)に創建し,日本黄檗宗の開祖隠元隆琦(いんげんりゅうき)が55年(明暦元)入寺した。ついで57年に法弟即非如一(そくひにょいち)が来日して伽藍を整備し,中興開山とされる。伽藍は中国風様式を特色とする黄檗寺院のなかでも代表的な建築で,大雄宝殿・第一峰門は国宝。

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デジタル大辞泉プラス 「崇福寺」の解説

崇福(そうふく)寺

長崎県長崎市にある寺院。黄檗宗。山号は聖寿山。中国福建省からの渡来商人らが1629年(一説には1632年)に創建。明の建築様式を取り入れた第一峰門、大雄宝殿(国宝)など、数多くの文化財を所蔵。

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事典・日本の観光資源 「崇福寺」の解説

崇福寺

(福岡県福岡市博多区)
福岡県文化百選 建物編」指定の観光名所。

崇福寺

(長崎県長崎市)
長崎県新観光百選」指定の観光名所。

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世界大百科事典(旧版)内の崇福寺の言及

【舎利容器】より


[日本]
 古代寺院跡から発見された舎利容器の実例は数例にしかすぎないが,それらの例からすれば外容器として金器,銀器,銅器が順に入れ子にして用いられ,舎利の直接容器としてガラス器を用いるのが正式なものだったようである。崇福寺跡の例では,心礎の側面にうがたれた舎利孔から金製の蓋をもつ緑色のガラス製舎利容器を納めた金箱,銀箱,金銅箱の外容器が,法隆寺では西院五重塔心礎上面にうがたれた舎利孔から銀栓をした緑色のガラス製舎利容器を納めた透し彫の卵形金器,同銀器,金銅壺が出土した。山田寺の場合もこうした埋納法であることが《上宮聖徳法王帝説》裏書に見えているので,断片的に遺存している飛鳥寺,法輪寺,太田廃寺なども同じような形で埋納されたものと考えられる。…

【黄檗美術】より

…江戸初期の黄檗宗の渡来は,当時最新の中国文化を日本に紹介するうえで大きな役割を果たしたが,美術の分野でもその足跡は建築,彫刻,絵画,書,工芸の各分野に及んでいる。建築ではまず,長崎の居留民のために崇福寺,福済寺,興福寺などがつくられた。崇福寺の第一峰門(1644),大雄宝殿(1646)がその代表的遺構であり,渡来工人による明代の寺院建築の意匠,彩色が強い異国風を感じさせる。…

※「崇福寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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