左翼民主党(読み)さよくみんしゅとう(英語表記)Partito Democratico della Sinistra

日本大百科全書(ニッポニカ) 「左翼民主党」の意味・わかりやすい解説

左翼民主党
さよくみんしゅとう
Partito Democratico della Sinistra

イタリアの社会民主主義政党。略称PDS左翼民主党は、1991年のイタリア共産党の抜本的改革によって、オケットAchille Occhetto(1936― )を党首として結党された。1993年の選挙制度改正(小選挙区制+比例代表制)によって、他党との連合が不可避となったため、左翼民主党の主導下に、再建共産党、緑の党、再興社会党、キリスト教社会派などによる、進歩派Progressistiを名のる中道左派の政党連合を組織することに成功した。中道左派連合は、1994年4月選挙法改正後の最初の総選挙で当初優勢を維持しながらも、フォルツァ・イタリア(FI)のメディアを利用した圧倒的な集票力に押されて敗北した。進歩派は、下院で213議席(33.8%)しか取れず、左翼民主党(下院109議席)を除く左派連合のどの政党も振るわなかった。

 選挙での敗北は、左翼民主党の前途にさまざまな困難があることを明らかにしたが、他方、総選挙後成立した中道右派政権も、内部の対立によってわずか7か月で崩壊、その後1年半も政党政治の空白が続いた。ようやく左翼民主党が活路をみいだしたのは、1995年、近づく総選挙に備えて、経済学者で巨大公社IRI総裁の経歴をもつプロディイニシアティブで左翼民主党、緑連合、人民党の3党によって「オリーブの木Ulivo」を結成しようとする動きであった。

 1996年の総選挙で「オリーブの木」に結集した中道左派連合は、下院282議席(得票率42.3%)を獲得して勝利、その中で左翼民主党は21.1%の得票率をあげてその存在を明らかにしたものの、連立政権の首相にはプロディが選ばれた。しかし同政権発足から2年足らずの1998年秋、州選挙に敗北した責任をとってプロディ首相は辞任。その後左翼民主党書記長ダレーマMassimo D'Alema(1949― )とアマートGiuliano Amato(1938― )が首相を交代して、中道左派連立政権はようやく2001年3月に5年間の任期を終えた。

 振り返ってみれば、プロディによる「オリーブの木」の創設は、左翼民主党がほぼ10年後の2007年末、カトリックのマルゲリー夕との合同を果たして民主党Partito Democratico(PD)を成立させた道程の出発点となったといえる。その間左翼民主党は、1998年「左翼の民主派」Democrati di Sinistra(DS)に改名、さらに2005年、ウニオーネUnioneへの統合を果たす一方、人民党はすでにマルゲリー夕(人民党+ヨーロッパ民主連盟+ディーニ民主派)を名のり、2005年にウニオーネの結成に参加した。旧共産党系と旧カトリック系の二つの政党が統一の機会をつかみ、現在の民主党(PD)の結成へつなげることができたのである。2006年春の総選挙でウニオーネが勝利し、プロディが首相に再任された。しかし2年後には閣内不一致によって崩壊し、2008年4月に繰り上げ選挙が実施された。前年末にマルゲリー夕と合流したばかりの民主党(PD)党首ベルトローニWalter Veltroni(1955― )は、「価値あるイ夕リア」(IdV)と連合を組み選挙を戦ったが、約340万票差でべルルスコーニの「自由の市民」党連合に敗北した。

[柴田敏夫]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「左翼民主党」の意味・わかりやすい解説

左翼民主党
さよくみんしゅとう
Partito Democratici di Sinistra

略称 PDS。旧イタリア共産党 PCI。イタリア最大の組織政党であると同時に資本主義国の共産党系政党のうちで最大の党。 A.ボルディーガ,A.グラムシなどによって 1921年に創立された。 26年に指導者たちが逮捕され,解散を命じられたため地下活動に入った。その後,第2次世界大戦末期反ファッショ,反ナチス運動の主役をになって戦後における勢力伸長の礎をつくり,P.トリアッチの指導のもと,イタリアの戦後復興と並行して勢力を拡大し,51年,党員数は 250万に達するほどの大組織となった。 56年以降,ハンガリー動乱,スターリン批判などの影響を受けて,党員の激減をみたものの,常に 150万を前後する党員数を誇っている。党の基本路線はグラムシ,トリアッチの思想的影響のもとに生み出された構造改革路線である。 56年『社会主義へのイタリアの道』において打出された構造改革路線は「議会での勝利による政権の獲得」を骨格とする議会主義平和革命路線である。 68年の下院選挙では,全得票数の4分の1を占め,76年6月の総選挙では得票率 34.4%という西側共産党では最大の支持を得た。中部,南部の農村部に地盤をもち,支持者は工場労働者,農業労働者が中心である。 1980年代後半以後,各国の共産党が深刻な支持者離れという事態に直面するなか,91年2月,左派勢力の大同団結を目指し左翼民主党と改称した。国際的な退潮ムードのなかで広範な勢力を吸収することがねらいであったが,92年総選挙では上下両院で議席を減らした。 95年「オリーブの木連盟」に参加し,96年以降連立内閣の一翼をにない,98年にはマッシモ・ダレーマ書記長を首相とする連立内閣を組織した。

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