市川団十郎(読み)いちかわだんじゅうろう

精選版 日本国語大辞典 「市川団十郎」の意味・読み・例文・類語

いちかわ‐だんじゅうろう【市川団十郎】

歌舞伎俳優。屋号成田屋。定紋三升(みます)
[一] 初世。本姓堀越。俳名才牛。幼名海老蔵。江戸の人。荒事(あらごと)の創始者。元祿年間(一六八八‐一七〇四)の江戸歌舞伎の代表的名優。三升屋兵庫の名で「参会名護屋=暫(しばらく)」、「源平雷(なるかみ)伝記=鳴神」などの脚本を書き、これを得意芸とした。俳優生島半六(一説に杉山半之丞)に市村座の舞台で殺された。万治三~宝永元年(一六六〇‐一七〇四
[二] 二世。初世の長男。俳名栢莚など。市川家の基礎を固めた。元祿元~宝暦八年(一六八八‐一七五八
[三] 四世。初世松本幸四郎の養子。引退後俳名海老蔵を名乗り、演技研究のための「修行講」を主宰。正徳元~安永七年(一七一一‐七八
[四] 五世。四世の子。俳名白猿。寛政期(一七八九‐一八〇一)の名優。寛保元~文化三年(一七四一‐一八〇六
[五] 七世。五世の孫。俳名寿海老人。あらゆる役をよくした江戸末期の代表的名優。歌舞伎十八番を制定し、「勧進帳」を創演した。寛政三~安政六年(一七九一‐一八五九
[六] 九世。七世の五男で八世の弟。明治七年(一八七四団十郎を相続し、明治の劇聖といわれる。活歴劇の創始、新歌舞伎十八番の制定など、歌舞伎の向上発展にも尽力した。天保九~明治三六年(一八三八‐一九〇三
[七] 一一世。七世松本幸四郎の長男。昭和三七年(一九六二)一一世を襲名。昭和一五年以来、海老蔵の名で親しまれ、戦後の歌舞伎復興に貢献した。明治四二~昭和四〇年(一九〇九‐六五

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

デジタル大辞泉 「市川団十郎」の意味・読み・例文・類語

いちかわ‐だんじゅうろう〔いちかはダンジフラウ〕【市川団十郎】

歌舞伎俳優。屋号、成田屋。江戸歌舞伎を代表する名門で、荒事あらごとの宗家。
(初世)[1660~1704]一説では14歳で荒事を創始したといわれ、三升屋兵庫の名で脚本も書いた。俳優生島半六に舞台で刺殺された。
(2世)[1688~1758]江戸の人。初世の長男。隈取くまどの工夫など荒事を洗練させ、市川家の芸として確立した。
(7世)[1791~1859]江戸の人。5世の孫。歌舞伎にを取り入れるなど革新に努めた。歌舞伎十八番を選定。
(9世)[1838~1903]江戸の人。8世の弟、7世の五男。本名、堀越秀ほりこしひでし活歴と称する新作の歴史劇を演じた。明治の劇聖とよばれる。
(11世)[1909~1965]東京の生まれ。7世松本幸四郎の長男で、10世の養子。本名、堀越治雄ほりこしはるお。天性の美貌と華のある芸風で人気を博した。
(12世)[1946~2013]東京の生まれ。11世の長男。本名、堀越夏雄ほりこしなつお。歌舞伎十八番の継承・復活に尽力。パリのオペラ座など、海外での公演にも積極的に取り組んだ。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「市川団十郎」の意味・わかりやすい解説

市川団十郎 (いちかわだんじゅうろう)

歌舞伎俳優。12世まである。姓は堀越。屋号は代々成田屋。定紋は三升(みます)。早世した3世,6世を除いて代々名優で,江戸歌舞伎界屈指の名跡である。(1)初世(1660-1704・万治3-宝永1)祖先は甲州の武士で,永正年中に北条氏康の家臣となり,のち下総国埴生(はにゆう)郡幡谷(はたがや)村に移住して郷士となり,堀越姓を称したと伝える。出身については,奥州の市川村ともいい,また葛飾郡市川村とする説もある。初世の父重蔵は江戸に出て俠客と交わり,〈菰(こも)の重蔵〉と呼ばれた人。通説に従うと1673年(延宝1)江戸中村座の《四天王稚立(してんのうおさなだち)》に,14歳で初舞台。この時坂田金時の役で,全身を紅で塗りつぶし,紅と墨で顔に隈(くま)を取り,童子格子の衣装に丸ぐけ帯,大太刀をはき,斧をひっさげて登場,豪快な荒事を演じて喝采を博したという。荒事の創始である。ただし,上の事実はもう少し遅れる85年(貞享2)の《金平六条通ひ》の坂田金平役の時が最初とする説がある。初世は芸の幅が広く,どんな役もこなして名声を得たが,とくに荒事に傑出した才能を示し,当時の江戸人の気風に合ったため,格別の人気を集めた。俳名才牛(さいぎゆう)。自身劇作も兼ね,《参会名護屋(さんかいなごや)》《兵根元曾我(つわものこんげんそが)》《源平雷伝記(げんぺいなるかみでんき)》《成田山分身不動(なりたさんふんじんふどう)》などを自作自演した。狂言作者としては,三升屋兵庫(みますやひようご)の筆名を併せ用いた。1704年(元禄17)2月江戸市村座の《わたまし十二段》に出演中,役者の生島半六に刺殺された。(2)2世(1688-1758・元禄1-宝暦8)初世の長男。初名九蔵。幼くして父と死別,16歳で団十郎を襲名した。容貌も体格も父に似ており,芸熱心だったので,めきめきと腕を上げ,名声を高め,江戸劇壇における市川団十郎のゆるぎない権威を確立した。1735年(享保20)11月2世市川海老蔵を襲名。俳名を三升(さんじよう),才牛,栢莚(はくえん)といい,俳諧や狂句をたしなみ,文人との交際が広かった。《老のたのしみ》《栢莚狂句集》などの著がある。助六,鳴神,毛抜,矢の根,曾我五郎,和藤内,外郎売(ういろううり)などを当り芸とする。荒事芸を様式化し洗練したのに加え,和事にも天分があった。たとえば,近松の《曾根崎心中》の徳兵衛や,《心中天の網島》の治兵衛を江戸で歌舞伎化して好演した。《助六》に和事味を加え,今日見るスタイルの原型を完成させたのも2世である。(3)3世(1721-42・享保6-寛保2)2世の養子。35年(享保20)に15歳で団十郎をつぎ,将来を期待されたが,数年にして病死した。22歳。(4)4世(1711-78・正徳1-安永7)初世松本幸四郎の養子。実は2世団十郎の子ともいう。54年(宝暦4),2世幸四郎から襲名。はじめは実悪の役者だったが,団十郎を名のってからは実事(じつごと)を得意にして好演した。《菅原伝授手習鑑》の松王丸は一代の当り役であり,その演出を現代にまで伝えた。76年(安永5)7月引退ののちは,深川木場の自宅に5世団十郎,4世幸四郎,初世中村仲蔵らを集め,〈修行講〉という演技研究会を開いた。親分肌で,人の世話をよくみたので,〈木場の親玉〉の名で慕われた。(5)5世(1741-1806・寛保1-文化3)4世の子。70年(明和7),3世松本幸四郎から襲名。荒事の役々を好演しただけでなく,岩藤,累(かさね)などの女方もよくし,安永・天明期(1772-89)の江戸歌舞伎全盛時代における江戸っ子の美学を代表する名優であった。91年(寛政3)11月市川鰕蔵(えびぞう)と改名。96年に舞台を退き,向島の反古庵(ほごあん)に隠居,芭蕉の風雅をしのぶ閑雅な生活を営んだ。俳名を白猿,狂歌名を花道のつらねと称した。立川焉馬,大田蜀山人ら当代第一流の文人と親交があり,《友なし猿》《徒然吾妻詞(つれづれあずまことば)》《市川白猿集》などの著作もある。1806年10月,66歳で没した。〈凩(こがらし)に雨もつ雲の行衛かな〉の辞世を残す。(6)6世(1778-99・安永7-寛政11)5世の養子。1791(寛政3)年に,鰕蔵襲名にともない14歳で団十郎をついだが,22歳で早世した。

 (7)7世(1791-1859・寛政3-安政6) 5世の孫。俳名は三升,白猿,夜雨庵,二九亭,寿海老人,子福長者など。1800年10歳で団十郎を襲名。文化・文政期から幕末の安政に至るまで活躍した名優。小柄ながら多才多能の役者で,眼が大きく,口跡にすぐれていた。荒事,実事,実悪,和事,色悪など実に広い役柄を自由にこなし,4世鶴屋南北作の生世話や所作事をもよくした。42年(天保13),改革令に触れて江戸十里四方を追放されて諸国を流浪,上方の芝居に出たりしていたが,49年(嘉永2)に許されて江戸に帰った。1832年3月長男に8世をつがせ,自分は前名の5世海老蔵を再度名のった。この時,初世以来の荒事の当り役を調べて〈歌舞伎十八番〉を選定し,公表した。40年3月《勧進帳》初演に当たって,能様式の演出を大胆に採り入れたのは当時画期的な出来事であった。狂歌・俳句をよくし,文筆に親しんだ7世は,《遠く見ます》《遊行やまざる》などの著述や,洒脱な人柄をうかがわせる多くの書簡・書画を残している。(8)8世(1823-54・文政6-安政1) 7世の長男。1832年3月,10歳で6世海老蔵から団十郎を襲名した。若くして天才的な技芸を見せ,かつ格別の美貌が幕末期の退廃的な気分に合い,江戸人の熱狂的な支持を受けたが,大坂の旅宿で謎の自殺を遂げた。32歳の若さだった。天性の花やかさと美貌を生かした児雷也や切られ与三郎などの当り芸を残した。(9)9世(1838-1903・天保9-明治36) 7世の五男。8世の弟。生まれてすぐ6世河原崎権之助の養子となったが,74年実家に戻り,9世団十郎を襲名した。俳名三升,団洲,寿海,夜雨庵など。明治期の劇界の第一人者で,〈劇聖〉と仰がれた名優であった。容貌,風姿,音調,弁舌にすぐれ,立役,女方,敵役のいずれにもよく,時代,世話,所作事の何を演じても卓越した技芸を示した。演劇改良運動に意欲を燃やし,その中心となって活躍,忠実に史実を写そうと志す〈活歴(かつれき)〉と呼ぶ史劇を創始したことは演劇史上に特筆される。また,登場人物の性格・心理を研究し,これを内攻的に表現する〈肚芸(はらげい)〉という演技術を開拓するなど,近代歌舞伎に与えた影響はきわめて大きい。《高時》《紅葉狩》《大森彦七》《鏡獅子》などを含む〈新歌舞伎十八番〉を制定。(10)10世(1880-1956・明治13-昭和31) 9世の女婿。堀越福三郎から市川三升となり,没後に10世団十郎の名を追贈された。7世の選定した〈歌舞伎十八番〉のうち,長く演出の絶えていた《解脱》《不破》《象引》《押戻》《嫐(うわなり)》《七つ面》《蛇柳》を,古い台帳によったわけではないが,復活を試みた功績がある。(11)11世(1909-65・明治42-昭和40) 本名堀越治雄。7世松本幸四郎の長男。市川三升の養子になり,1940年に9世市川海老蔵をついだ。海老蔵時代は,天性の美貌と花のある芸風が幅広い層の人気を集め,〈海老サマ〉の愛称で親しまれた。待望久しくして,62年11世団十郎を襲名し,人気はいよいよ高まったが,わずか3年ののち没した。古典の時代物・世話物・荒事のいずれにもすぐれ,新作を意欲的に演じて,文字どおり戦後歌舞伎の花形俳優であった。(12)12世(1946-2013・(昭和21-平成25) 本名堀越夏雄。11世の長男。58年に6世市川新之助,69年に10世海老蔵を襲名して,85年4月12世団十郎を襲名。
執筆者:


出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「市川団十郎」の意味・わかりやすい解説

市川団十郎
いちかわだんじゅうろう

歌舞伎(かぶき)俳優。屋号成田屋。

初世(1660―1704)武門の出身で姓は堀越。江戸生まれで、父は「菰(こも)の重蔵」とよばれた人。通説によれば14歳のとき初舞台。市川家の「家の芸」として今日まで伝承されている荒事(あらごと)芸の創始者とされ、元禄(げんろく)期(1688~1704)の江戸の歌舞伎界を代表する名優であった。劇作も兼ね、市川団十郎または三升屋兵庫(みますやひょうご)の署名のある狂言本十数編を残す。怨恨(えんこん)のため、俳優生島(いくしま)半六に舞台で刺殺された。

2世(1688―1758)初世の長男。父の死後16歳で2世を襲名。容貌(ようぼう)、体格とも父に似て、たいへんな芸熱心であったので、江戸劇壇における市川家の確固たる地位を築いた。俳諧(はいかい)や狂歌をたしなみ、文人との交際も広かった。『助六』に和事(わごと)味を加え、今日みるスタイルの原型を創造した。1735年(享保20)海老蔵(えびぞう)と改め、以後長く舞台を勤めた。

3世(1721―1742)2世の養子。1735年(享保20)3世を襲名したが、数年にして没した。

4世(1711―1778)初世松本幸四郎の養子。父は芝居茶屋和泉屋(いずみや)勘十郎と伝えるが、実は2世団十郎ともいう。1754年(宝暦4)2世幸四郎から4世を襲名。初め実悪(じつあく)の俳優であったが、晩年は実事(じつごと)をも得意とした。1775年(安永4)に引退後、5世団十郎や初世中村仲蔵らを木場の自宅に招き、修行講と称する演技研究会を開き、「木場の親玉」の名で慕われた。

5世(1741―1806)4世の子。1770年(明和7)3世松本幸四郎から5世を襲名。これまでの団十郎が勤めなかった役柄を広く演じた実力者で、岩藤や累(かさね)などの女方(おんながた)も演じた。1796年(寛政8)舞台を退いて向島の反古庵(ほごあん)に隠居し、成田屋七左衛門と名のって閑雅な生活を送った。狂歌名は花道のつらね。立川焉馬(たてかわえんば)や蜀山人(しょくさんじん)ら当時一流の文化人と交際が広かった。

6世(1778―1799)5世の養子。1791年(寛政3)に6世を襲名したが、早世。

7世(1791―1859)5世の孫。1800年(寛政12)10歳で7世を襲名。文化・文政期(1804~1830)から安政(あんせい)(1854~1860)に至るまで活躍した名優で、荒事、実事、実悪、和事、色悪(いろあく)などの広い役柄をこなし、4世鶴屋南北(つるやなんぼく)作の生世話(きぜわ)にも所作事(しょさごと)にも優れていた。1842年(天保13)6月、改革令に触れて江戸十里四方追放に処せられ、上方(かみがた)の芝居に出ていたが、1849年(嘉永2)赦免となって江戸に帰った。1832年(天保3)に長男に8世を継がせ、自身は5世海老蔵を名のった。『勧進帳』を初演し、また、「歌舞伎十八番」を制定、公表した。

8世(1823―1854)7世の長男。1832年(天保3)に6世海老蔵から8世を襲名。若くして技芸優れ、美貌(びぼう)であったため江戸人の熱狂的支持を受けたが、32歳の若さで大坂で自殺。『切られ与三(よさ)』が当り芸であった。

9世(1838―1903)7世の五男。生まれてすぐに6世河原崎権之助(かわらさきごんのすけ)の養子になったが、のち実家に帰り、1874年(明治7)河原崎三升(さんしょう)から9世を襲名した。明治期劇界の第一人者。のちに「劇聖」と崇(あが)められた名優で、とくに演劇改良運動の中心人物となって活躍、「活歴(かつれき)」とよぶ史劇を始めたことが特筆に価する。また登場人物の性格や心理を研究して、内向的に表現する「肚芸(はらげい)」とよぶ演技術を開拓するなど、近代歌舞伎に与えた影響は非常に大きい。明治36年9月13日没。長女翠扇(すいせん)(2世)の婿が10世団十郎、次女旭梅(きょくばい)の婿が5世市川新之助で、新派女優3世市川翠扇(前名紅梅、1913―1974)はその子、すなわち9世の孫。

10世(1882―1956)9世の女婿。堀越福三郎から5世市川三升(さんしょう)となり、没後に10世を追贈。

11世(1909―1965)本名堀越治雄。7世松本幸四郎の長男。10世の養子となり、9世海老蔵から1962年(昭和37)に11世を襲名した。海老蔵時代には「海老さま」の愛称でよばれ、天性の美貌と花のある芸風が広く人気を集めた。待望久しくして11世団十郎を襲名し、人気はいよいよ高まったが、襲名後わずか3年、昭和40年11月10日に没した。

12世(1946―2013)本名堀越夏雄。11世の長男。1953年(昭和28)市川夏雄を名のり初舞台。6世新之助(1958)、10世海老蔵(1969)を経て、1985年4月、12世を襲名した。美貌と明るい芸風で、平成歌舞伎を代表する立役(たちやく)として活躍した。長男が11世市川海老蔵(1977― )である。

[服部幸雄]

『伊原青々園著『団十郎の代々』(1917・市川宗家)』『金沢康隆著『市川団十郎』(1962・青蛙房)』『服部幸雄著『市川団十郎』(1978・平凡社)』『西山松之助著『市川団十郎』新装版(1987・吉川弘文館)』『利根川裕著『十一世市川団十郎』(朝日文庫)』


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

山川 日本史小辞典 改訂新版 「市川団十郎」の解説

市川団十郎
いちかわだんじゅうろう

歌舞伎俳優。江戸前期から12世を数える。屋号は成田屋。江戸の歌舞伎界で「宗家」とよばれた特権的名家。初世(1660~1704)は江戸生れ。初名海老蔵(えびぞう)。俳名才牛。江戸荒事の創始者で元禄期の江戸を代表する名優。三升屋(みますや)兵庫の筆名で劇作もした。2世(1688~1758)は初世の子。俳名三升(さんじょう)・栢莚(はくえん)など。荒事を様式的に洗練し,和事にも芸域を広げ,市川家の地位を不動のものとした。4世(1711~78)は初世松本幸四郎の養子で宝暦期の実悪(じつあく)の名手。5世(1741~1806)は4世の子で安永~寛政期の名優。7世(1791~1859)は5世の外孫で江戸後期の名優。俳名白猿・夜雨庵・寿海老人など。天保の改革で江戸を追放されたが,のちに復帰し幕末期まで活躍。「歌舞伎十八番」の制定者。8世(1823~54)は7世の長男で,美男の花形だったが,大坂で自殺。9世(1838~1903)は7世の五男。本名堀越秀。俳名紫扇・三升・団洲(だんしゅう)など。近代随一の名優で「劇聖」とよばれる。演劇改良に熱心で活歴物(かつれきもの)をつぎつぎと上演,後年は古典にも近代的演技術を導入して後世への規範を残した。11世(1909~65)は7世松本幸四郎の長男で10世の養子。本名堀越治雄。美男の立役で第2次大戦後随一の人気俳優。12世(1946~2013)は11世の長男。本名堀越夏雄。スケールの大きな芸と多彩な役柄で人気を博した。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「市川団十郎」の解説

市川団十郎
いちかわだんじゅうろう

歌舞伎俳優。屋号は成田屋
〔初代(1660〜1704)〕 元禄時代の江戸歌舞伎役者。荒事を創始し,2代目とともに歌舞伎十八番の型を考案,隈取 (くまどり) をくふうした。〔7代目(1791〜1859)〕 天保改革で江戸を追放されたが,のち復帰し京坂で活躍,「歌舞伎十八番」を制定した。〔9代目(1838〜1903)〕 明治時代の名優。福地源一郎・河竹黙阿弥ら劇作家と活劇を始め,新しい歴史劇(活歴物)をおこす。一方,古典劇を守り,識見高く,俳優の社会的地位の向上に貢献した。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

世界大百科事典(旧版)内の市川団十郎の言及

【市川海老蔵】より

…歌舞伎俳優。市川団十郎の前名または後名として用いられる名跡。初世団十郎が生誕のおり,俠客唐犬十右衛門によって命名されたと伝えられ,市川家にとって由緒ある名である。…

【新勝寺】より

…〈江戸にて開帳あるに何時にても参詣群聚するは善光寺の弥陀と清涼寺の釈迦仏また成田の不動などなり〉と《嬉遊笑覧》にあるように,これより江戸出開帳の三本指に数えられるほど人気を集めた。また歌舞伎役者市川団十郎は代々屋号を〈成田屋〉といい,初世以来当不動尊への信仰が厚く,不動尊霊験記の上演もあったから,その霊験は広く庶民の間に喧伝され,講の発達にともない各地よりの成田詣も年々盛んになっていった。とくに天保(1830‐44)以降,講社数は飛躍的に増加し,関東,東海,甲信地方へ広がっている。…

※「市川団十郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

潮力発電

潮の干満の差の大きい所で、満潮時に蓄えた海水を干潮時に放流し、水力発電と同じ原理でタービンを回す発電方式。潮汐ちょうせき発電。...

潮力発電の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android