朝日日本歴史人物事典 「市川左団次(初代)」の解説
市川左団次(初代)
生年:天保13.10.19(1842.11.21)
幕末明治期の歌舞伎役者。俳名莚升のちに松蔦。屋号高島屋。床山の新駒屋清吉の次男で,本名高橋栄三。13歳で4代目市川小団次に入門して市川小米,升若を名乗る。元治1(1864)年に小団次の養子となり,左団次と改名。養父の没後に一時廃業したが,2代目河竹新七(のちの黙阿弥)の後援で舞台に復帰し,明治3(1870)年に守田座の黙阿弥の新作「樟紀流花見幕張」(通称「慶安太平記」)の丸橋忠弥役で絶賛を受け人気役者となった。以後,黙阿弥の新作史劇で活躍し,団菊左と並び称される地位を築いた。26年,日本橋浜町の千歳座を買収して明治座と改称し,自ら座元,座頭として開場,ここを拠点に新作史劇を上演して,団菊の歌舞伎座に対抗した。32年に明治座で上演された松居松葉作「悪源太」は初代左団次が依嘱した作品で,新歌舞伎の初めての演目である。狂言作者以外の劇場外の文学者の脚本が上演された嚆矢で,その意義は大きい。<参考文献>2代目市川左団次『父左団次を語る』,伊原敏郎『明治演劇史』
(藤波隆之)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報