平家貞(読み)たいらのいえさだ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「平家貞」の意味・わかりやすい解説

平家貞
たいらのいえさだ

生没年不詳。平安末期の武将。進三郎大夫季房(しんのさぶろうだいぶすえふさ)の子。一説に筑後守範季(ちくごのかみのりすえ)の子ともいう。平忠盛(ただもり)の第一の郎党として、平家の重要な根拠地である伊賀鞆田荘(ともだのしょう)(三重県伊賀市)を預けられてその地方に勢力を築くとともに、左衛門尉(さえもんのじょう)、筑後守などになった。1131年(天承1)に忠盛が殿上で貴族の闇(やみ)討ちにあおうとしたとき阻止した事件をはじめ、保元(ほうげん)・平治(へいじ)の乱での奮戦、肥前国(佐賀・長崎県)の日向(ひゅうが)太郎の反乱鎮圧などによって勇名をはせた。その子息家継(いえつぐ)・家実(いえざね)らは、平氏滅亡後、伊賀地方で鎌倉幕府に対する反乱を起こした。

[田中文英]

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朝日日本歴史人物事典 「平家貞」の解説

平家貞

没年:仁安2.5.28(1167.6.17)
生年:永保2(1082)
平安末期の武士。平氏の初期の有力な家人として著名。平氏の一族ながら父進三郎家房が平正盛の郎等となってから,代々平氏に仕える譜代の郎等となり,自身は正盛・忠盛・清盛に仕えた。『平家物語』の殿上の闇討ちには,忠盛が長承1(1132)年に内の昇殿を認められた際にその護衛と称し庭に伺候して闇討ちを救ったエピソードがある。その少し前から平家が西海の海賊の追討により西国に進出していた際の中心となっており,3年には海賊追捕の賞として左衛門尉に任じられた。その後も北伊賀を根拠地にして平家の出身地の伊勢や伊賀で,また西海での勢力拡張に尽力し,保元の乱(1156)前には薩摩の阿多忠景の反乱を鎮め,保元・平治の乱(1159)では清盛に従って活躍し,その賞により筑後守となった。死亡を記した貴族の日記は「平家第一の郎等,武士の長なり」と伝え,子の家実,家継,貞能らも父の跡を継いで平氏に仕えた。

(五味文彦)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「平家貞」の解説

平家貞 たいらの-いえさだ

?-? 平安時代後期の武士。
平忠盛,清盛につかえる。伊賀(いが)(三重県)鞆田荘(ともだのしょう)の経営にあたり,また平家の鎮西(九州)経営に功があった。長承元年(1132)内昇殿をゆるされた忠盛にしたがい,貴族による闇討ちから忠盛をすくったという。

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