幸手市(読み)サッテシ

デジタル大辞泉 「幸手市」の意味・読み・例文・類語

さって‐し【幸手市】

幸手

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日本歴史地名大系 「幸手市」の解説

幸手市
さつてし

面積:三三・九五平方キロ

埼玉県の北東端に位置し、東は江戸川を挟んで千葉県東葛飾郡関宿せきやど町、北東は庄内古しようないふる川を隔てて茨城県猿島さしま五霞ごか村、北西は北葛飾郡栗橋くりはし町、南は同郡杉戸すぎと町、西は同郡鷲宮わしみや町・久喜市に接する。大部分が平坦な沖積層からなるが、江戸川沿いの槙野地まきのじ地区には洪積層もある。西境を古利根川が流れる。庄内古川権現堂ごんげんどう川との合流点より上流をしま川ともよび、下流の上宇和田かみうわだ付近までを権現堂川ともよんだ。また権現堂川は利根川とよぶこともあった(「風土記稿」など)。現在建設省では庄内古川を中川とよんでいる。おもな道路は南北に貫通する国道四号および同バイパス、主要地方道松伏まつぶし庄和しようわ―関宿線、同岩槻―幸手線、同さかい―杉戸線、東西を結ぶ道路には県道加須かぞ―幸手線、同下吉羽しもよしば―幸手線、同幸手―久喜線、同惣新田そうしんでん―幸手線などがある。国道四号の西側に沿って東武日光線が通り、幸手駅がある。市域は古代・中世には下総国葛飾郡に属し、寛永年間(一六二四―四四)の国境の変更で東端の一部を除き武蔵国葛飾郡に属することになった。

〔原始・古代〕

下総台地に位置する槙野地地区で縄文時代早期から前期の遺跡が確認されているほか、古墳時代の土器も出土している。松石まついし外国府間そとごうま地域の自然堤防上からも古墳時代の土器片が採取されている。古代律令制下の状況については不詳。武蔵国府(現東京都府中市)を結ぶ街道として高野たかのから岩槻を経て豊島としま(現東京都北区か)に至る道があったという。同道はのちの鎌倉街道中道にあたる。

〔中世〕

市域は下総国下河辺しもこうべ庄に属した。下河辺庄は源頼朝の家人下河辺庄司行平の所領で、現三郷みさと市から茨城県古河市にかけての一帯に比定される。治承五年(一一八一)閏二月二三日、下河辺行平・同弟四郎政義らは志田義広勢の追討のため下総国葛飾郡古我こが(現茨城県古河市)・高野などの渡しを固めている(吾妻鏡)。文永一二年(一二七五)金沢実時は下河辺庄前林まえばやし(現茨城県総和町)河妻かわつま(現同県五霞村)両郷および平野ひらの村などを室藤原氏(蓮心)に一期分として譲り渡している(四月二七日「金沢実時譲状」市島謙吉氏所蔵文書)。元亨四年(一三二四)鎌倉幕府称名しようみよう(現神奈川県横浜市金沢区)の長老劔阿に対し下総国高野川などに先例にならって架橋するよう申付けている(八月二五日「関東御教書」金沢文庫文書)。「風土記稿」によると、上高野村の次郎右衛門は屋敷裏の古利根川で古杭を発見し、頭を切り臼にして所持しているが、これはかつて高野川に架せられた橋杭という。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「幸手市」の意味・わかりやすい解説

幸手〔市〕
さって

埼玉県東部,江戸川と中川および古利根川の上流部 (葛西用水路) との間にあり,茨城,千葉の両県と接する市。 1954年幸手町と行幸 (みゆき) ,上高野 (かみたかの) ,吉田,権現堂 (ごんげんどう) の4村が合体して,55年八代村および桜田,豊岡の2村の一部を編入,86年市制。中心地区の幸手は,江戸時代,奥州街道日光御成街道を分岐する重要な宿駅として繁栄。周辺の農村地帯の中心地として,2と7の日の市が穀類の取引でにぎわう商業的機能の強い町であった。近年は中川右岸を中心に工場が進出。権現堂調節池右岸は桜の名所。東武鉄道日光線,国道4号線が通る。面積 33.93km2。人口 5万66(2020)。

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