デジタル大辞泉
「広瀬」の意味・読み・例文・類語
ひろ‐せ【広瀬】
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ひろ‐せ【広瀬】
[1] 〘名〙 幅の広い瀬。幅の広い浅瀬。
※書紀(720)皇極元年・歌謡「大和の 忍(おし)の毗稜栖(ヒロセ)を 渡らむと 足結(あよひ)た作り」
[2]
奈良県の北西部にあった郡。明治三〇年(
一八九七)葛下
(かつげ)郡と合併して北葛城郡
(きたかつらぎ)郡となる。
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
広瀬
ひろせ
和歌川右岸の武家屋敷と町屋が混在する地域の呼称。「続風土記」は古く岡町領のうちであったとし「区域東北は川を限り新町・内町と堺し、南は塩道村と堺し、西は岡并に内郭と堺す」と記す。北の堀川に堀詰橋、東の和歌川に鍛冶橋・紺屋橋・大橋、西の城郭との間の堀詰川に三木橋・東中橋が架かる。町屋の西と南を囲むように武家地がある。桑山氏時代は広瀬通町が城の大手筋で、ここから北の細工町・三木町付近がすでに町屋であったといわれる(続風土記)。しかし浅野氏入部で大手筋が堀川に架かる京橋から真北に延びる本町に変わったため、十分な発展をみなかった。在中作方諸事覚書(土屋家蔵)によれば「紺屋橋西詰より南薬師丁入口迄之内片原船場丁右薬師丁迄広瀬八百屋町夫より海野五郎三郎屋敷迄之内」の地には享保一一年(一七二六)の時点で町方支配ではあるが高付地があり、新町地区の中心部にある高付地と合せて二〇三石余が「岡領之内」に含まれていた。
広瀬
ひろせ
破間川の右岸、川西地区をいう。天保郷帳では約三〇ヵ村からなり、川沿いの平坦地と奥地山間部とからなる。地域はさらに三淵沢(現守門村)と田中の中間のさかい沢から南を下条、北の現守門村に属する地を上条といった(広神村史)。戦国期には広瀬衆と称する地侍がこの地域にいた。天文四年(一五三五)七月二五日の穴沢新右兵衛門尉宛の長尾房長書状(歴代古案)に「上条之者」の記載がある。同一八年九月二七日の栗林経元書状(穴沢文書)に「広瀬上下中」とあり、長尾政景家臣経元は古志郡からの敵に備えるため広瀬衆に段銭を免除し、忠節を励ましている。慶長一九年(一六一四)頃には上条村と下条村とに区別された(広神村史)というが、同一四年の下田村・上下田村の検地帳(宮家文書)の表題には「広瀬下条内」とあり、寛永一〇年(一六三三)の下条新田検地帳(同文書)表題に「広瀬下条」とあって、泉沢新田・小平新田・赤土之内間平・田中島新田・山田新田・さらす新田を一括しているので、なお広域の呼称であったと思われる。
広瀬
ひろせ
中世の佐用庄内の地名。観応元年(一三五〇)一二月五日の足利尊氏袖判下文案(森川文書)に佐用庄内「広瀬方」とみえ、尊氏は赤松円心の嫡男範資(赤松七条家祖)に父の遺領である広瀬ほかを安堵している。範資死後は息兵庫助範顕に伝領されたようで、範顕は赤松広瀬氏を名乗る(応安三年一一月七日「赤松範顕請文」東寺百合文書など)。範顕は摂津国守護の兄赤松光範のもとで守護代を勤めた(貞治二年八月二七日「赤松光範施行状」離宮八幡宮文書など)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
広瀬
ひろせ
島根県東部,飯梨川中・上流域を占める地域。旧町名。 1889年町制。 1955年比田町,山佐村,安来市の一部と合体。 1967年布部村を編入。 2004年 10月に安来市,伯太町と合併し安来市となった。戦国時代に尼子氏が富田城を本拠地とし,江戸時代は松江藩の支藩の松平氏3万石の城下町として発展。江戸時代末期に始まり明治末期を最盛期とした広瀬絣の生産技術保存がはかられている。農村部では米作のほかナシ,クリ,花卉の栽培,酪農も行なわれる。富田城跡 (史跡) は清水月山県立自然公園に属する。ほかに富田八幡宮,歴史民俗資料館などがある。国道 432号線が通じる。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の広瀬の言及
【錦[町]】より
…古くは山代(やましろ)荘,山代郷とよばれた地域に含まれた。町役場のある広瀬は近世の萩藩前山代宰判の中心として勘場(代官所)が置かれていた。現在は玖珂郡北部の行政・商業・交通の中心をなし,岩国からの錦川鉄道線が通じる。…
※「広瀬」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」