府内(読み)ふない

精選版 日本国語大辞典 「府内」の意味・読み・例文・類語

ふ‐ない【府内】

[1] 〘名〙
① 府のうち。府の区域または管轄内。〔運歩色葉(1548)〕
風俗画報‐一七一号(1898)広告「府内は少多に係らず早速送達す」
江戸時代江戸町奉行支配に属した区域内。品川大木戸・四谷大木戸板橋・千住・本所・深川以内の地。御府内(ごふない)
[2] 大分市旧称奈良時代豊後国の国府の所在地明治八年(一八七五)に改称

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デジタル大辞泉 「府内」の意味・読み・例文・類語

ふ‐ない【府内】

府の区域または管轄内。
御府内ごふない

ふない【府内】

大分市の古称。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「府内」の意味・わかりやすい解説

府内
ふない

御府内(ごふない)とも称し、江戸の範囲を示す用語であり、一方、地名としては大分市の旧称である。江戸の府内の範囲はかならずしも明確ではないが、1818年(文政1)になって「朱引(しゅびき)」としてその範囲が規定され、ほぼ町奉行(まちぶぎょう)支配の範囲とされた。

 九州の府内は、大分市の古国府(ふるごう)の地に所在した律令(りつりょう)期以来の豊後(ぶんご)国府が起源。中世には府内とよばれるようになり、鎌倉時代には守護(しゅご)大友氏が古国府北部の上野丘に城館を構え、大友氏の威勢とともに東九州の政治・経済・文化の中心として栄えた。宗麟(そうりん)のとき貿易港としても繁栄のピークを迎え、キリスト教を保護し、ダイウス堂、病院などを設け、現在の元町付近から長浜町に至る市街地を整備したが、1586年(天正14)島津氏に焼き払われた。大友氏滅亡後は、早川長敏(ながとし)、福原直高(なおたか)、早川長政、竹中重利(しげとし)、日根野吉明(ひねのよしあきら)が相次いで支配し、1658年(万治1)に松平(大給(おぎゅう))忠昭(ただあき)が2万2000石で入部して府内城を居城として以来、府内藩は九州では数少ない譜代(ふだい)大名として明治まで続いた。1871年(明治4)廃藩とともに府内県となり、さらに78年大分県に編入され、その県庁所在地となって現在に至る。

[金田章裕]

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百科事典マイペディア 「府内」の意味・わかりやすい解説

府内【ふない】

現在の大分市中心部に形成された城下町で,当時の豊後国最大の都市。一帯は古代には豊後国府が所在し,中世には府中とよばれた。戦国期には大友氏の城下として栄え,16世紀半ばには豊後におけるキリスト教布教の中心地でもあった。このころからは府内という名称も史料に見え始める。1595年の地震・津波で府内の外港沖浜(おきのはま)が海中に没したが,この災害は後に瓜生島(うりゅうじま)沈島伝説として語り継がれた。近世の城下町は1597年福原直高が府内城の建設に着手したことに始まる。1601年には竹中重利が城を改修し,翌年には新城下の建設に取りかかっている。1656年松平(大給(おぎゅう))忠昭が大分郡内2万2000石を領して入部,以後幕末まで同氏府内藩の城下町であった。城下は町屋を外堀で囲んで3口を設け,門内に40余町,門外にも数町があった。門内40余町は府内・松末(まつすえ)・同慈寺(どうじじ)・笠和(かさわ)・千手堂(せんじゅどう)の五つの町組に分かれ,門内全町を統轄する惣宿老と補佐役の惣肝煎各1名と,町組ごとに置かれた4人の庄屋(笠和町・同慈寺町は兼帯)が差配,この4人の庄屋は府内四庄屋とよばれた。1712年の人口は5591人。商業活動では西鶴の《日本永代蔵》に登場する守田三弥之助や,京・大坂・堺に出店を持ち,西海第一の富豪とうたわれた中屋宗悦などが著名。明治維新後の1872年に大分県庁が置かれ,1875年には大分町となる。1911年市制施行。
→関連項目アルメイダ

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改訂新版 世界大百科事典 「府内」の意味・わかりやすい解説

府内 (ふない)

豊後国(大分県)の城下町。現在の大分市中心部。古代には豊後国府の所在地で,戦国時代には大友氏の城下が設けられ,海外貿易港としても繁栄し,府中とも呼ばれた。府内藩は1594年(文禄3)早川長敏,97年(慶長2)福原直高,99年早川長敏,1601年竹中重利,34年(寛永11)日根野吉明,58年(万治1)から大給(おぎゆう)松平氏と領主が交替した。近世の府内城下町の建設は,1597年福原直高が府内城の建設を開始したことに始まる。天守や楼櫓が完成したのは1602年で,竹中重利は城外に東西10町,南北9町の土塁を設け,城下町を完成させた。05年には外濠も完成,府内城は中濠,内濠の三重の濠に囲まれることになった。07年には城下町入口の笠和(かさわ)口,堀川口,米屋町口(塩九升(しよくじよう))口に関門を建てて出入りを守らせた。32年笠和口の濠外に西新町ができ,以後北新町,東新町と濠外に発展する。府内の町組は府内30町,松末11町,千手堂6町,笠和2町の4組に分かれ,各組に庄屋がおり,府内四庄屋といわれた。町組支配は宿老といわれる役人によってなされ,その上に全町を統括する惣宿老がいて宿老を指揮し,商工業者や旅人の支配に当たっていた。1710年(宝永7)の人口は5077。商業活動では,初期において西鶴の《日本永代蔵》に出てくる豪商守田山弥之助や京,大坂,堺に出店をもつ西海第一の富豪中屋宗悦などが著名である。一方殖産事業も推進され,幕末期には,近郊に吉兆原(きつちようばる),庄ノ原の開墾などが行われた。1872年(明治5)大分県庁が置かれて以来県都として発展した。75年大分町となり,1911年市制。
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山川 日本史小辞典 改訂新版 「府内」の解説

府内
ふない

室町中期~戦国期に豊後国大分郡の大友氏の居城があった。現在の大分市上野町。鎌倉時代までは府中といわれ,古代以来の豊後国の行政の中心地。大友氏は元寇の頃にここに館を移したらしい。大友氏時代のようすを描いたと伝える「旧府内城下図」には,大友館やその築地東側に桜町・上市町・清忠寺町・今小路町・横町などがみえる。江戸時代の府内城下の形成に際し,大友氏以来の旧府内城下の町屋を移したという。

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旺文社日本史事典 三訂版 「府内」の解説

府内
ふない

大分市の旧名
古代の豊後国府の所在地。戦国時代には大友氏の城下町となる。大友宗麟のキリシタン保護により,コレジオ(大学)・教会堂・病院などが建てられ,南蛮貿易も栄えて九州におけるキリシタンの一大中心地となる。人口も20万人を数えた。江戸時代には府内藩(大給松平氏)の城下町として繁栄。明治時代,大分と改称され,現在は県庁所在地。

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世界大百科事典(旧版)内の府内の言及

【豊後国】より

…宗麟は1559年(永禄2)までに豊後のほかに豊前,筑前,筑後,肥前,肥後の九州北半6ヵ国の守護職を得,九州探題職にも補せられた。1551年(天文20)ザビエルを府内に招いてキリスト教布教を許可するとともに,みずからも受洗しフランシスコと称した。府内には育児院や病院,教会などが建てられ,南蛮文化の拠点となった。…

※「府内」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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