鎌倉時代の浄土宗の僧。浄土宗第二祖で、九州北西部を中心に活躍した。字(あざな)は弁阿(べんあ)(「べんな」とも読む)、号は聖光房(しょうこうぼう)、鎮西上人(ちんぜいしょうにん)、善導寺(ぜんどうじ)上人ともいう。筑前(ちくぜん)国(福岡県)香月(かつき)荘に生まれ、7歳で出家、観世音寺(かんぜおんじ)で受戒した。22歳で比叡山(ひえいざん)に登り、証真(しょうしん)(宝地房(ほうちぼう)。生没年不詳)に師事、天台の教義を学んだ。1190年(建久1)筑前油山(あぶらやま)の学頭となる。しかし1193年、弟三明房(さんみょうぼう)の死にあい、浄土の法門に心をひかれ、1197年上京のおり法然(ほうねん)(源空)に会って弟子となり、師のもとで8年間修学し、念仏の教えを受け継いだ。のち故郷に帰り、筑後(ちくご)(福岡県)、肥前(佐賀県・長崎県)に布教し、筑後に善導寺を開いて九州における念仏布教の基盤とした。師の法然を祖述し顕彰することによって、浄土宗の正流の宗学を確立した。この流れを鎮西(ちんぜい)流という。『末代念仏授手印(まつだいねんぶつじゅしゅいん)』『徹選択本願念仏集(てっせんちゃくほんがんねんぶつしゅう)』『浄土宗要集』など著述も多い。
[阿川文正 2017年9月19日]
(林淳)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
鎌倉前期の浄土宗の僧。鎮西派の祖。聖光(しようこう)房,弁阿と号す。筑前国遠賀郡香月荘(現,福岡県北九州市)の人。1183年(寿永2)比叡山にのぼり,証真について天台学を修め,90年(建久1)帰郷した。かつて学んだ明星寺の三重塔の再建をはかり,97年塔に安置する仏像をもとめて上洛,短期間の滞在であったが,この間に法然から教えを受けた。99年(正治1)再び上洛し,1204年(元久1)まで法然に師事した。その後,筑前,筑後,肥後の各地に念仏を広め,多くの寺を開いたが,教化の中心は筑後にあり,とくに善導寺(久留米市)が拠点であった。1228年(安貞2)肥後の往生院で48日間の別時念仏を修し,この間に《末代念仏授手印》を著して,法然滅後の異義を正そうとした。37年(嘉禎3)良忠(1199-1287)に法を伝え,翌年没した。弁長の法流を鎮西派というが,弟子良忠とその門下が浄土宗内で主流的位置を占めるにつれ,弁長には浄土宗2代の地位が与えられるようになった。
執筆者:伊藤 唯真
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…教団としての成長をみるのは後鳥羽天皇のころからである。初期浄土宗諸派の始祖となった証空(西山(せいざん)派),弁長(鎮西(ちんぜい)派),幸西(一念義派),長西(諸行本願義派),隆寛(多念義派)らがあいついで門弟となり,1201年(建仁1)親鸞が入門した。九条兼実,熊谷直実ら貴族や武士の帰依者も増えた。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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