徳大寺実基(読み)とくだいじ・さねもと

朝日日本歴史人物事典 「徳大寺実基」の解説

徳大寺実基

没年:文永10.2.14(1273.3.4)
生年建仁1(1201)
鎌倉中期の公卿。左大臣徳大寺公継次男。母は白拍子五条夜叉。承久1(1219)年,従三位に叙せられ,元仁1(1224)年に権中納言,寛元4(1246)年に内大臣とすすみ,建長5(1253)年に太政大臣に至った。徳大寺家から太政大臣を出した初例である。寛元4年に鎌倉幕府要請によって創設された院評定のメンバーとなり,後嵯峨院政を支える異色の政治家として活躍した。実基については『徒然草』にふたつの挿話があり,迷信因習にとらわれる当時の大多数の人々のなかにあって,おそれることなく合理的に思考し,適切な判断をくだしたことが語られている。信念の人であると同時に,異彩を放つ人物であったことは間違いなかろう。文永2(1265)年に出家。法名因性。 その政治思想は,出家後に後嵯峨上皇の諮問に応えて作成した14カ条の奏状によくあらわれている。事に当たるに誠信をもってし,為政に人を得て,官民富足をめざすことを主張したもので,漢籍先例を的確に引用して論理を展開するとともに,現実的な提言・妥協策なども述べられている。第1条の「人の煩いなく,神事興行せらるべき事」に示される撫民精神は,人間の合理的思考によって,怪力乱神を打破する彼の姿勢と相通ずるものがあろう。徳大寺相国,水本太政大臣と称された。なお,妻は後鳥羽院の乳母として権勢をふるった藤原兼子(卿二位)の娘で,兼子の遺領の多くは,この女性に譲られたという。『実基公記』(徳大寺相国記)断簡がある。<参考文献>「徳大寺実基政道奏状」(日本思想大系22巻所収),多賀宗隼『論集中世文化史』上

(本郷恵子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「徳大寺実基」の意味・わかりやすい解説

徳大寺実基 (とくだいじさねもと)
生没年:1201-73(建仁1-文永10)

鎌倉中期の公卿。右大臣公継と白拍子五条夜叉の間に生まれ,1219年(承久1)従三位となり,以後右近衛大将,内大臣を経て,53年(建長5)徳大寺家からは初めての太政大臣にまで昇進。65年(文永2)出家,法名円性。長期にわたる後嵯峨院院政を支えた異色の政治家で,1246年(寛元4),幕府の要請によってはじめて創設された院評定(いんのひようじよう)のメンバーとなり,また検非違使庁別当としても名声を博した。出家後の彼が後嵯峨院の諮問に答えて上申した〈奏状〉14ヵ条は,〈神事の興行〉〈仏法の紹隆〉を〈人の煩い〉〈国の利〉の下に従属させるべしという主張に象徴されるように,徹底した合理主義と王権至上主義をモットーとする彼の政治思想がよく表明されており,間もなく開始される公家弘安徳政に大きな影響を与えたものと考えられる。なお《徒然草》に載る二つのエピソードも,彼の思想傾向を物語るものとして有名である。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「徳大寺実基」の解説

徳大寺実基 とくだいじ-さねもと

1201-1273 鎌倉時代の公卿(くぎょう)。
建仁(けんにん)元年生まれ。徳大寺公継(きんつぐ)の次男。建長5年徳大寺家からはじめての太政(だいじょう)大臣となる。従一位。鎌倉幕府の要請で設置された院評定衆(いんのひょうじょうしゅう)となり,後嵯峨(ごさが)院の院政をささえた。徳大寺相国,水本太政大臣と称された。文永10年2月14日死去。73歳。日記に「実基公記」。

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