徳島(県)(読み)とくしま

日本大百科全書(ニッポニカ) 「徳島(県)」の意味・わかりやすい解説

徳島(県)
とくしま

四国の南東部に位置する県。東は紀伊水道、南東は太平洋に面し、西は四国山地を隔てて愛媛県と高知県に、北は讃岐(さぬき)山脈を境にして香川県に接する。県庁所在地は徳島市。2020年(令和2)の国勢調査による人口は71万9559人で、2015年の国勢調査時から約3万6000人の減少となっている。面積は4146.75平方キロメートルで、四国の総面積の約22%を占める。

 古くは粟国(あわのくに)と長国(ながのくに)の2国があったらしいが、大化改新(645)ごろには阿波(あわ)一国に統一された。徳島の地名は、1585年(天正13)阿波に入国した蜂須賀家政(はちすかいえまさ)が翌年渭津(いのつ)(現在の徳島市)に猪山(いのやま)城を築き、渭津を徳島と改めたことに始まる。

 徳島県が誕生した1880年(明治13)の県人口は63万5012人で、1888年には約68万に増加したが、70万人台に達したのは1902年(明治35)である。この間の人口停滞はコレラ、流行性感冒による死亡者や他府県への転出者が多かったことによる。大正から昭和にかけてはほぼ順調な人口増加をみたが、1934年(昭和9)の約77万人をピークにしだいに男子人口が減少した。第二次世界大戦後の1945年には復員などで83万5763人に増加し、1954年(昭和29)には89万人に達したが、それ以降阪神工業地帯などへの人口流出が続き、1972年には78万人台に減少した。人口の3分の1は徳島市に集中、また徳島市周辺の小松島市、鳴門(なると)市、板野(いたの)郡などに人口が多いのに対し、美馬(みま)市、三好(みよし)市、三好郡、海部(かいふ)郡など山地や海岸部の地域では過疎化が進んでいる。2002年(平成14)4月には4市10郡38町8村であったが、平成大合併を経て、2020年(令和2)10月時点では8市8郡15町1村となっている。

[高木秀樹・平井松午]

自然

地形

中央構造線に沿って流れる吉野川の北岸は讃岐山脈、南岸は剣山(つるぎさん)を主峰とする剣山地がそれぞれ東西方向に走り、県総面積の80%は山地で占められる。剣山地の北斜面は吉野川流域に、南斜面は勝浦川・那賀(なか)川の流域となる。吉野川流域の徳島平野、勝浦川・那賀川の下流部に沖積平野があって県内の主たる居住・生産地域となっている。山地の地質をみると、讃岐山脈は中生代白亜紀の和泉(いずみ)層、剣山地は北半は中生代の変成岩三波川(さんばがわ)帯、南半は古生代・中生代の秩父(ちちぶ)帯、南の海部山地は四万十(しまんと)帯である。約130キロメートルに及ぶ海岸線のうち、北東部の鳴門市の海岸は出入りに富むが、吉野川河口から那賀川河口に至る約40キロメートルの海岸は単調な砂浜海岸となっている。南東部の橘(たちばな)湾から高知県境までの太平洋に面した海岸は岩石海岸が続き、山地が海岸に迫り平地に乏しい。

 自然公園には瀬戸内海国立公園、剣山、室戸阿南(むろとあなん)海岸の2国定公園、大麻山(おおあさやま)、奥宮川内谷(おくみやごうちだに)、中部山渓(ちゅうぶさんけい)、土柱高越(どちゅうこうつ)、箸蔵(はしくら)、東(ひがし)山渓の6県立自然公園がある。

[高木秀樹・平井松午]

気候

剣山地を境にして北部地域の瀬戸内式気候と南部地域の南海型気候に分かれる。北部地域は年間を通じて晴天の日が多く、とくに冬季は快晴の日が続く。夏は瀬戸内特有の蒸し暑い凪(なぎ)現象がおこる。年降水量は少なく1000~1500ミリメートルくらいである。南海型気候は降水量の多いのが特徴で、3000ミリメートルに達し、木頭(きとう)などの林業地帯を生んだ。気温は県南の海岸部で年平均気温17℃前後と高く、剣山付近がもっとも低く14℃以下である(1981~2010)。

[高木秀樹・平井松午]

歴史

先史・古代

旧石器時代の遺跡は、讃岐(さぬき)山脈南麓(ろく)の河岸段丘上や丘陵・山腹に分布するほか、阿南市廿枝(はたえだ)などからもナイフ形石器などが発掘されている。縄文土器は、1924年(大正13)徳島市城山東麓の貝塚から籾痕(もみあと)のある土器が発見されたのをはじめ、吉野川流域や鳴門市の森崎貝塚などから発掘されているが数は多くない。弥生(やよい)時代の出土品は県内各地から発掘されるが、とくに銅鐸(どうたく)と銅剣の出土地が集中する鮎喰(あくい)川流域を中心に、青銅器文化圏が存在したと考えられている。古墳の大部分は後期のもので、前方後円墳は吉野川流域や鮎喰川下流域に多い。

 古記には県北を粟国(あわのくに)、県南を長国(ながのくに)と称したとあるが、大化改新のころ阿波一国となった。国府は国府町(こくふちょう)観音寺(かんおんじ)(徳島市)付近に置かれ、矢野(徳島市)には阿波国分寺も建立された。観音寺に隣接する石井町尼寺(にじ)からは、国分尼寺跡(国の史跡)が発掘されている。『延喜式(えんぎしき)』によると、当時の阿波国には阿波、名方(なかた)(のち名東(なひむかし)、名西(なにし))、板野、美馬(みま)、麻殖(おえ)、勝浦(かつら)、那賀(なか)の各郡があった。条里遺構は吉野川の下流や、小松島市、阿南市に残っている。

 昭和30~40年代に発掘調査された美馬市美馬町の郡里(こおざと)廃寺(国の史跡)や石井町の石井廃寺の遺物から、その創建は飛鳥(あすか)~奈良時代と推定される。平安中期以降、弘法大師(こうぼうだいし)信仰が四国中に広まり、四国八十八か所の霊場が定まり、阿波にも23の札所が置かれた。

 1185年(文治1)の源平屋島(やしま)の戦いは平氏の敗北に終わったが、平氏の残党が祖谷山(いややま)に落ち延び落人(おちゅうど)集落をつくったといわれる。阿波の荘園(しょうえん)は、奈良時代の新島荘(しょう)、枚方(ひらかた)荘、勝浦荘を除いて鎌倉初期に成立したものが多い。その多くは公田の荘園化で、墾田を荘園化したのは富田、助任(すけとう)の各荘の現徳島市中心部にすぎない。

[高木秀樹・平井松午]

中世

源平の戦いのあと、鎌倉幕府は佐々木経高(つねたか)を阿波、淡路、土佐3国の守護職に任じたが、佐々木氏は承久(じょうきゅう)の乱(1221)に敗れて守護職は小笠原(おがさわら)氏に移った。1341年(興国2・暦応4)足利(あしかが)氏の重臣細川頼春(よりはる)が四国管領(かんれい)、阿波守護に任ぜられ、3代詮春(あきはる)のときに勝瑞(しょうずい)城(藍住(あいずみ)町)を築き守護所とした。細川氏は北朝方として、剣山周辺の阿波山岳武士の南朝方に対抗した。勝瑞城は吉野川低地にある要地で、約240年間、阿波の行政の中心地となった。1552年(天文21)8代持隆(もちたか)は重臣三好義賢(みよしよしかた)に殺害され、以後阿波は三好氏に支配されたが、1575年(天正3)には土佐の長宗我部元親(ちょうそがべもとちか)が阿波に侵入、1582年には阿波全土を支配した。しかし1585年には豊臣(とよとみ)秀吉による全国統一のための四国平定で長宗我部氏も敗退し、蜂須賀家政が阿波に入国することになった。

[高木秀樹・平井松午]

近世

蜂須賀氏は1586年(天正14)猪山城(現徳島城)を築いて一宮(いちのみや)城から移り、城下町をつくった。以後、徳島は徳島藩25万石の城下町として明治維新に及んだ。1670年(寛文10)には城下の人口1万8826、戸数1472と記録される。藩政初期には阿波国の重要な地に支城を置き重臣を配した。一宮城(徳島市)、撫養(むや)城(鳴門市)、川島城(吉野川市)、池田大西城(三好市)、仁宇(にう)城(那賀(なか)町)、鞆(とも)城(海陽町)、脇(わき)城(美馬市)、富岡(牛岐(うしき))城(阿南市)、西条城(阿波市)の9城で「阿波の九城」とよばれたが、幕府の一国一城令によりすべて取り壊された。なお1615年(元和1)淡路国が徳島藩に加えられた。

 徳島藩の経済を支えたのは吉野川流域のアイ栽培、鳴門海峡に面した撫養の塩田、山地でのタバコ栽培であり、とくにアイ栽培と藍玉(あいだま)製造は藩の重要な財源となった。新田開発も進められ、阿波藍と新田開発は徳島藩の表高を大きく上回り、実高は40万石といわれた。一方、藩政下の農民の生活は苦しいものであった。1756年(宝暦6)の五社宮騒動(ごしゃのみやそうどう)は藍玉一揆(いっき)ともよばれるように、藩の藍専売制に対する農民の怒りが爆発したものである。騒動の首謀者5人は捕らえられて刑死したが、騒動の起きた石井町には5人を義民として祀(まつ)る五社神社がある。藩政期にはこのほか仁宇谷一揆、山城谷(やましろだに)一揆など約50の一揆が発生している。

 江戸末期には渭東(いとう)地区(徳島市)に洋式調練所を設け、津田に台場を築いて海防にあたった。戊辰(ぼしん)戦争には官軍として東北地方にまで赴いた。明治維新時には藩内でも混乱が生じ、版籍奉還に伴う禄(ろく)制改革によって卒族の扱いを受けた徳島藩筆頭家老で洲本(すもと)城代の稲田氏家臣を、徳島藩士が襲う庚午事変(こうごじへん)(稲田騒動)が起こり、首謀者10人が処刑された。

[高木秀樹・平井松午]

近代

1871年(明治4)の廃藩置県で徳島県が設置され、同年名東(みょうどう)県と改称、1876年には名東県が廃され、旧阿波国は高知県に、旧淡路国は兵庫県に分割編入された。1880年ふたたび徳島県が復活したが、旧淡路国は戻らなかった。自由民権論の先駆をなした土佐立志(とさりっし)社の影響を受け、徳島にも1874年井上高格(たかのり)を中心とする自助社が結成され自由民権論が盛んとなり、翌年二十数名の社員が大阪で板垣退助を迎えて気勢をあげている。しかし、首唱者は投獄されて徳島の自由民権運動は消滅した。1889年の市町村制施行で徳島市が誕生し、1市10郡2町139村に統一された。当時の徳島市の人口は6万余、全国で10番目であり、藍経済に支えられて銀行も多く設立されたが、明治30年代にはインド藍・人造藍(化学染料)などの輸入により阿波藍は凋落(ちょうらく)し、県勢も衰退した。

[高木秀樹・平井松午]

産業

1995年(平成7)の国勢調査による徳島県の産業別就業者数は40万6031人であったが、2005年国勢調査(1%抽出集計)では37万8000人となっている。産業別就業者では卸売・小売業がもっとも多いが、第一次産業(農林水産業)の就業者の割合は11.2%(1995年は12.2%)を占め、全国平均の5.1%(1995年は6.0%)を大きく上回っていて、とくに農業に従事する者が多い。近代工業の発達は遅れており、工業出荷額は1994年に1兆4420億円であったが、2004年には1兆6562億円とわずかに増加した。しかし、全国総出荷額のわずか0.6%を占めるにすぎない。

[高木秀樹・平井松午]

農林業

山地の多い徳島県の耕地面積は、県の総面積の7.8%である。そのうち水田が約6割で、吉野川中・下流域や那賀(なか)川・勝浦(かつうら)川の流域、県南の海岸沿いに多く、畑地、樹園地は山間地に分布する。2004年の農家数は3万9910戸(1995年は約4万5000戸)で、そのうち、大部分は兼業農家である。吉野川下流の徳島平野では藩政時代にはアイ作が盛んであったが、明治中期に藍(あい)製造の衰退で桑園(そうえん)や蔬菜(そさい)畑にとってかわり、さらに現在は灌漑(かんがい)施設が整備され水田地帯となっている。最下流部は、1946年(昭和21)の南海地震によって地盤が沈下し、塩水を避けて畑地に転換されている。

 畑作物はサツマイモジャガイモダイコンニンジンキュウリホウレンソウ、レタスなどがある。ダイコンは阿波たくあんの原料として江戸時代から栽培され、畑作物では収穫量第1位であったが、2004年度(平成16)の統計ではニンジンが第1位となっている。このほかに、シロウリ、蓮根(れんこん)、タケノコなどの生産が全国に知られており、近年は施設園芸も盛んになってきている。ミカン栽培は勝浦川流域が中心であったが、1981年(昭和56)の大寒害以降は激減した。スダチは県の特産物として全国生産の大部分を占める。県の北部ではナシの栽培が行われており、花卉(かき)栽培ではキク、洋ラン、ヒオウギ、オモトなどが知られる。

 藩政期から明治中ごろまで吉野川の中・下流域を中心にアイ栽培が行われ、江戸末期には栽培面積は8000ヘクタール、最盛時の1903年(明治36)には1万5000ヘクタールに達し、流域の過半をアイ畑が占めた。刈り取られたアイは「寝床(ねどこ)」とよばれる作業場で発酵されたのち、約70日間藍蔵に保存されてから藍玉(あいだま)に加工され、着物や足袋(たび)などの染料となった。徳島藩は藍役所を置き、アイ栽培、藍玉の製造・販売を監督した。藩の経済を支えた藍も明治中ごろにはインド、沖縄、台湾などから輸入される安い藍に押されて衰退し、さらに化学染料にとってかわられた。

 アイとともに徳島藩の重要な財源であった葉タバコ栽培や、明治以降盛んとなった養蚕業は、現在でも県西部を中心に行われているが、衰退の一途にある。第二次世界大戦後に伸張した畜産業も、輸入自由化のなかで低迷を続けている。

 県の総面積の約75%が林野で、そのうち私有林が83%を占める。スギ、ヒノキ、クヌギ、カシなどが吉野川・那賀川の上流域から伐(き)り出される。とくに那賀川上流の木頭(きとう)は降水量が多いためスギの育成に適し、藩政時代から美林で知られた。林産物にはシイタケや和紙原料のミツマタ、コウゾ栽培がある。

[高木秀樹・平井松午]

水産業

蒲生田(かもだ)岬以北の東海岸は沿岸漁業が主で、経営規模も小さく、エビ、タイ、イワシ、アジ、シラスなどの漁獲があり、鳴門海峡のワカメは優良品として知られる。南海岸は沿岸・沖合漁業が盛んで、マグロ、カツオなどの漁獲がある。養殖漁業には鳴門海峡でのワカメ、吉野川河口のノリなどがある。このほかに、アユやウナギの内水面養殖も行われている。

 阿波の塩業は1599年(慶長4)に播磨(はりま)(兵庫県)から入浜式塩田が導入され、正保(しょうほう)年間(1644~1648)には撫養塩田(むやえんでん)(鳴門市)が完成し、以後南斎田(みなみさいだ)(徳島市)、橘(たちばな)(阿南市)にも塩田が造成された。阿波の塩は品質がよく赤穂(あこう)塩と並んで全国的に知られ、藍、タバコとともに藩の財政を支えた。明治以降塩田はしだいに整理され、1972年(昭和47)のイオン交換膜法による製塩ですべて姿を消した。

[高木秀樹・平井松午]

工業

繊維、木工業などの軽工業が主体で、鉄鋼、機械などの重工業が占める比率は小さい。経営体も中小規模のものが多いが、1964年(昭和39)徳島市を中心とする地域が新産業都市に指定され、企業誘致も進み、吉野川河口北岸の徳島市川内地区、北島町にかけては東邦テナックス(旧、東邦レーヨン。2001年工場閉鎖)、日清紡(にっしんぼう)、四国化成などの大手企業の工場立地もみられ、また松茂(まつしげ)町や、鴨島(かもじま)町(現、吉野川市)、土成(どなり)町(現、阿波市)には工業団地が造成された。製造品出荷額等は2004年で1兆6562億円(1995年では1兆4653億円)で、製薬などの化学工業、電子部品・デバイス、電気機械器具、パルプ・紙・紙加工品、食料品、飲料・たばこ・飼料の順となっている。

 地場産業には藩政期からの木工業があり、とくに阿波たんす、阿波鏡台の製造で知られた。木製建具、仏壇、銘木の生産もある。綿織物の阿波しじらも明治初期に藍と結び付いてつくられてきたものである。阿波正藍しじら織、鳴門市の大谷(おおたに)焼、吉野川市の阿波和紙は伝統的工芸品に指定されている。このほか上板(かみいた)町の和三盆(砂糖)、つるぎ町のそうめんなどがある。

[高木秀樹・平井松午]

交通

徳島県北東部の鳴門(なると)海峡に臨む撫養(むや)(鳴門市)は、古来四国の門戸にあたる重要な港津であり、『阿波国風土記』(逸文)には「牟夜(むや)」と記されている。都から四国へ至る南海道の官道は、加太(かだ)(和歌山市)から紀淡(きたん)海峡を越えて淡路島へ上陸し、福良(ふくら)から鳴門海峡を渡って牟夜へ到着した。牟夜からは陸路を西へ向かい、板野郡衙(ぐんが)推定地とされる郡頭(こおず)駅(板野町)から北転して讃岐(さぬき)へ抜けた。阿波の国府(徳島市)へは、郡頭駅から南進する支路によって結ばれたと考えられている。

 江戸時代、徳島城下を起点とするおもな街道を阿波五街道と称した。吉野川の南岸を西へ向かい、白地(はくち)の渡し(三好市池田町)で吉野川を越えて伊予(いよ)(愛媛)へ行く伊予街道、撫養から吉野川北岸に沿って美馬市脇町(わきまち)を通り、州津(しゅうづ)(三好市池田町)で吉野川を渡り池田で伊予街道と合する川北街道(撫養街道)、讃岐山脈の大坂峠を越えて讃岐(香川)へ向かう讃岐街道、海沿いを南下し、小松島や日和佐(ひわさ)、八坂八浜(やさかやはま)の難所を経て土佐(とさ)(高知)へ行く土佐街道、撫養を経由して淡路の洲本へ向かう淡路街道である。現在、伊予街道は国道192号、川北街道は地方道鳴門池田線、讃岐街道は同じく徳島引田(ひけた)線、土佐街道は国道55号、淡路街道は国道28号がほぼ踏襲している。

 江戸時代には河川交通も重要で、吉野川をはじめ勝浦川、那賀川、海部(かいふ)川などでは川舟による物資の輸送が行われた。吉野川は川口(三好市山城(やましろ)町)まで遡航(そこう)でき、池田、州津などの河港があり、河口の徳島からは米、塩、日用品が、上流側からは藍玉、木材、木炭などが運ばれ、鉄道の敷設まで続いた。秘境であった祖谷(いや)や木頭(きとう)への自動車道が通じるようになったのは、大正以降である。

 鉄道は1914年(大正3)に吉野川の川舟にかわる徳島本線が完成し、1935年(昭和10)には徳島と高松を結ぶ高徳本線(こうとくほんせん)が全線開通した。県南の牟岐線(むぎせん)が開通したのは1942年で、1973年には海部まで延長された。1992年(平成4)には、海部と甲浦(かんのうら)(高知県東洋町)とを結ぶ第三セクター方式の阿佐海岸鉄道(あさかいがんてつどう)が開通した。阪神地方への航路は、1875年(明治8)の航海汽船会社の設立とともに発展してきた。現在は徳島港と和歌山港、東京港、新門司港にフェリーの定期船便、徳島小松港と釜山(ふざん/プサン)との間にコンテナ便がある。徳島空港は東京と福岡へ定期便が就航し、東京とは高速バスでも結ばれている(2018)。

 本州四国連絡橋の神戸―鳴門ルート(神戸淡路鳴門自動車道)は、淡路島と大毛(おおげ)島(鳴門市)を結ぶ大鳴門橋(1629メートル)が1985年(昭和60)に完成、1998年(平成10)4月に全長3911メートルと世界最長の吊(つ)り橋である明石(あかし)海峡大橋が完成したことで全通、阪神方面への時間距離が短縮した。鳴門インターチェンジからは高松自動車道(四国横断自動車道の一部)となり、香川県へ通じている。また、鳴門ジャンクションで接続した徳島自動車道(徳島インターチェンジから四国縦貫自動車道の一部)が徳島市を通り、愛媛県四国中央市川之江まで走っている。

[高木秀樹・平井松午]

社会・文化

教育・文化

1661年(寛文1)徳島藩は京都から合田晴軒(ごうだせいけん)を招いて儒官とした。以後、増田立軒、柴野栗山(しばのりつざん)らの儒者が藩に仕えている。1791年(寛政3)12代藩主治昭(はるあき)は栗山の子平次らの勧めで寺島学問所を設立し、士族だけでなく庶民の子弟の入学も許した。1768年(明和5)には賀川(かがわ)流産科を確立した賀川玄悦(げんえつ)を京都から招いて藩医にしている。1795年には医師学問所が創設され、藩内に医学や本草(ほんぞう)学を学ぶ者も多くなった。シーボルト門下の美馬順三(みまじゅんぞう)は玄悦の『産論』をオランダ語に訳し、同じくシーボルトに学んだ高良斎(こうりょうさい)は優れた眼科医として知られた。

 2018年(平成30)現在、大学は国立の徳島大学、鳴門教育大学、私立の四国大学、徳島文理大学の4校、短期大学は私立3校、高等専門学校に国立阿南工業高専がある。

 新聞は、明治初期に『名東(みょうどう)新聞』『徳島新聞』『普通新聞』『徳島毎日新聞』が発刊されたが、すぐに廃刊になったものが多い。現在、県内世帯普及率がもっとも高い『徳島新聞』は『普通新聞』がその後何度か紙名をかえ、他紙と合併、分離を繰り返しながら命脈を保ったものである。放送は、NHK徳島放送局が1933年(昭和8)に開局し、1959年にテレビ放送を開始、四国放送(JRT)も1959年にテレビ放送を始めた。1992年にはラジオ放送のエフエム徳島が開局した。

[高木秀樹・平井松午]

生活文化

徳島県最大の祭りとなった阿波踊は盂蘭盆(うらぼん)の精霊(しょうりょう)踊りが祖型とみられ、夜の「ぞめき」が盛んになるにつれ、早朝に三味線と語りで町中を流す「流し」がほとんどみられなくなったのが惜しまれる。人形芝居も藩政期に淡路で盛んになり、徳島城下にも多くの人形座があった。明治初期には県下に58の人形座があったという。現在は勝浦座など十数座が活動するほか、高校のクラブ活動や婦人会によって演じられることが多い。なお、1999年には「阿波人形浄瑠璃(じょうるり)」が国の重要無形民俗文化財となった。

 吉野川の支流祖谷(いや)川上流域の祖谷地方は、大正期まで交通の不便な地で、平家の落人が住み着いたとも伝えられ、長く他地域と隔絶されていたため独特の習俗を残している。一家の跡取りが結婚すると、親はそのほかの子供を連れて別家に移る別居隠居の制度や、山仕事や農作業を共同で行う結(ゆい)などがみられる。隠居制度は那賀(なか)川上流の旧木頭(きとう)村地区、旧木沢村地区(現那賀町)にも残っている。県北部の讃岐山脈の大坂峠、三頭越(さんとうごえ)、猪鼻(いのはな)峠は阿波と讃岐(香川)を結ぶ道路が通じ、藩政時代には阿波の藍やたばこが運ばれ、また借耕牛(かりこうし)が通る道でもあった。借耕牛の風習は江戸中期からあり、阿波の山分(さんぶん)から水田耕作のため讃岐へ出稼ぎに行き、牛の使役料は米で支払われた。この制度は昭和30年代まで残っていたが、農業経営の変化とともに失われた。

 「西祖谷の神代踊(じんだいおどり)」(国の重要無形民俗文化財)、石井町の「曽我(そが)氏神社神踊(かみおどり)」(選択無形民俗文化財)、徳島市の「宅宮(えのみや)神社神踊」など県下には神踊が分布するが、五穀豊穣(ほうじょう)、雨乞(あまご)い祈願など農業にかかわる芸能である。吉野川、那賀川沿いには辻堂(つじどう)、薬師堂、大師堂とよばれる小堂のある集落が多い。これらの小堂は村人の親睦(しんぼく)の場所、また悪病よけ、灯明あげなどを行う信仰の場所であるとともに、四国遍路の接待場所でもあり、「阿波の辻堂の習俗」として選択無形民俗文化財とされている。

 藩政期に藩の財政を支えた藍、塩、和三盆などの製造に用いられた「阿波藍栽培加工用具」「鳴門の製塩用具」「阿波の和三盆製造用具」が保存されており、「祖谷の蔓(かずら)橋」とともに国の重要有形民俗文化財に指定されている。

 国指定史跡に円墳の「段の塚穴」、郡里(こおざと)廃寺跡(以上美馬(みま)市)、阿波国分尼寺跡(石井町)、丹田古墳(東みよし町)、勝瑞城館跡(藍住町)、渋野丸山古墳、徳島城跡、徳島藩主蜂須賀家墓所(以上徳島市)、阿波遍路道(鶴林寺道、太龍寺道、いわや道、平等寺道)があり、国指定重要文化財には、建造物に丈六寺本堂、観音堂、三門(徳島市)、切幡(きりはた)寺大塔(阿波市)のほか、藍農家の田中家住宅(石井町)、製塩業の福永家住宅(鳴門市)など、また彫刻に井戸寺の木造十一面観音(徳島市)などがある。国指定天然記念物には、樹齢1000年以上と推定される東みよし町の「加茂の大クス」(特別天然記念物)のほか、「阿波の土柱(どちゅう)」(阿波市)、「大浜海岸のウミガメおよびその産卵地」(美波町)などがあり、渦潮で知られる鳴門は国の名勝に指定されている。

[高木秀樹・平井松午]

伝説

平家の落人伝説はほとんど全国にわたっているが、とりわけ本県の三好(みよし)市東祖谷(ひがしいや)の阿佐(あさ)家を中心に、高知県境にかけて分布することは古くから知られている。阿佐家では落人のしるしとして「平家の赤旗(あかはた)」を伝えている。四国には狐(きつね)がいないというが、狸(たぬき)伝説は実に多い。なかでも阿波は「狸合戦」の本場で、徳島の六右衛門(ろくえもん)狸と小松島の金長(きんちょう)狸を親分とする2派の合戦は激しく、両親分狸が戦死するまで続いたという。津田浦(徳島市)に六右衛門の墓、小松島市に金長の祠(ほこら)があって、いまも信仰を集めている。小松島市の沖合いのお亀磯(かめいそ)という岩礁は、もと亀島だったところで、お亀千軒とよばれるほど繁栄した漁村だったという。あるとき、一夜にして水没し、おかめ波石という岩だけが残ったという伝説がある。神前の銅(あかがね)の鹿(しか)の顔が赤くなると島が沈むという言い伝えがあり、その前兆を信じた者だけが助かり、疑った者はみな死んだ。徳島市福島の四所神社(ししょじんじゃ)は、亀島にあったのを生き残った者が福島に移したといわれる。大毛(おおげ)島土佐泊(とさどまり)に貴種流離譚(きしゅりゅうりたん)がある。平通盛(みちもり)は一ノ谷の合戦で戦死し、妻の「小宰相局(こざいしょうのつぼね)」は屋島を目ざしてこの地まできたが、世をはかなんで入水(じゅすい)した。里人が哀れんで葬ったという墓が残っている。浄瑠璃(じょうるり)の『傾城(けいせい)阿波の鳴門』で知られる「阿波十郎兵衛」のモデル坂東十郎兵衛屋敷跡が徳島市川内(かわうち)町にある。十郎兵衛は徳島藩の船改(あらため)役を勤めていたが、無実の罪を負わされて磔(はりつけ)になったと伝えている。「衛門三郎(えもんのさぶろう)」は弘法(こうぼう)大師のあとを追って21回も四国全土を巡り、力尽きて焼山(しょうさん)寺山(神山町)で倒れたが、死の直前に大師に出会えたという。大師が墓標がわりに杖(つえ)をさし、根づいたのが「杖杉(つえすぎ)」であるという。大師伝説の一つに「鯖大師(さばだいし)」がある。八坂八浜(やさかやはま)(海陽町)は海沿いの難所で、大師はここで馬子(まご)を呼び止め、馬の背に積んだ鯖を一尾くれといったが、それを断るとにわかに馬が腹痛をおこした。さては大師、と気づいて鯖を献ずると、たちまち腹痛がやんだ。大師は鯖を海に放してやったという話である。遍路の国だけあって、小松島の立江(たつえ)寺の「肉づきの鉦緒(かねお)」、「種まき大師」(鳴門市大麻(おおあさ)町)、「焼山寺の大蛇(おろち)」など、弘法大師や遍路にまつわる伝説が多い。

[武田静澄]

『『徳島県史』全10冊(1964~1967・徳島県)』『『徳島県林業史』(1972・徳島県)』『福井好行著『徳島県の歴史』(1973・山川出版社)』『金沢治著『日本の民俗36 徳島』(1974・第一法規出版)』『『徳島県百科事典』(1981・徳島新聞社)』『『角川日本地名大辞典 徳島県』(1986・角川書店)』『『図説 徳島県の歴史』(1994・河出書房新社)』『『新版 徳島県の歴史散歩』(1995・山川出版社)』『『徳島の地理』(1995・徳島地理学会)』『『日本歴史地名大系37 徳島県の地名』(2000・平凡社)』


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

今日のキーワード

潮力発電

潮の干満の差の大きい所で、満潮時に蓄えた海水を干潮時に放流し、水力発電と同じ原理でタービンを回す発電方式。潮汐ちょうせき発電。...

潮力発電の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android