朝日日本歴史人物事典 「徳川茂承」の解説
徳川茂承
生年:弘化1.1.15(1844.3.3)
幕末の紀州(和歌山)藩主。紀州支藩の伊予国西条藩(愛媛県)藩主松平頼学の子に生まれ,安政5(1858)年幕命により本家を継ぐ。慶応1(1865)年5月征長先鋒総督に任命され,翌年6月より第2次長州征討の指揮に当たったが,戦況不利のまま休戦,帰陣。慶応4年1月鳥羽・伏見の戦で敗走した徳川兵を庇護したとの嫌疑を受け上洛,藩兵を東海道先鋒総督に提出,命じられて金15万両を献上。のち和歌山藩知事,廃藩置県で東京府貫属。皇居炎上ののちの同6年,赤坂の旧中屋敷地を献上。同10年,旧藩士族の人材養成のため金10万円を提供して徳義社を設立。趣旨に言う,「藩主に仕るの忠は国に報るの忠と為るべし。門閥の争論は民権の争論と為るべし」。福沢諭吉の文である。
(井上勲)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報