愛宕通旭(読み)おたぎ・みちてる

朝日日本歴史人物事典 「愛宕通旭」の解説

愛宕通旭

没年:明治4.12.3(1872.1.12)
生年弘化3.10.9(1846.11.27)
幕末維新期の公家。内大臣久我建通の子。養父は右近衛権少将愛宕通致。通称愛宕大夫。安政4(1857)年従五位下となり,同6年元服,昇殿を許される。慶応2(1866)年8月,朝政の革新,長防(長門,周防)の解兵,列藩の招集,勅勘諸卿の赦免などを求めた中御門経之らと22卿列参奏議に加わる。明治1(1868)年2月参与兼軍防事務局親兵掛,同10月神祇官判事となるが翌年5月に免官。維新後の旧公家の失権や京都の疲弊嘆き,新政府の開化方針を憤り,天皇の京都還幸実現による攘夷の実行と政体の改革を図った。当時不穏の情勢にあった長州藩や北九州の反政府的動きとも通じ,外山光輔ら旧公家,および柳川藩士古賀十郎,秋田藩士初岡敬治,土佐藩郷士堀内誠之進らと画策したといわれるが,計画段階で発覚。同4年3月14日に東京で捕らえられ,同年12月3日,外山光輔らと共に自刃を命ぜられた。<参考文献>高木俊輔『それからの志士

(高木俊輔)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「愛宕通旭」の意味・わかりやすい解説

愛宕通旭
おたぎみちてる
(1846―1871)

幕末・維新期の公卿(くぎょう)。明治初年の反政府陰謀の盟主。弘化(こうか)3年10月9日生まれ。1859年(安政6)元服し昇殿を許される。66年(慶応2)中御門経之(なかみかどつねゆき)らと列参、朝政革新、長防解兵、勅勘諸臣の赦免を奏議した。68年2月参与兼軍防事務局親兵掛となり、10月神祇(じんぎ)官判事に就任したが、翌年5月人事刷新方針により罷免された。天皇東幸後の京都の衰微と公卿の失権、政府の開化政策を不満とし、久留米(くるめ)藩士らと盟約を結んで武力による天皇の還幸と政府改革を計画したが、71年(明治4)3月発覚し、同年12月3日自刃を命ぜられた。なお同じころ、公卿の外山光輔(とやまみつすけ)らも政府転覆を企図して発覚し処刑されている。

[佐々木克]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「愛宕通旭」の解説

愛宕通旭 おたぎ-みちてる

1846-1872* 幕末-明治時代の公家(くげ)。
弘化(こうか)3年10月9日生まれ。久我建通(こが-たけみち)の3男。愛宕通致(みちずみ)の養子。明治元年神祇(じんぎ)官判事になる。4年旧公家の権威失墜を理由に,旧公家の外山(とやま)光輔らと京都還幸や新政府の転覆を計画したが発覚,東京で捕らえられ,同年12月3日自刃(じじん)した。26歳。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「愛宕通旭」の意味・わかりやすい解説

愛宕通旭
おたぎみちあきら

[生]天保5(1834)
[没]明治4(1871)
江戸時代末期の公家。明治維新直後新政府の参与となったが,まもなく辞任。旧権威の失墜や新政府への不満などから反政府運動に奔走,外山光輔と結んで反乱を企て,また天皇の京都還幸を企図中,明治4 (1871) 年発覚して捕えられ自刃。

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