日本大百科全書(ニッポニカ) 「慧遠(東晋時代の僧)」の意味・わかりやすい解説
慧遠(東晋時代の僧)
えおん
(334―416/417)
中国、東晋(とうしん)時代の仏僧。俗姓は賈(か)。山西省の雁門(がんもん)郡楼煩(ろうはん)県の出身。21歳のころ、釈道安(しゃくどうあん)の『般若経(はんにゃきょう)』の講義に啓発されて弟の慧持(えじ)(337―412)とともに出家した。道安のもとで25年間修学したのち、師と分かれて廬山(ろざん)に入り、東林寺をつくる。廬山に白蓮社(びゃくれんしゃ)という阿弥陀仏(あみだぶつ)の念仏結社をつくり、没するまでの30余年間、廬山を離れず、教団の指導にあたった。後世、中国浄土教の祖師と仰がれる。時の権力者桓玄(かんげん)(369―404)の「沙門(しゃもん)は王者に敬礼すべし」という要求に反対して、404年(元興3)に『沙門不敬王者論(しゃもんふけいおうじゃろん)』を著した。また鳩摩羅什(くまらじゅう)とも書簡を通じて意見を交換し、両者の意見は現在『大乗大義章(だいじょうたいぎしょう)』として残っている。慧遠は東晋時代の仏教界の最高の指導者であり、仏教教団の整備や仏教教理の発展と普及に果たした彼の功績は大きい。
[小林正美 2017年1月19日]
『木村英一編『慧遠研究 遺文篇』『慧遠研究 研究篇』(1960、1962・創文社)』