慶滋保胤(読み)よししげのやすたね

精選版 日本国語大辞典 「慶滋保胤」の意味・読み・例文・類語

よししげ‐の‐やすたね【慶滋保胤】

平安中期の漢詩人。賀茂忠行の子。菅原文時の弟子となり紀伝道に学ぶ。従五位下大内記に至る。詩人として高岳相如と並び称された。勧学会結衆の主導的立場として活動し、寛和二年(九八六)出家。寂心(心覚とも)と号し、以後源信らと行を共にした。著作に「池亭記」「日本往生極楽記」などがある。長保四年(一〇〇二)没。

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デジタル大辞泉 「慶滋保胤」の意味・読み・例文・類語

よししげ‐の‐やすたね【慶滋保胤】

[?~1002]平安中期の文人。本姓、賀茂。あざなは茂能。法名、寂心。菅原文時に師事、漢詩文にすぐれ、源順みなもとのしたごうと親交があった。著「池亭記」「日本往生極楽記」など。

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改訂新版 世界大百科事典 「慶滋保胤」の意味・わかりやすい解説

慶滋保胤 (よししげのやすたね)
生没年:931ころ-1002(承平1ころ-長保4)

平安時代の漢詩人,僧。唐名定潭。字は茂能。賀茂忠行(かものただゆき)の次男で,慶滋は本姓賀茂の読み替えである。陰陽道を家業とした父や兄保憲(やすのり)と志を異にして紀伝道に学び,菅原文時に師事して首席となり,天徳・応和(957-964)のころ高岳相如(たかおかのすけゆき)(?-995)と才名を並称された。卓越した才能と将来への野心を持ちながら,また弥陀念仏の信仰生活を送っていた。964年(康保1)に学生と比叡山の僧侶が春秋2回西坂本に会して《法華経》を講じ弥陀を念じ賛仏の詩を賦す行事の勧学会(かんがくえ)を結成して,その指導者になった。その維持発展に心を傾けたが,次第に深まる信仰によって離れていった。天暦の末に学生のまま内御書所(うちのみふみどころ)に出仕したのち,近江掾(おうみのじよう)になり,さらに大内記に進んだ。兼明(かねあきら)親王とは中務省において密接な関係を持ち,また具平(ともひら)親王の詩文学問の師として多大の感化を及ぼした。963年(応和3)の《善秀才宅詩合(ぜんしゆうさいたくしあわせ)》や969年(安和2)の《粟田左府尚歯会(あわたさふしようしかい)》に参加して詩を詠み,具平親王邸の詩会に出席して源順や橘正通らと交際して互いに詩才を競った。982年(天元5)六条に新しく池亭を築いた彼は《池亭記(ちていき)》を執筆した。前半で西京の荒廃と都の住居の構成について述べ,後半で池亭の規模と四季の景観及び自己の閑適生活をとおして理想の住居論を展開しているが,腐敗した現実の政治を批判し,真摯な生活態度を綴ったこの文章は,後世鴨長明の《方丈記》に大きな影響を与えた。984年(永観2)花山天皇即位とともに藤原義懐(よしちか)や藤原惟成(これしげ)は,律令政治の復活を目標に革新的政策を実行しようとしたが,保胤も官人の一員としてそれに参画した。しかしこの改革運動も権力者の圧力によって崩壊し,986年(寛和2)に彼は比叡山横川(よかわ)の源信(げんしん)のもとで出家し寂心(じやくしん)と称した。このときすでに《日本往生極楽記》は完成していた。これは中国の《浄土論》や《瑞応刪伝(ずいおうさんでん)》にならって日本における往生者45人の伝記を,国史や諸伝および自己の見聞によって記したもので,源信の《往生要集》が天台浄土教の立場から正しい念仏生活のための理論的指南書であるのと対をなしている。この書は日本の往生伝類の先駆となり,《法華験記(ほつけげんき)》や《今昔物語集》巻十五の主要な素材となった。出家ののち念仏三昧に専心し,《横川首楞厳院二十五三昧起請(よかわしゆりようごんいんにじゆうごさんまいきしよう)》を起草している。

 彼は横川で増賀(ぞうが)に止観(しかん)を学んだといわれるが,のち東山の如意輪寺に居住した。その高名を慕って大江定基(法名寂昭(じやくしよう))が弟子となり剃髪した。播磨の書写山(しよしやさん)の性空(しようくう)を訪ね,また諸国の霊場を遍歴して修行に励んだ。都におけるその名声は高く,藤原道長も彼を受戒の師と仰いでいる。《十六想讃》や《慶保胤集(けいほういんしゆう)》があるが散逸し,《本朝文粋(ほんちようもんずい)》や《和漢朗詠集》などに作品を残している。〈東岸西岸之柳 遅速同じからず 南枝北枝之梅 開落已(すで)に異なり〉(《和漢朗詠集》)。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「慶滋保胤」の意味・わかりやすい解説

慶滋保胤
よししげのやすたね
(?―1002)

平安時代の文人。字(あざな)は茂能。法名は寂心。世に内記入道と称された。賀茂忠行(かものただゆき)の第2子。慶滋と名のった。家業の陰陽道(おんみょうどう)を捨てて、紀伝道の学生となり、対策に及第して、大内記、従(じゅ)五位下に進んだ。菅原文時(すがわらのふみとき)を師とし、門弟中文章第一と称せられたが、一方早くから弥陀(みだ)を念じ、964年(康保1)には学生有志と勧学会(かんがくえ)をおこして、その中心となって活動した。986年(寛和2)に出家。源信(げんしん)をはじめとする当時の浄土教家と交流があり、諸国遍歴後、東山の如意輪寺に住み、1002年(長保4)70歳ほどの生涯を終えた。弟子に寂照(じゃくしょう)(大江定基(おおえのさだもと))がいた。伝記・逸話は『今昔物語集』等に伝えられ、家集『慶保胤(けいほういん)集』二巻は伝わらないが、その詩文は『本朝文粋(ほんちょうもんずい)』『和漢朗詠集』等に残る。『池亭(ちてい)記』はその代表作である。また往生(おうじょう)人の事跡を集めた『日本往生極楽(ごくらく)記』一巻の著があり、源信の『往生要集』とともに宋(そう)に送られた。

[柳井 滋]

『薗田香融「慶滋保胤とその周辺」(『顕真学苑論集』1956.12所収・顕真学会)』『増田繁夫「慶滋保胤伝攷」(『国語国文』1964.6所収・京都大学文学部国語学国文学研究室)』『平林盛得「慶滋保胤の死」(『日本仏教』1965.8所収・日本仏教研究会)』

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朝日日本歴史人物事典 「慶滋保胤」の解説

慶滋保胤

没年:長保4.10.21(1002.11.27)
生年:生年不詳
平安中期の下級官人,文人。陰陽家賀茂忠行の次男。字は茂能,唐名を定潭。内記入道とも。兄保憲,弟保遠が陰陽家を継いだのに対して家業を捨てて文章道に進み,菅原文時に師事して文章生となる。慶滋は本姓賀茂の訓よみ(よししげ)を別字で表記したもので,文人好みの改姓であろう。その後具平親王の侍読として仕え従五位下大内記にまで昇進するが,結局下級官人で終わっている。天元5(982)年に書いた『池亭記』は,50歳を前にようやく手に入れた左京の六条坊門南,町尻東の地に屋敷を構え,信仰と学問三昧の生活に安らぎを求めるに至った心境を吐露したもので,後年鴨長明の『方丈記』にも大きな影響を与えている。なお『池亭記』の前半部は右京の荒廃,左京の人口稠密化など,推移する平安京の都市的実態を活写したものとして有名。また幼いころから阿弥陀信仰に関心を持ち,康保1(964)年,自身が中心となって大学寮北堂の学生と比叡山の僧侶らで勧学会を結成,春秋2回会合して念仏と仏典研究に当たり,寛和2(986)年に出家(法名は心覚,のち寂心)するまで約20年間続けている。『日本往生極楽記』はわが国最初の往生伝で,その後における浄土思想の発展や説話文学に強い影響をおよぼし,のち源信の『往生要集』とともに宋に伝えられた。如意輪寺(左京区鹿ケ谷)で示寂,長徳3(997)年とも,70歳前後ともいうが詳らかでない。弟子に大江定基(寂照)がおり,藤原道長も「白衣弟子」と称してその死を悼んでいる。

(瀧浪貞子)

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百科事典マイペディア 「慶滋保胤」の意味・わかりやすい解説

慶滋保胤【よししげのやすたね】

平安中期の漢詩人。字は茂能。陰陽(おんよう)博士の賀茂保憲の弟。菅原文時に学び,詩文の才を称せられた。源順らと交わり,具平親王は詩文の弟子。その一方,あつく仏教を信じ,986年比叡山横川(よかわ)の源信のもとで出家して寂心と称した。横川では増賀に止観を学んだといわれる。詩集《慶保胤集》は散逸し,《本朝文粋》に若干編が収められる。また,摂関期の社会を批判的にとらえた《池亭記》(《本朝文粋》所収)は鴨長明の《方丈記》に大きな影響を与えている。そのほか聖徳太子以下の仏教入信者の伝《日本往生極楽記》がある。
→関連項目悪人往生譚賀茂保憲女勧学会

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「慶滋保胤」の解説

慶滋保胤
よししげのやすたね

?~1002.10.21

平安中期の文人・儒者。字は茂能。唐名は定潭。賀茂忠行の子であるが,陰陽(おんみょう)道の家学を捨て紀伝道を志し,本姓も読みかえた。文章(もんじょう)博士菅原文時に師事して文章生から従五位下大内記に至り,永観改元の詔などを草した。その間,念仏結社である勧学会の設立に尽力し,986年(寛和2)出家。法名ははじめ心覚,のち寂心。世に内記入道と称し,諸国遍歴後,洛東の如意輪寺に没した。「本朝文粋(もんずい)」に収められた「池亭記」では,当時の社会批評と文人貴族の風流を展開し,また浄土信仰に傾倒して「日本往生極楽記」を著した。弟子に寂照(じゃくしょう)(大江定基)がおり,藤原道長もみずから白衣弟子と称した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「慶滋保胤」の意味・わかりやすい解説

慶滋保胤
よししげのやすたね

[生]承平4(934)頃
[没]長徳3(997)
平安時代中期の漢学者。本姓,賀茂氏。法号,寂心。内記入道とも呼ばれた。父は丹波権介賀茂忠行。陰陽の家の出身であるが,紀伝,文章の学に志し,文章博士菅原文時の門に入り漢学を学び,第一人者として知られ,源順 (したごう) らと親交を結んだ。近江掾,大内記の官を経たが,源信に近づき,寛和2 (986) 年出家して比叡山横川に入り,諸国を遍歴行脚。随筆『池亭記』 (982) ,伝記集『日本往生極楽記』がある。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「慶滋保胤」の解説

慶滋保胤 よししげの-やすたね

?-1002 平安時代中期の官吏,漢詩人。
賀茂忠行の次男。賀茂から慶滋に改姓。菅原文時に師事して文章(もんじょう)道で名をあげ,従五位下,大内記。阿弥陀信仰をふかめ,応和4年勧学会(かんがくえ)をおこす。のち源信のもとで出家。詩文は「本朝文粋(もんずい)」などにのこる。長保4年10月21日死去。京都出身。字(あざな)は茂能。法名は心覚,のち寂心。著作に「池亭記」「日本往生極楽記」など。

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旺文社日本史事典 三訂版 「慶滋保胤」の解説

慶滋保胤
よししげのやすたね

931〜1002
平安中期の文人貴族
陰陽道・天文・暦学の家である賀茂氏の出。家学を好まず改氏。菅原文時に師事し,文筆で名をあげ,のち源信と交流,比叡山横川 (よかわ) で出家した。著書に『日本往生極楽記』『池亭記』など。

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世界大百科事典(旧版)内の慶滋保胤の言及

【池亭記】より

慶滋保胤(よししげのやすたね)の漢文随筆。982年(天元5)成立。…

【日本往生極楽記】より

慶滋保胤(よししげのやすたね)選。寛和年間(985‐987)の成立。…

【本朝文粋】より

…菅家廊下の日常生活を生き生きと描く菅原道真《書斎記》,宇多法皇の侍臣8人の酒飲み大会における泥酔ぶりを活写する紀長谷雄《亭子院賜飲記》などは事実を平明に直叙する新しい記録体散文である。また慶滋保胤(よししげのやすたね)《池亭記》は自照文学の傑作。《方丈記》の先蹤(せんしよう)としてあまりにも有名である。…

※「慶滋保胤」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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