懐良親王(かねよししんのう)(読み)かねよししんのう

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

懐良親王(かねよししんのう)
かねよししんのう
(?―1383)

醍醐(ごだいご)天皇の皇子。「かねなが」とも読まれる。征西将軍宮。建武(けんむ)新政が挫折(ざせつ)したのち、後醍醐天皇は諸皇子を全国各地に派遣して、南朝勢力の回復を図ることを計画した。懐良親王は征西大将軍として九州に派遣されることになり、1342年(興国3・康永1)5月薩摩(さつま)国(鹿児島県)に上陸、1347年肥後(ひご)国(熊本県)に入り、菊池(きくち)氏の援助を受けて南朝勢力の拡大に努めた。1359年8月の筑後(ちくご)川の戦いで少弐頼尚(しょうによりひさ)の軍を破って優位にたち、1361年大宰府(だざいふ)を占拠して九州の覇権を確立し、九州の南朝勢力の全盛時代を迎えた。これに対抗するため室町幕府斯波氏経(しばうじつね)、渋川義行(しぶかわよしゆき)を九州探題に任じ下向させたが、いずれも失敗した。しかし1371年今川了俊(りょうしゅん)が九州探題として下向してからは、南朝勢力は振るわなくなり、1372年(文中1・応安5)8月懐良親王も大宰府を放棄して、肥後国菊池に退いた。その後も筑後地方に進出し、北朝勢力と合戦を繰り返したが、しだいに衰退し筑後国矢部地方に逼塞(ひっそく)した。その後、征西将軍職を退き、矢部(やべ)(福岡県八女(やめ)市)で弘和(こうわ)3年50余歳で没した。墓所は筑後・肥後地方各地に残っているが確証はない。

[瀬野精一郎]

『藤田明著『征西将軍宮』(1915・宝文館)』『杉本尚雄著『菊池三代』(1966・吉川弘文館)』『川添昭二著『菊池武光』(1966・人物往来社)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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