戸田忠至(読み)とだ・ただゆき

朝日日本歴史人物事典 「戸田忠至」の解説

戸田忠至

没年:明治16.3.30(1883)
生年:文化6.8.11(1809.9.20)
幕末の宇都宮藩(栃木県)家老,高徳藩(同県)藩主。宇都宮藩主戸田氏の一族に生まれ,天保13(1842)年家老間瀬家を継ぐ。文久2(1862)年,同藩士大橋訥庵らが坂下門外での安藤信正襲撃事件関係者として逮捕され,藩に害がおよぶのを避ける目的もあって天皇陵修補の建白書を幕府に提出,藩主名代として山陵御締向御普請御用に命ぜらる。この間姓を戸田に改め,上洛して朝廷建言,容れられて山陵奉行となる。修補工事は同3年末に終了。翌元治1(1864)年1月大名格を許され,慶応2(1866)年3月立藩。同3年7月若年寄,同12月新政府参与。その後は権弁事,内弁事,宮内大丞などを歴任。山陵修補という正義をいい立て,幕末の動乱にあって見事に保身を果たした。

(井上勲)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「戸田忠至」の解説

戸田忠至 とだ-ただゆき

1809-1883 江戸時代後期の武士,大名。
文化6年8月11日生まれ。下野(しもつけ)(栃木県)宇都宮藩主戸田忠翰(ただなか)の甥(おい)。重臣間瀬氏をつぎ家老となる。藩主戸田忠恕(ただゆき)の意をうけ,県信緝(あがた-のぶつぐ)と畿内(きない)の山陵の調査と修復を実施。慶応2年下野高徳藩主戸田家初代となる。1万石。明治16年3月30日死去。75歳。通称は和三郎。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の戸田忠至の言及

【宇都宮藩】より

…下野国(栃木県)河内郡宇都宮に城郭を構えた譜代中藩。中世以来続いた宇都宮氏は1590年(天正18)豊臣秀吉から本領を安堵され,太閤検地も実施されたが,97年(慶長2)国綱は突然改易となり,翌年18万石の所領は蒲生秀行に引き継がれた。1600年徳川家康の外孫奥平家昌が10万石で入封し,以後東北地方への押え,日光東照宮の入口として徳川譜代の臣が藩主となった。1619‐22年(元和5‐8)の本多正純は15万5000石を領有し,宇都宮城の拡大,城下町の改造,日光への街道の整備を行うとともに,領内の検地を実施したが,突然改易となり,復帰した奥平氏も1668年(寛文8)忠昌の死後,寵臣杉浦右衛門兵衛の殉死,藩内対立などから山形へ移されるが,このころまでが藩体制確立期であった。…

※「戸田忠至」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android