扶余(読み)フヨ(英語表記)Puyǒ

デジタル大辞泉 「扶余」の意味・読み・例文・類語

ふよ【扶余/夫余】

前1世紀~5世紀に中国東北地方から朝鮮半島北部で活動したツングース系の民族。また、その建てた国。1~3世紀に全盛期を迎えたが、494年に同じツングース系の勿吉もっきつに滅ぼされた。
(扶余)大韓民国忠清南道の郡。538~660年、百済くだらの都の置かれた地。半月城・百済王陵などの遺跡がある。プヨ。

プヨ【扶余】

ふよ(扶余)

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改訂新版 世界大百科事典 「扶余」の意味・わかりやすい解説

扶余 (ふよ)
Puyǒ

韓国,忠清南道南部の郡。人口15万3817(1980)。錦江中流の広い平野地帯にあり,米作を中心として,ニンジンカラムシなどの特用作物を栽培する農村地帯である。郡の中央および北部には残丘状の丘陵地がみられ,金鉱など希少鉱物の埋蔵がみられる。特に林川金鉱山は古くから開発された歴史をもつ。郡の中心は錦江の左岸に位置する扶余邑で,人口3万1000(1980)の市街地をもつ。この町は三国時代,百済王朝が首都とした古都泗沘(しひ)であり,多くの遺跡から発掘された遺物は国立扶余博物館に収められている。百済王朝滅亡時,3000人の官女が投身したという,扶蘇山が錦江に臨む絶壁落花岩などもあり,歴史の町として観光地化している。かつては江景などとともに錦江沿いの米集散地としてにぎわったが,鉄道や道路交通が発達した結果,論山,裡里商圏を奪われている。
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百済は,538年(聖王16)に,公州からその南西方およそ36kmの泗沘に遷都し,660年(義慈王20)の滅亡まで,6代120余年間にわたって,王都とした。百済後期の泗沘は,現在の扶余にあたる。扶余地方の歴史は,櫛目文土器時代(新石器時代)にさかのぼるが,地域としての発展は,無文土器時代(青銅器時代)に入ってからのことである。扶余郡草村面松菊里には,その時代の大規模な集落遺跡があり,その一隅にある石棺墓からは,遼寧式銅剣と磨製石剣・石鏃・管玉などが出土した。同じく蓮華里では,竪穴式石室のなかから細形銅剣や多鈕(たちゆう)粗文鏡などが出土しており,ともに地域的集団の首長層の所産と思われる。扶余の歴史的記念物は,扶余邑内に遺存する百済後期の遺跡群に,目をみはるものが多い。大きく湾曲する錦江(白馬江)の東岸に面した独立丘陵に扶蘇山城があり,土塁や軍倉跡などが認められる。扶蘇山城の南麓は,王宮跡と推定され,また,そこから南方1kmほどのところに宮南池という庭園跡がある。百済後期には仏教が隆盛し,扶蘇山の南西麓から南方に開ける台地随所寺院址がある。伽藍配置は,定林寺(じようりんじ)址軍守里廃寺址のように,日本でいう四天王寺式,すなわち単塔系式が特徴的であるが,東南里廃寺址のように,複塔系式の可能性があるものもある。これらの遺跡群は,羅城によって囲まれた範囲内に位置する。そして,羅城の外,扶余邑の中心部から東方3kmあまりのところに,陵山里古墳群があって,そのころの百済王族の墳墓地とされる。
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百科事典マイペディア 「扶余」の意味・わかりやすい解説

扶余【ふよ】

韓国,忠清南道南西部の郡,白馬江(錦江)に臨み,流域の内浦平野の中心。付近は高麗ニンジンの産地。また農産物も豊富である。かつては江景などとともに錦江沿いの米の集散地としてにぎわった。郡の中央および北部には残丘状の丘陵地がみられ,金鉱など希少鉱物の埋蔵がみられる。林川金鉱山は古くから開発された歴史をもつ。郡の中心は錦江の左岸に位置する扶余邑,百済(くだら)の都泗耕であり,538年熊津より遷都,以来660年の百済滅亡まで120年間王都であった。多くの遺跡から発掘された遺物は,国立扶余博物館に収められている。百済王朝滅亡時,3000人の官女が投身したという,錦江に臨む扶蘇山の絶壁落花岩などもあり,歴史の町として観光地となっている。扶余邑内に遺存する百済後期の遺跡群には,目をみはるものが多い。錦江東岸に面した独立丘陵に扶蘇山城があり,土塁や軍倉跡なども残る。扶蘇山城の南麓には,王宮跡,宮南池という庭園跡がある。また百済後期の仏教の隆盛を示す,寺院址も多数。伽藍配置は,定林寺址や軍守里廃寺址のように,日本の四天王寺式に共通するものも多い。扶余邑の中心部の東方に,陵山里古墳群があり,そのころの百済王族の墳墓地とされる。定林寺址の国宝平百済塔は,唐・新羅連合軍が百済を滅ぼした際に,塔身に「大唐平百済国」の文字が刻まれ,その名があるが,現在は「定林寺五重塔」と呼ばれている。扶余郡の人口は7万3000人(2005)。
→関連項目忠清南道

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「扶余」の解説

扶余(ふよ)
Fuyu

前2世紀後半~494

夫余とも書く。中国東北部の北半にトゥングース系の貊(ばく)人が建てた国。中国の政治的・文化的な影響を受けて1~3世紀に松花江中流域を中心に大勢力となり,鮮卑(せんぴ)高句麗と対立した。3世紀後半からしだいに両者の圧迫を受け,前燕の慕容皝(ぼようこう)に346年に襲撃されて衰退し,494年に勿吉(もっきつ)に滅ぼされた。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「扶余」の意味・わかりやすい解説

扶余
ふよ
Fu-yu; Fou-yü

夫余とも書く。中国,東北地方に居住したツングース系の一部族。すでに『史記』貨殖列伝に,前2世紀頃漢人との間に交易を行なっていたことが記されている。前1世紀頃に国家を形成,1~3世紀に繁栄したが,3世紀後半から強大となった高句麗鮮卑に圧迫されて次第に弱化し,494年勿吉 (もっきつ) によって滅ぼされた。その生活様式や文化は,匈奴のそれに似たものであったと伝えられる。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「扶余」の解説

扶余
ふよ

夫余・泗沘(しひ)とも。百済(くだら)の最後(3番目)の王都。現在,韓国忠清南道扶余邑。538年聖王は百済の再興を企てて狭隘な熊津(こまなり)からここに遷都し,国号を南扶余と改めた。錦江に面する扶蘇(ふそ)山に王城をおき,羅城が王都をかこみ,遠く山城が王都の防衛ラインを形成,内には官衙や定林(じょうりん)寺などの寺院が配された。660年百済が滅び,663年倭軍と百済の復興軍も新羅・唐軍に白村江(はくそんこう)で敗れると,唐の熊津都督府がおかれた。

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旺文社日本史事典 三訂版 「扶余」の解説

扶余
ふよ

①古代,朝鮮半島南西部にあった百済 (くだら) の旧都
②前1〜後5世紀,中国東北部から朝鮮半島北部にかけて住んだツングース系狩猟農耕民,またその国名
538〜660年間の百済の都城である半月城があった。仏教中心の文化が栄えた。
1〜3世紀が全盛期。5世紀末,支族高句麗に圧迫されて消滅した。

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