扶南(読み)フナン

デジタル大辞泉 「扶南」の意味・読み・例文・類語

ふなん【扶南】

インドシナ半島南部にクメール人が建てた古代国家。1~2世紀ごろ成立し、南海貿易に従事、インド文化の影響を受けて栄えたが、7世紀半ばに真臘しんろうに滅ぼされた。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「扶南」の意味・読み・例文・類語

ふなん【扶南】

メコン川下流を中心にクメール人の建てた国家。一~二世紀に成立、三世紀中葉からカンボジアを中心にインドシナ半島南部からマレー半島の一部までを支配し、海上交通要衝をおさえて発展。真臘の圧迫で七世紀なかばに滅亡。〔管蠡秘言(1777)〕

ふなん【扶南】

雅楽唐楽平調小曲。舞はなく管弦だけで演奏される。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「扶南」の意味・わかりやすい解説

扶南 (ふなん)

1世紀ころから7世紀前半まで,カンボジアのメコン川デルタ地帯にあったクメール族の古代王国。インド文化の影響下に興起した国であり,国名の扶南は現地音〈ブナムBnam(山の意)〉を中国語で音写したといわれる。碑文史料ではバラモンカウンディンヤが渡来して土侯の娘ソマーと結婚して建国したと伝えている。中国史料(《梁書》《南斉書》など)ではインドから混塡(クンディナ?)が来航し,現地の女王柳葉をめとり,この国を支配したという。この二つの建国説話は,扶南がインド的な枠組みにより国家形成を行っていたこと,これがインドシナへのインド文化の最初の扶植であった事実を裏づけている。

 中国史料は建国後の扶南を以下のように伝えている。混塡の子孫の混盤況,盤盤へと王位は継承され,次いで将軍の范師蔓(はんしまん)が王となり,近隣を征服して扶南大王と名乗った。その支配地域は,西はマレー半島北部から大ビルマに及び,東ではベトナムのチャンパ王国と国境を接し,北には属国の真臘しんろう)を従えていた。次の范旃(はんせん)王の治下の229年ころ,中国の呉の使者朱応と康泰が扶南に来航し,そのおりインド大月氏(クシャーナ朝)の使者も到来,両国の使者が出会ったといわれる。次の范尋王は在位中の269年から287年まで3回にわたり中国へ朝貢した。その後357年にはインド系の名前をもつ竺旃檀王が馴象を中国に献上した。5世紀初めにインドのバラモン僑陳如(カウンディンヤ)が到来して扶南王となり,天竺の法制を用いて国家体制を整えたが,これは第2次インド化といっていいできごとであった。次いで持梨陁跋摩(シュリーンドラバルマン)が中国の宋の文帝治下(424-453)に遣使し,僑陳如闍耶跋摩(カウンディンヤ・ジャヤバルマン)が484年から4回にわたり中国へ使節を派遣し,安南将軍扶南王に列せられた。

 ここまでの扶南の政治展開を考古・出土資料の範囲から見るならば,オケオとその付近から,ローマの金貨2個(152年と156年のもの),大小の銀貨,多数の装身具類,梵語銘入り護符,ヒンドゥー教神像彫刻類,碑刻文など,インド系の出土品が数多く発見されている。扶南の外港オケオはカンボジア国境に近いベトナムのラチジャー海岸から内陸へ25km入った地点にある。当時のオケオは,中国やインドの使者が来航したごとく,ベンガル湾からマレー半島,タイ(シャム)湾とつながる海上ルートの中継地,交易港であり,このルートは南シナ海から中国へ通じていた。オケオからは中国の夔鳳(きほう)鏡も発見されている。しかし扶南の立国は海上交易よりも肥沃なメコン川デルタの農業開発に基盤をおいていた。首都の特牧城(ビャダプラ。メコン川右岸に位置する現在のバ・プノムBa Phnomに比定される)は内陸部にあった。中国史料によれば,王は重層の宮殿に住み,象に乗って外出した。奴隷を使い,金,銀,絹を交易し,金の指輪などの装身具をつけ,銀食器で食事をしていた。庶民は杭上家屋に住み,神判も行われ,天神を祭り,共同の池で水を汲み,日常生活を送っていた。服喪中の剃髪もあった。

 6世紀に入ると,属国であった北の真臘がメコン川沿いに南下を始め,特牧城は脅威にさらされ,時期は不明であるが,那弗那城(ナラバラナガラ。現在のアンコール・ボレイAngkor Borei)へ遷都したと中国史料が伝えている。514年庶子の留陁跋摩(ルドラバルマン)が嫡弟を殺して登位した。王は以後539年まで6回にわたり中国へ朝貢を行ったが,王位継承をめぐって国内に混乱があったようであり,扶南はやがて衰退へ向かった。新都のあったアンコール・ボレイとその聖山プノム・ダからは一群の彫刻が発見されている。それらヒンドゥー神像や仏像彫刻は,独特の力強い丸彫の彫像で,美術史上からはプノム・ダ様式と呼ばれている。ルドラバルマン王以降,王の系譜は空白となるが,中国史料によれば扶南は7世紀前半まで命脈を保っていたという。扶南滅亡の主因は,真臘の南下による攻撃,国内の政治的混乱,チャンパとの衝突,海上交易ルート途中のマレー半島に新しい国々が興起したことなどであった。7世紀半ばごろ扶南は真臘に併合されたが,後世の建国説話は,この併合の事実を裏づけるように,扶南と真臘の血統をもつ隠者カンブと天女メラーの婚姻の話を掲げ,扶南から真臘へのつながりを説明している。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

百科事典マイペディア 「扶南」の意味・わかりやすい解説

扶南【ふなん】

1―2世紀にメコン川下流域を中心に成立したクメール人最初の国家。3世紀半ばから現在のカンボジアを中心にインドシナ半島南部一帯からマレー半島の一部にまで発展し,当時の海上交通の要衝をおさえた。中国のやインドのクシャーナ朝とも通商したが,7世紀半ば真臘の圧迫で滅亡。
→関連項目オケオカンボジア

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「扶南」の意味・わかりやすい解説

扶南
ふなん

インドシナ半島、メコン川下流域にあった国。国名は、古クメール語で「山」を意味する「ブナム」の音写と考えられ、その民族はインドネシア系民族とする説が有力である。1世紀ごろメコン川下流域に建国し、2世紀初めの范師蔓(はんしまん)は「扶南大王」を称し、南はマレー半島北部、西は下ビルマまでその支配を拡大した。ベトナム出土の同時代のボカイン石柱刻文は東南アジア最古の刻文で、そこにはインドのブラーフミー系文字とサンスクリット語が使用され、文中のシュリーマーラは范師蔓の原音と推定される。その後、7世紀まで海上貿易で栄えた。都市遺跡のオケオは首都ビャーダプラ(特牧(とくぼく)城。現在のバナムと推定される)の南東に位置し、その貿易港であり、ローマ皇帝像を刻む金貨、インドの仏像、扶南の銀貨などが発見されている。7世紀初め北方の真臘(しんろう)国に圧迫されて南のナラバラナガラ(那弗那(なふつな)城。現在のアンコール・ボレイと推定される)に遷都し、7世紀中葉に滅亡した。

[仲田浩三]

『セデス著、辛島昇・内田晶子・桜井由躬雄訳『インドシナ文明史』(1980・みすず書房)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

山川 世界史小辞典 改訂新版 「扶南」の解説

扶南(ふなん)
Funan

メコン川下流域にあった,おそらくクメール人の古代国家(1世紀?~7世紀)。タイ湾を渡ってマレー半島北部を支配し,港市オケオは東西交易の拠点として繁栄した。4世紀から「インド化」が進んだが,6世紀に北方に興った真臘(しんろう)に圧され滅亡した。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「扶南」の解説

扶南
ふなん
Funam

1世紀に,メコン川下流域にクメール人またはマライ−ポリネシア系の人によって建てられた国ブナムの中国名。プノムとも呼ばれる
インド文化の影響がみられ,3世紀にはマレー半島まで勢力を拡大し,交通貿易の要衝として繁栄,インド諸国や中国の使節も来訪した。外港であるオケオからはローマの金貨,ヒンドゥー教神像彫刻,後漢の鏡などが出土した。のち真臘 (しんろう) (カンボジア)に圧迫されて7世紀に滅亡した。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android