押川方義(読み)おしかわまさよし

改訂新版 世界大百科事典 「押川方義」の意味・わかりやすい解説

押川方義 (おしかわまさよし)
生没年:1851-1928(嘉永4-昭和3)

キリスト教伝道者,教育家。松山藩士,横浜バンドの一人。宣教医パームT.A.Palmの勧めで1876年(明治9)より新潟に伝道,80年より仙台に移り,宮城函館に伝道して諸教会を設立した。86年合衆国改革派The Reformed Church in the USミッションの仙台神学校を設立,91年これを改組した東北学院院長を1901年までつとめた。日本文化のアジア進出を考え,キリスト教界,政財界人の協力で1894年大日本海外教育会を興し,朝鮮に京城学堂を設立。一時憲政会代議士もしたが,晩年は不遇。
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朝日日本歴史人物事典 「押川方義」の解説

押川方義

没年:昭和3.1.10(1928)
生年嘉永4.12.16(1852.1.7)
牧師,教育家のち実業家。松山(愛媛県)出身押川家に入る。開成学校を経て横浜修文館で英学を学ぶうちにS. R.ブラウンらの影響を受けてキリスト教に入信。日本最初のプロテスタント教会,横浜海岸教会を禁令下に創立。その後,仙台教会,仙台神学校(のち東北学院と改名)などを創立し,牧会・教育に従事。明治34(1901)年,東北学院を辞したあと実業界に転じ鉱山採掘,油田開発を手掛けたが失敗,さらに政界に進出,衆院議員当選2回。最後はキリスト教から離れ儒教主義に傾いた。第1世代キリスト者の波乱に満ちた生涯であった。<参考文献>大塚栄三『聖雄押川方義』

(原誠)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「押川方義」の意味・わかりやすい解説

押川方義
おしかわまさよし

[生]嘉永2(1849).12.28.
[没]1928.3.10.
東北学院創設者。松山藩士橋本昌之の3男。押川は養家の姓。大学南校より横浜バラ塾に転じ,J.H.バラより受洗。ブラウン塾に学び,日本基督公会設立に参画。 1875年新潟医療宣教師パームを助け,80年仙台で伝道を始める。日本基督公会仙台教会仙台神学校 (東北学院の前身) を創設し,東北伝道の基礎を固めた。しかし教会独立の理想は外国系ミッションとの対立を招き,1901年辞任。その後実業界,政界に進出しようとしたが志を得ず死去した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「押川方義」の解説

押川方義 おしかわ-まさよし

1852*-1928 明治-大正時代の牧師,教育者。
嘉永(かえい)4年12月16日生まれ。押川春浪の父。大学南校でまなぶ。横浜で宣教師ブラウン,バラにあいキリスト教に入信。明治5年日本基督(キリスト)公会を設立。新潟,東北地方で伝道活動をおこない,19年仙台神学校を創立。24年改称した東北学院の初代院長となる。大正6年衆議院議員(当選2回)。昭和3年1月10日死去。78歳。伊予(いよ)(愛媛県)出身。本姓は橋本。

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世界大百科事典(旧版)内の押川方義の言及

【岩野泡鳴】より

…1887年,伝道師を志し大阪で洗礼を受けたが,翌年,警察官だった父の転住で上京,明治学院や専修学校(現,専修大学)に学んだ。このころから滝沢馬琴を耽読,国木田独歩らと《文壇》を出したりしたが,91年,キリスト教教育家の押川方義(おしかわまさよし)を慕って仙台に赴く。94年まで東北学院に在籍し,懐疑と煩悶を重ねることになったが,多様な読書体験とともにその思想形成に大きく影響した時期である。…

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