精選版 日本国語大辞典 「教如」の意味・読み・例文・類語
きょうにょ ケウニョ【教如】
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安土(あづち)桃山時代の浄土真宗の僧。本願寺12世で、東本願寺の開創者。幼名を茶々、俗名を光寿(こうじゅ)、信浄院(しんじょういん)と称する。本願寺11世顕如(けんにょ)の長子で、母は細川晴元(ほそかわはるもと)の娘如春尼(にょしゅんに)(1544―1598)。本願寺が織田信長と戦った石山合戦の最末期の1580年(天正8)、開城をめぐって父顕如と対立し、4月の顕如退城後も籠城(ろうじょう)を続け、8月に退出した。以来、信長が没するまで義絶状態となったが、1592年11月に顕如が没すると、豊臣秀吉(とよとみひでよし)から命ぜられて本願寺12世を継いだ。しかるに如春尼が顕如の譲状を示して弟准如(じゅんにょ)(1577―1631)の継職を秀吉に訴えたので、翌1593年10月退隠を命ぜられ、准如が本願寺住持職についた。以来裏方と称して活動を続け、1602年(慶長7)徳川家康から京都六条烏丸(からすま)の地を寄進され、東本願寺を別立した。
[大桑 斉 2017年6月20日]
(草野顕之)
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1558.9.16~1614.10.5
織豊期~江戸前期の浄土真宗の僧。本願寺12世,東本願寺初世。童名は茶々丸,諱は光寿。父は11世顕如,母は細川晴元の養女如春尼。1580年(天正8)石山合戦の和議がなり,顕如は紀伊国鷺森に,教如も籠城半年で同じく雑賀(さいか)に退いた。91年,顕如は豊臣秀吉から京都堀川七条の地を得て本願寺(西本願寺)を再興。その没後12世をつぐが,93年(文禄2)秀吉の命で弟准如に譲る。1602年(慶長7)徳川家康から京都烏丸六条に寺地を得て東本願寺をおこした。
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…本願寺派の津村別院を北御堂(きたのみどう)と称するのに対して,南御堂(みなみのみどう)ともいう。1594年(文禄3)本願寺教如は本願寺住持職を弟准如に譲って隠退,翌95年に摂津国西成郡渡辺の石山本願寺の旧地に寺を営み,大谷本願寺または大坂本願寺と号したのが起源である。1598年(慶長3)現在地に移り,1603年堂舎を完成,これを難波御堂と称した。…
…その後83年和泉国貝塚,85年大坂天満(てんま)を経て91年豊臣秀吉の命により京都七条堀川に寺を移した(西本願寺)。1592年顕如の没後,長男教如が継職したが,故あって翌年弟准如に譲り隠退した。1602年(慶長7)教如は徳川家康から寺地を七条烏丸に得て寺を造建(東本願寺)。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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