文庫(書庫)(読み)ぶんこ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「文庫(書庫)」の意味・わかりやすい解説

文庫(書庫)
ぶんこ

文庫は歴史的にみると、文献、文書、記録類を保存し、情報を管理・保管する機能をもち、ときには図書館、学校の役割を果たすことがあった。

 日本最古の文庫は有名な石上宅嗣(いそのかみやかつぐ)の芸亭(うんてい)である。宅嗣は奈良時代の人で、私邸を阿閦寺(あしゅくじ)とし、その一角に芸亭を置き、好学の徒に公開したという。これは私的な文庫であるが、律令(りつりょう)制下では、朝廷太政官(だいじょうかん)正庁に文殿(ふどの)、外記(げき)庁に外記文殿、民部省に文庫など公的文庫が設けられ、公文書、公式の記録が保管され、政務のため使用された。院政期に入ると、荘園(しょうえん)整理のための新たな機関として記録所が設置されるが、その機関の性格からここには膨大な文書等が集積されたと考えられる。また院政のために院の御所にも文殿が設置された。鎌倉期にはこれらの記録所、文殿は裁判機関となる。

 一方、芸亭のような私的な文庫は律令制下から数多く存在したと思われるが、平安中期以降、律令制が解体し、国家の情報管理のシステムが崩壊し始めると、貴族・官人たちの家が公権を分掌し、私の文庫の機能が重要となった。貴族・官人たちはさまざまな文献を集め、先祖や他人の日記、家領(けりょう)の荘園関係文書を文庫に保管した。家長は文庫を管理し、その情報がその家の家運を左右したといっても過言ではない。有名な文庫としては官務小槻(かんむおづき)家の文庫、日野資業(ひのすけなり)の法界寺文庫、大江(おおえ)氏の江家(ごうけ)文庫などがあり、近衛(このえ)家の陽明(ようめい)文庫、冷泉(れいぜい)家の時雨亭(しぐれてい)文庫などは今日にまで及んでいる。

 また、武家でも鎌倉の官僚層では文庫をもつ者がいた。たとえば、問注所(もんちゅうじょ)の執事(しつじ)を務めた三善康信(みよしやすのぶ)の名越(なごえ)文庫、北条氏の一門金沢(かねさわ)氏の金沢文庫が著名である。ことに後者の金沢文庫は図書館的な機能ももったといわれる。金沢氏滅亡後は、金沢氏の別荘の持仏堂から発展した称名(しょうみょう)寺が管理し、そこに所蔵されていた文献の多くが今日まで伝存し、散逸はしているが、その多くは、称名寺の境内に建てられた神奈川県立金沢文庫に収蔵されている。このほか、文庫という名称は使わないが、寺社も文献、文書を集めた。ことに中世の寺院では、東寺(とうじ)、高野山(こうやさん)のように御影堂(みえいどう)などの堂舎に寺家の荘園経営の重要文書、文献などが納められ、貸し出しなども担当の僧侶(そうりょ)の管理の下で行われる場合があった。

 近世に入ると、幕府や大名や朝廷はもちろんであるが、さまざまな人々が文庫をもつようになった。まず幕府のものとしては徳川家康のつくった紅葉山(もみじやま)文庫、大名のものとしては加賀前田家の尊経閣(そんけいかく)文庫、朝廷では東山(ひがしやま)御文庫などが有名であるが、そのほか伊勢内宮(いせないくう)の林崎(はやしざき)文庫、同外宮(げくう)の豊宮崎(とよみやざき)文庫、北野の天満宮(てんまんぐう)文庫なども忘れてはならない。しかしなんといってもこの時代は、民間の文庫が重要な役割をもった時代である。儒学、蘭学(らんがく)が民間の塾で講じられ、京都の伊藤東涯(とうがい)の古義堂(こぎどう)文庫のような文庫が多くみられた。また文庫とまではいかないまでも、僧侶、神官、医者、村役人のなかには好学の者がおり、私の文庫をもち寺子屋、塾などを開き、教育に従事する者が数多くいた。

 近代に入ると、教育の普及に伴い文庫は人々にさらに身近なものとなり、多様化した。個人的な文庫が増加したことはもちろんであるが、公共の文庫、すなわち図書館、文書館などがつくられ、知識、情報がより多くの人々にまで公開されるようになった。

[飯沼賢司]

『小野則秋著『日本文庫史』(1942・教育図書)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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