斎宮(伊勢神宮)(読み)さいくう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「斎宮(伊勢神宮)」の意味・わかりやすい解説

斎宮(伊勢神宮)
さいくう

伊勢(いせ)の神宮奉仕した皇女また女王のこと。正しくは伊勢大神宮斎王(いつきのみこ)という。斎宮は斎王の居所からつけられた名、内親王の場合には斎内親王(いつきのないしんのう)とも称した。その起源は崇神(すじん)天皇の御代、それまで天照大神(あまてらすおおみかみ)を天皇の宮殿内に、いわゆる同床共殿で祭祀(さいし)してきたことを畏(おそ)れ多いこととし、まず倭笠縫邑(やまとかさぬいのむら)に神殿を建て奉斎したとき、皇女豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に奉仕させられたことに始まり、以後、推古(すいこ)天皇より弘文(こうぶん)天皇の間はとだえたが、天武(てんむ)天皇のとき復興してその制度の大要を定め、後醍醐(ごだいご)天皇のときまで続けられた。その制度・任務などについては『延喜式(えんぎしき)』により詳しく知ることができるが、それによると、まず天皇は即位ののち、未婚の内親王より卜定(ぼくじょう)、もし内親王がないときは、世次により女王より卜定し、勅使にそのことを告げさせたあと、大祓(おおはらえ)をし、宮城内の便所(びんしょ)(雅楽寮や宮内省など)を卜(うらな)って初斎院(しょさいいん)として潔斎生活に入り、翌年8月河に臨んで禊祓(みそぎはらい)ののち、宮城外の野宮(ののみや)での1年間潔斎生活のあと、天皇に別れを告げ伊勢斎宮に入る。これを群行(ぐんこう)というが、途中、山城(やましろ)(京都府)・近江(おうみ)(滋賀県)の国境、近江の勢多(せた)川・甲賀川、伊勢の鈴鹿(すずか)川・下樋小川・多気(たけ)川において御禊(ぎょけい)が行われた。

 斎宮御所では規定に従って日夜厳重な潔斎生活をなし、年に三度、いわゆる三節祭(6、12月の月次祭(つきなみさい)、9月の神嘗祭(かんなめさい))に奉仕することとなっていた。その三節祭には斎宮御所を出て、途中離宮院に入り御禊ののち、宮川で修祓(しゅばつ)、まず豊受(とようけ)大神宮の祭儀に奉仕、ついで翌日皇大神宮の祭儀に奉仕することとされていた。この斎王の退下は、天皇譲位または崩御によるのが原則であるが、ときに母君の喪または病気によることもあった。また在任中伊勢で薨去(こうきょ)された場合もある。斎宮御所は13司が置かれ、官人以下約500人が奉仕していた。後醍醐天皇のとき、南北朝の争乱で群行もできず廃止されたが、のち幕末1863年(文久3)津藩主藤堂高猷(とうどうたかゆき)らがその復興を唱えたものの実現しなかった。

[鎌田純一]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android