新宿(区)(読み)しんじゅく

日本大百科全書(ニッポニカ) 「新宿(区)」の意味・わかりやすい解説

新宿(区)
しんじゅく

東京都区部のほぼ中央にある区。1947年(昭和22)牛込(うしごめ)、四谷(よつや)、淀橋(よどばし)の3区が合併し、旧淀橋区内の中心地、新宿の名をとって新宿区が成立した。武蔵野(むさしの)台地の一部である淀橋台地上にあるが、四谷、牛込の台地に比べてより古い時代に形成され、標高もすこし高い。南北方向にJR山手(やまのて)線・埼京線、東西方向にJR中央線・総武(そうぶ)線・中央本線が通り、東京地下鉄東西線・丸ノ内線・有楽町線・南北線・副都心線、都営地下鉄新宿線・大江戸線、都電荒川線の各線が通じる。また、小田急電鉄小田原線、京王電鉄京王線、西武鉄道新宿線が走る。新宿はこれら各線の交点としての位置にある。道路では首都高速道路4号新宿線・5号池袋線・中央環状線、国道20号線が区内を通る。

 江戸城外濠(そとぼり)の西側にあり、外濠に近い牛込神楽坂(かぐらざか)や市谷(いちがや)、四谷の地区は、武家屋敷町屋があり、人口もかなり密集していたが、西方へ行くにつれて郊外農村で、さびしい雑木林や田畑の地域であった。現在の四谷4丁目あたりに甲州街道筋(すじ)の四谷大木戸があり、夜は門が閉じられて通行が原則的に許されず、当時の江戸の町並みは、この大木戸までであった。新宿が宿場町となったのは名のように遅れて成立、高遠(たかとお)藩主内藤(ないとう)家の屋敷地(現、新宿御苑(ぎょえん))は広大なものであり、屋敷の一部を宿場町とした。明治維新後、一時荒廃するが、四谷や神楽坂は山手随一の繁華街として栄え、関東大震災後は、さらに西方へ住宅地が拡大した。長く水田地帯であった神田川(かんだがわ)右岸の低湿地は、工業地区となり、神田から移転してきた染物工場をはじめ、薬品包帯などの工場が立地するようになった。さらに印刷・製本業も発達、現在では機械、金属、化学、精密機械、情報関連産業などが加わっている。新宿は中央線沿線の住宅地化に伴い、ターミナルの繁華街として発展を遂げる。第二次世界大戦後、戸山町、百人町などに高層住宅が建ち、人口は増加するが、都心に接して事務管理機能の施設が増えるのに伴い、郊外への住宅移転が目だち、人口が1965年(昭和40)の41万を境に1980年34万、1995年約28万人と減少したが、その後は増加に転じている。なお、新宿駅の東側に比べ西側は、淀橋浄水場があって開発が遅れていたが、1965年(昭和40)の浄水場移転を契機として新宿副都心建設計画が進められ、超高層建築が林立、金融、保険など大企業のオフィスやホテルなどが立地する所となり、1991年(平成3)4月新都庁舎が完成、都庁が千代田区丸の内から移転してきた。新宿駅周辺には百貨店、大型小売店、飲食店、娯楽産業などが集中、都内有数の繁華街となっている。新宿の発展に比べ、神楽坂や四谷は近隣の繁華街に変じ、地位の低下が目だっている。

 新宿御苑は広大な国民公園で、大温室やフランス式庭園で知られる。その南東は明治神宮外苑で、国立競技場、明治神宮聖徳(せいとく)記念絵画館などがある。市谷の尾張(おわり)藩上屋敷跡は、陸軍士官学校、国際軍事裁判所を経て現在は陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地となっている。四谷駅北西の三栄町に新宿歴史博物館(区立、1989年開館)がある。戸山の学習院旧正門は国指定重要文化財。北西部の早稲田大学(わせだだいがく)は1882年(明治15)大隈重信(おおくましげのぶ)らが創設、そのほか、東京理科大学、東京女子医科大学、慶応義塾大学医学部附属病院などがある。面積18.22平方キロメートル、人口34万9385(2020)。

[沢田 清]

『『新修新宿区史』(1967・新宿区)』『『新宿区史』(1998・新宿区)』


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