新庄市(読み)シンジョウシ

デジタル大辞泉 「新庄市」の意味・読み・例文・類語

しんじょう‐し〔シンジヤウ‐〕【新庄市】

新庄

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日本歴史地名大系 「新庄市」の解説

新庄市
しんじようし

面積:二二四・一九平方キロ

四方を最上郡の七町村に囲まれ、北東端の神室かむろ(一三六五・二メートル)のわずか一部が秋田県雄勝おがち郡雄勝町に接する。東に奥羽山脈八森はちもり山や杢蔵もくぞう(杢葛山)がそびえ、新庄盆地はその麓の意味で葛麓かつろくの名で親しまれている。南から新田につた川・戸前とまえ川・指首野さすの川の合流した升形ますがた川と泉田いずみた川がいずれもほぼ南西流し、市域南西端を西流する最上川に注ぐ。JR奥羽本線が南北に通り、同陸羽東線・陸奥西線と新庄駅で交差し、これとほぼ並行して国道一三号・同四七号が通じる。古代前期は最上郡に属したが、仁和二年(八八六)これが最上・村山二郡に分けられ、現在の村山地方北部と新庄市を含む最上地方村山郡域となった。現在のように当地方が最上郡となるのは近世初めとみられる。市名のもととなった地名は、古くは新城の字があてられたが、寛文(一六六一―七三)頃から新庄の文字があてられるようになった。

〔原始・古代〕

新庄市街を囲むように、山麓の台地、標高一二〇―一三〇メートルの地点に、乱馬堂らんばどう山屋やまや横前よこまえ新堤しんつつみ南野みなみのなどの後期旧石器時代の遺跡が点々と分布する。石刃技法によるナイフ形石器が主で、かつて新庄盆地が湖であった頃の、湖畔に生活する狩猟民の痕跡をうかがうことができる。縄文時代晩期の遺物を多量に出土した市街地の宮内みやうち遺跡などのほかは、縄文時代以降平安時代の集落跡に大規模なものが少なく、平安時代の土器がまれにみられる程度で、水田稲作を中心とした生産性は、古代においてかなり低い地域であったとみられる。古墳の存在は確認されていない。「続日本紀」天平九年(七三七)三月一日条の「比羅保許山」(神室山のこととされる)の地名や、同書天平宝字三年(七五九)八月二六日条の「平戈」駅(現最上郡金山町有屋付近に比定される)設置の記事から考えて、古代の官道が現市域を通った可能性は十分考えられ、そのルートは市域東部山麓地帯と思われる。平安時代以降は市域南西部の最上川沿岸が主要な交通路となったと思われる。「三代実録」貞観一六年(八七四)五月一一日条に「出羽国矢向神」が従五位下を授けられており、「義経記」では、奥州平泉に向かって逃避行を続ける源義経主従は最上川をさかのぼり、「矢向の大明神を伏拝み奉り、会津の津に著き給ふ」とある。この矢向神・矢向大明神は、現本合海もとあいかいの最上川右岸にある矢向やむき神社に比定される。また「会津の津」は、同書の「三の口の関通り給ふ事」の条に「あいかはの津」とあり、本合海の河岸をさすといわれる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「新庄市」の意味・わかりやすい解説

新庄〔市〕
しんじょう

山形県北東部,新庄盆地の中心にある市。市域は南西部の最上川流域から北東の指首野 (さすの) 川の水源にあたる神室 (かむろ) 山 (1365m) 山頂まで広がり,秋田県に接している。 1949年市制。 55年萩野村,56年八向村を編入。戦国期に日野氏が新庄盆地のほぼ中心にある沼田城を居城とし,それが清水城に対し新城と呼ばれたことに地名は由来するといわれる。江戸時代には戸沢氏が沼田城を改築して新庄城を築き,その城下町として発展。現在は盆地内の商業,地方行政,教育の中心地。多雪地で雪害対策が進められている。郊外の昭和地区は水田地帯。米のほか野菜も産し,電気機器,製材,木材関係の工場が立地。最上公園 (城址) ,新庄藩主戸沢家墓所 (史跡) ,新庄温泉などがある。北東の神室山南西麓一帯は,栗駒国定公園に属する。 JR陸羽西線,陸羽東線と奥羽本線,国道 13号線と 47号線の交差点。面積 222.85km2。人口 3万4432(2020)。

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