新発田藩(読み)しばたはん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「新発田藩」の意味・わかりやすい解説

新発田藩
しばたはん

越後(えちご)国新発田新潟県新発田市)周辺を領有した藩。外様(とざま)。1598年(慶長3)上杉景勝(かげかつ)の会津移封により、堀秀治(ほりひではる)が春日山(かすがやま)城主として越後に赴任したのに伴い、その与力大名として溝口秀勝(みぞぐちひでかつ)が越後新発田6万石に封ぜられ、新発田藩の藩祖となった。外様大名で、秀勝以後、宣勝(のぶかつ)、宣直(のぶなお)、重雄(しげかつ)、重元(しげもと)、直治(なおはる)、直温(なおあつ)、直養(なおやす)、直侯(なおよし)、直諒(なおあき)、直溥(なおひろ)、直正(なおまさ)と12代、274年間溝口氏のみの支配が続き、1871年(明治4)廃藩置県を迎えた。

 1610年(慶長15)藩主宣勝は弟の善勝に1万石を分与し、領知は5万石に減じた。また、1628年(寛永5)藩主宣直は宣秋以下3弟に新田打出し分を与えた。幕末の1860年(万延1)高直しで10万石になった。藩政がもっとも充実したのは、4代重雄、5代重元の在位した元禄(げんろく)期(1688~1704)前後で、商業・交通制度も整備され、新田開発も進み、藩財政も充実した。6代直治以後、江戸麻布(あざぶ)新堀普請(ふしん)の手伝い(1699)、新発田町大火(1729)などの復旧工事で財政支出は増大し、藩制はしだいに動揺した。1730年(享保15)松ヶ崎地方の堀割による福島潟の排水工事拡大により耕地造成が進展したが、これは6代直治による藩政改革「享保(きょうほう)の治」の一環であった。また、8代直養の安永(あんえい)改革も有名。

 幕末期、藩主直諒以後は、海岸防備、佐渡警固、禁裏(きんり)警衛などで財政窮乏に拍車をかけた。戊辰(ぼしん)戦争では、米沢(よねざわ)・会津両藩の圧力で、初め奥羽越列藩同盟にくみしたが、その後領民が新政府を支持し、居之隊(きょしたい)、正気隊、北辰(ほくしん)隊などの農民隊を組織して官軍を支援したこともあり、新政府側についた。1871年(明治4)廃藩置県を迎え、新発田県を経て同年11月新潟県に編入された。

[中村義隆]

『『新発田市史』上下(1980~81・新発田市)』

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藩名・旧国名がわかる事典 「新発田藩」の解説

しばたはん【新発田藩】

江戸時代越後(えちご)国蒲原(かんばら)郡新発田(現、新潟県新発田市)に藩庁をおいた外様(とざま)藩。藩校は道学堂。1598年(慶長(けいちょう)3)、上杉景勝(かげかつ)が会津に移されたあと、堀秀治(ひではる)が越後の国主として春日山城(かすがやまじょう)に入った。その際、秀治の与力(よりき)大名として溝口秀勝(みぞぐちひでかつ)が加賀(かが)国大聖寺(だいしょうじ)から6万石で当地に入り立藩。以後溝口氏12代が明治維新まで続いた。石高は1610年の沢海(そうみ)藩1万石の分立で5万石となり、幕末1860年(万延(まんえん)1)の高直しで10万石となった。領域の大半を占める蒲原平野は低湿地帯だったが、代々干拓や治水に力を入れ、新田開発を進めた。とくに、1730年(享保(きょうほう)15)以後の福島潟干拓工事は有名。その結果、内高(実際の石高)は40万石ともいわれた。また藩主は代々学問を奨励し、城下町は繁栄した。幕末の戊辰(ぼしん)戦争では、初め奥羽越(おううえつ)列藩同盟に与したが、領民が新政府を支持したことから新政府側についた。1871年(明治4)の廃藩置県により、新発田県を経て新潟県に編入された。

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改訂新版 世界大百科事典 「新発田藩」の意味・わかりやすい解説

新発田藩 (しばたはん)

越後国(新潟県)蒲原郡新発田に居城した外様の中藩。1598年(慶長3)溝口秀勝が加賀国大聖寺城から移され,蒲原郡において6万石を与えられて成立した。以来12代,274年間,大名の交代なく維新を迎えた。知行高は1610年(慶長15)沢海(そうみ)藩1万石を分立して5万石に減少したが,1860年(万延1)高直しで10万石となった。領内に広大な低湿荒蕪地を有したので治水と新田開発を奨励,そのため幕末の草高(くさだか)は20万石あるいは40万石と称された。1730年(享保15)阿賀野川下流松ヶ崎掘割,34年岡方新江用水掘削,1730年以後代官見立,藩営,村請け等の方式で数万石を開発した福島潟干拓等の工事が有名。10代藩主直諒(なおあき)は1850年(嘉永3)《報国説》を著して尊王開国論を唱え,戊辰戦争の際は新政府軍に付き先導した。70年(明治3)の藩勢は高13万9102石,士族870軒,卒族1017軒,平民3万3282軒。
溝口氏
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百科事典マイペディア 「新発田藩」の意味・わかりやすい解説

新発田藩【しばたはん】

越後(えちご)国新発田に藩庁をおいた外様(とざま)藩。1598年溝口秀勝(ひでかつ)が入部して立藩。以来12代が在封。領知高約5万石〜10万石。10代藩主直諒(なおあき)は尊皇開国論を唱え,戊辰(ぼしん)戦争の際には新政府軍につき先導した。
→関連項目越後国

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「新発田藩」の意味・わかりやすい解説

新発田藩
しばたはん

江戸時代,越後国 (新潟県) 蒲原 (かんばら) 郡新発田地方を領有した藩。慶長3 (1598) 年に溝口秀勝が上杉氏の故地に6万石で入封したのに始る。同 15年宣勝 (のぶかつ) の代に善勝に沢海 (そうみ) 藩1万 2000石を分与。その後,万延1 (1860) 年直溥 (なおひろ) の代に 10万石に達したが,内高は 20万石といわれた。大政奉還後,奥羽越列藩同盟に参加しながらも終始その態度に一貫性を欠いた。その後新政府軍に加わった。外様,江戸城大広間詰。

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デジタル大辞泉プラス 「新発田藩」の解説

新発田藩

越後国、新発田(しばた)(現:新潟県新発田市)周辺を領有した外様藩。藩主は溝口氏。福島潟の干拓工事で知られる。

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世界大百科事典(旧版)内の新発田藩の言及

【越後国】より

…越後国知行高45万石。秀治は与力大名として村上頼勝(村上藩),溝口秀勝(新発田藩)を従えたが,いずれも豊臣取立て大名であった。秀治は同年1反360歩の中世的田制ながら太閤方式で領内総検地を行い,1600年には会津から侵入した上杉軍およびこれに呼応した越後一揆(上杉遺民一揆ともいう)を平定して,関ヶ原戦の前哨戦に徳川氏に忠勤を尽くした。…

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