日奥(読み)にちおう

精選版 日本国語大辞典 「日奥」の意味・読み・例文・類語

にちおう ニチアウ【日奥】

戦国期・江戸初期の僧。日蓮宗不受不施派の祖。号は仏性院・安国房。京都の人。妙覚寺日典に学ぶ。文祿四年(一五九五豊臣秀吉が催した千僧供養会出仕をめぐって宗門内部の受施派と対立して丹波に退き、さらに慶長四年(一五九九徳川家康大坂城における千僧会にも出席せず、対馬に流された。一三年後、許されて帰京ののち、妙覚寺に住して不受不施教義を宣揚した。著書に「宗義制法論」「守護正義論」など。永祿八~寛永七年(一五六五‐一六三〇

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デジタル大辞泉 「日奥」の意味・読み・例文・類語

にちおう〔ニチアウ〕【日奥】

[1565~1630]安土桃山・江戸初期の日蓮宗の僧。京都の人。不受不施派の祖。豊臣秀吉千僧供養に応じず、のち徳川家康によって対馬配流はいる。許されてのち妙覚寺に住した。

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改訂新版 世界大百科事典 「日奥」の意味・わかりやすい解説

日奥 (にちおう)
生没年:1565-1630(永禄8-寛永7)

日蓮宗不受不施派の派祖。京都町衆の子。10歳のとき,京都日蓮宗十六本山の一つ妙覚寺の住持日典のもとに入門。字は教英,はじめ安国房日甄(につせん),のち安国院また仏性院と号し,日奥と改名。日典のもとで熱心に行学に励み,師の譲りにより1592年(文禄1)妙覚寺住持になった。ときに日奥28歳,当時すでに洛陽の宗門内に不動の名声を築いていた兄弟子の教蔵日生,星陽日紹,老僧常光院日諦を越えての抜擢で,師の日典が日奥の才能と器量にいかに強い期待を寄せたかがわかる。強義折伏(ごうぎしやくぶく)と不受不施で鳴る妙覚寺門流の総帥となった日奥がその器量を問われたのは,1595年豊臣秀吉が方広寺大仏の千僧供養に京都日蓮宗の出仕を求めたときである。出仕すれば,その報謝として謗法(ほうぼう)(他宗)の信者である秀吉の供養施物を受納することとなり,当時宗内に広範に成立していた〈謗施不受,謗法不施〉の宗制に背くこととなる。不出仕ならば覇者秀吉の弾圧は必至である。京都日蓮宗は出仕に踏み切った受不施派と,出仕を拒否した日奥や本圀寺日禛(につしん)の不受不施派に分裂し,日奥は本山住持の地位名誉を捨て,宗義を守って丹波小泉(現,京都府)に蟄居した。だが1599年(慶長4)日奥は大坂城中で徳川家康の命により,千僧供養出仕の是非をめぐって受不施派の日乾(につけん),日紹らと対論し,公命違背の罪で家康により対馬に流された。流罪あしかけ13年,赦免されて帰洛,1616年(元和2)妙覚寺住持に復帰した。だがその後も,身延山に拠る日乾,日遠(にちおん)ら受不施派と,日奥を筆頭とする池上本門寺日樹(にちじゆ),中山法華経寺,平賀本土寺,碑文谷法華寺など不受不施派との対立はやまず,日蓮宗宗内は地方末寺や有力檀信徒を巻きこんで二分する形勢を示し,幕府の宗教行政上,無視できない政治問題に発展した。1630年(寛永7)幕府は身延日乾ら受不施派と池上日樹ら不受不施派の対論(身池(しんち)対論という)を江戸城中で行い,政治的裁定で不受不施派を敗論と決し,日樹らを信濃などへ,日奥を再度対馬に流した。だが日奥はこの裁決直前に入滅,これを〈死後の流罪〉という。この身池対論裁決を幕あけに,以後江戸幕府の不受不施禁教政策がしだいに強化されるが,日奥は著述多く近世不受不施理論の大成者として大きな役割を果たした。主著に《諫暁神明記》《宗義制法論》《禁断謗施論》《門流清濁決義集》《守護正義論》がある。
不受不施派
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「日奥」の意味・わかりやすい解説

日奥
にちおう
(1565―1630)

近世の日蓮(にちれん)宗の僧。不受不施(ふじゅふせ)派の祖。字(あざな)は教英(きょうえい)。仏性院(ぶっしょういん)、のちに安国院と号する。京都に生まれ、10歳のとき京都妙覚寺実成院日典につき出家、28歳で遺命により師法を嗣(つ)ぐ。1595年(文禄4)豊臣秀吉(とよとみひでよし)が先祖追福のため各宗の僧100人宛の出仕を招請した際、日蓮宗は他宗の施しを受けない宗規により、この招請に応ずるか否かについて会議の結果、大権力にあらがうことを避けようと一如院日重(にちじゅう)(1549―1623)らの意見で出仕に決まった。日奥ひとりこれに反対し、即日寺を出て丹波(たんば)(京都府)小泉に退き、日重らの行動を批判した。日重らは逆に公儀違背を名として訴え、家康の裁決により、日奥は敗れて対馬(つしま)に流された。このため日蓮宗門内に「受不施」「不受不施」の2派が生まれ、本来の不受不施は少数派に転落した。日奥は在島13年ののち、1612年(慶長17)に赦免され京都に還住、受・不両派は和睦(わぼく)し、1623年(元和9)不受不施も公許となった。のち両派はふたたび決裂、政治的権力も介入し、不受派を邪義として日奥を1630年(寛永7)4月2日、ふたたび対馬に配流した。しかし、日奥は同年2月10日66歳で死去したので、いわゆる死後の配流となった。

[相葉 伸 2017年9月19日]

『相葉伸著『不受不施派殉教の歴史』(1976・大蔵出版)』

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「日奥」の解説

日奥
にちおう

1565.6.8~1630.3.10

織豊期~江戸前期の日蓮宗の僧。不受不施(ふじゅふせ)派の中心的人物。字を教英,安国院・仏性院と号す。京都町衆の呉服商の子として生まれる。1574年(天正2)京都妙覚寺の日典(にってん)に師事。95年(文禄4)豊臣秀吉主催の方広寺大仏殿の供養会の出仕をめぐり,日重(にちじゅう)らの受不施派と対立。自説を主張して丹波国小泉に隠棲した。99年(慶長4)徳川家康による供養会に出席せず,対馬に配流。在島13年,1623年(元和9)不受不施を公許される。著書「宗義制法論」。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「日奥」の解説

日奥 にちおう

1565-1630 織豊-江戸時代前期の僧。
永禄(えいろく)8年6月8日生まれ。日蓮宗不受不施派の祖。京都妙覚寺の日典(にちでん)に師事し,文禄(ぶんろく)元年同寺19世をつぐ。豊臣秀吉の方広寺大仏殿千僧供養会(せんそうくようえ)への出仕問題では,不受不施を主張して妙覚寺をさる。慶長5年徳川家康により対馬(つしま)に流罪となった。寛永7年3月10日死去。66歳。京都出身。俗姓は辻。字(あざな)は教英。号は安国院,仏性院。著作に「守護正義論」「宗義制法論」など。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「日奥」の意味・わかりやすい解説

日奥
にちおう

[生]永禄8(1565).京都
[没]寛永7(1630)
安土桃山時代~江戸時代初期の日蓮宗の僧。不受不施派の祖。妙覚寺日典に師事し,妙覚寺で師の跡を継いだが,豊臣秀吉の千僧供養会 (1595) を拒絶し,妙覚寺を去った。文禄5 (96) 年の震災に際しては秀吉に書状を送った。また徳川家康の怒りを買って対馬に流され,13年間その地にとどまり,のち許されて妙覚寺に戻った。その書状などは『万代亀鏡録』に収められている。

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367日誕生日大事典 「日奥」の解説

日奥 (にちおう)

生年月日:1565年6月8日
安土桃山時代;江戸時代前期の日蓮宗の僧
1630年没

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世界大百科事典(旧版)内の日奥の言及

【不受不施派】より

…日蓮宗の一派。京都妙覚寺住持の日奥(にちおう)を派祖とし,江戸幕府に禁教されたので〈禁教不受不施〉の名で有名。不受とは寺や僧侶が謗法(ほうぼう)(他宗)からの布施供養を拒否すること。…

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