日本映画(読み)にほんえいが

改訂新版 世界大百科事典 「日本映画」の意味・わかりやすい解説

日本映画 (にほんえいが)

日本における映画の歴史は1896年に始まる。この年,エジソンのキネトスコープが輸入され,神戸の神港俱楽部で初公開された。のぞき眼鏡式のものとはいえ,これが日本最初の映画興行である。次いで翌97年,リュミエールシネマトグラフが大阪の南地演舞場で,エジソンのバイタスコープが大阪の新町演舞場で公開され,〈動く写真〉の人気はたちまち全国に広がった。この〈動く写真〉の到来はそれぞれの機械の発明からわずか2,3年後のことで,貿易業者たちが競って機械と上映作品を輸入した。明らかにそこには欧米文物への憧憬と新しい娯楽への好奇心がうかがえ,つまり映画は先進科学による見世物として人気を博したといえる。97年には日本人による映画製作が始められ,小西商店(写真器材輸入商)の浅野四郎と三越写真部の柴田常吉が,日本橋や浅草の風景,当時の人気スターといえる芸者の踊りなどを撮影し,作品は次々公開された。99年に広目屋(広告代理店)が東京の歌舞伎座で催した〈日本率先活動大写真〉はそれらの本格的興行で,映画巡業の創始者であり,また最初の人気弁士でもある駒田好洋が説明を行った(〈活弁〉の項目を参照)。

同じ99年,柴田常吉は広目屋の依頼で,強盗が刑事に捕らえられるという内容の《稲妻強盗》を俳優を使って撮るとともに,9世市川団十郎と5世尾上菊五郎の歌舞伎《紅葉狩》を歌舞伎座の依頼で撮影し,前者は日本最初の劇映画とされ,後者は現存する最古の日本映画となった。映画興行はこのころより盛んになり,初めは寄席や見世物小屋で行われたが,早くも1897年には浅草六区に,バラック建ての小屋ながら日本シネマトグラフ館という映画館がつくられ,やがて1903年,同じ浅草六区の電気館が最初の本格的映画館となった。

上映される作品は風景映画とでもいえるものがまず多く,内外の風景を実写しただけの映画を見ることが,〈動く写真〉によるいながらの観光として人気を呼んだ。《紅葉狩》につづく《二人道成寺》《鳰(にお)の浮巣》などの歌舞伎の実写,人気芸者の踊りや大相撲の実写がもてはやされたのも同じ理由であろう。もう一つ,大人気を博したものに戦争映画がある。最初,欧米の戦争記録映画が数多く輸入されていたが,1900年の清国の義和団の乱以降,日本人による戦争実写作品がつくられ,04年には日露戦争のさまざまな実写作品が各地で公開された。初期の映画は風景と戦争を二大テーマにして隆盛したといえる。08年には吉沢商店が東京目黒に日本最初の撮影所を建て,09年には日本最初の映画雑誌《活動写真界》が発行された。1909年7月31日付の《万朝報(よろずちようほう)》は〈活動写真の全盛〉と題する記事で,〈近来活動写真の流行は殆んど極点に達して居る。昨日まで出来た常設館の数は東京市内だけでも七十ヶ所以上に出で,興行資金に数十万円を運転してゐるとの事だ〉と書き,8月9日付の続稿では〈恁くも盛に流行して居る活動写真の材料を差し替引き替供給してゐる〉のは〈全国で僅か三人〉だとして,横田商会の横田永之助(1872-1943),Mパテー商会の梅屋庄吉,吉沢商店の河浦謙一の名を挙げている。翌10年にはこれに福宝堂が加わって,4社による映画の輸入・製作・配給がいよいよ盛んになった。各社とも撮影所をもったため,風景や戦争や白瀬中尉の南極探検などの実写作品のほかに,劇映画が多くつくられるようになり,それらも歌舞伎劇や新派劇をほとんどそのまま実写したようなものではあったが,弁士の説明によるドラマ性の盛上げもあって,多大の観客を集め,そのなかから最初のスター尾上松之助を生み出すとともに,日本映画の主流は実写作品から劇映画へと移っていった。

1912年,吉沢商店,横田商会,Mパテー商会,福宝堂の4社が合併して,日本活動写真株式会社(日活)が誕生した。映画企業の本格化の始まりである。日活は京都と東京で映画製作を開始し,牧野省三が京都での中心となった。すでに1908年以来,横田商会のもとで劇映画づくりをつづけて,最初のスター尾上松之助を生み出した牧野省三は,日活成立後,日活京都撮影所のプロデューサー・監督として松之助映画をつくりつづけ,その人気たるや一世をふうびして,初期日活の地盤を固めた。田中純一郎著《日本映画発達史》によれば,日活は〈日本の興行マーケット(1917年6月,活動之世界社調査)339館の内,過半数の177館に松之助映画を上映〉したとのことで,松之助映画の人気の絶大さがうかがえる。牧野省三・尾上松之助コンビによる作品数は,横田商会時代を含めて約500本に達し,ほぼ1週1本の割合でつくられたことになる。松之助映画は歌舞伎や講談本に材をとった英雄,豪傑,俠客,忍術使いの活躍譚で,単純な筋立てのものであったが,牧野省三の演出がそれに映画的興趣を盛り込んだ。この間,11年,フランスの探偵活劇《ジゴマ》がブームとなり,12年ころには実演と映写を組み合わせた連鎖劇が流行し,15年以降,アメリカの連続活劇が大人気を博したが,牧野省三の映画づくりも,それらのもつ魅力のあり方と無縁ではなかったと思われる。牧野省三は20年,人気で高慢となった尾上松之助を牽制する意味もあって,松之助映画を日活京都の〈第1部〉とし,市川姉蔵を主役とする同工異曲の映画を〈第2部〉としてつくりはじめつつ,翌21年,日活から独立して,やがて時代劇革新の大きな担い手となる。プロデューサーおよび監督として,映画を実写から劇作品へと飛躍的に発展させ,科学的見世物の域から確固たる大衆娯楽の座へすえたことから見れば,牧野省三は,単に草創期の日活で大きな功績を果たしただけではなく,日本映画全体の礎を築いたといってよい。牧野省三がときに〈日本映画の父〉と呼ばれるのは,それゆえのことである。

日活は一方,東京の向島撮影所で,新派の舞台の映画化作品をつくった。それらの現代劇が〈新派〉と呼ばれたのに対し,松之助映画などの時代劇は〈旧劇〉と称される。向島の新派は,1914年の《カチューシャ》の大ヒットにより勢いを得て,ぞくぞく量産され,18年には《金色夜叉》《不如帰》《生ける屍》をヒットさせ,立花貞二郎,関根達発,山本嘉一,藤野秀夫,衣笠貞之助,東猛夫らを人気スターにした。

14年,日活につづく映画大企業として,天然色活動写真株式会社(天活)が生まれた。これは,日活成立後まもなく日活を脱退し,それぞれに映画製作を始めた旧福宝堂系の小林喜三郎と山川吉太郎が創立した会社で,沢村四郎五郎(1877-1932),市川莚十郎を主役に日活の松之助映画と同様の旧劇を量産するとともに,新派の連鎖劇に力を入れた。また,ごく初期だけのことながら,その社名にふさわしくカラー映画の製作を目ざし,日本最初のカラー劇映画の試作品《義経千本桜》(1914。吉野二郎監督)を生み出した。小林喜三郎は16年,天活を離れて小林商会を設立,井上正夫主演の《太尉の娘》など新派のヒット作をつくった。天活は,旧劇では成功したものの,新派では日活と小林商会に圧倒され,数年のうちに業績不振に陥った。そこへ出現したのが帰山教正(かえりやまのりまさ)(1893-1964)の〈純映画劇〉である。

天活の映写技師兼外国部員であった帰山教正は,陰ぜりふの廃止と字幕の使用,女形に代わる女優の採用,演出法の改革に基づく〈純映画劇〉運動を提唱,新劇の村田実,青山杉作らと映画芸術協会を組織して,天活首脳部を説得し,18年,《生の輝き》《深山(みやま)の乙女》をつくった。2作品は意欲にあふれたもので,最初の映画女優・花柳はるみを生み出したが,商品性に乏しいという理由から翌年秋になってようやく公開され,革新性は認められつつも,外国映画の模倣の濃い試作にすぎないと受け止められて,興行的にも失敗した。映画芸術協会は,このあと,数本を製作して解散することになる。また,天活自体も,業績不振から立ち直れず,20年創立の国際活映株式会社(国活)に吸収された。国活は沢村四郎五郎の旧劇や井上正夫の新派で一時期好調であったが,23年には日活と合併し,翌24年,合併解除ののち解散した。

 帰山教正の〈純映画劇〉運動は,それ自体としては失敗しつつも,さまざまな刺激を各方面に与え,〈活動写真〉が〈映画〉に生まれ変わっていく大きな契機となった。保守的な映画づくりで安泰に生きのびてきた日活にも,その影響は現れた。たとえば,1920年に日活が女優採用に踏みきったことである。また,先に新派《生ける屍》で新鮮な映画手法を見せた田中栄三が,22年,東京下町の老舗の没落を描いた《京屋襟店(えりみせ)》によって,日本人の生活と欲望をなまなましく表現した画期的な映画作品を出現させ,その姿勢を翌年の《髑髏(どくろ)の舞》でも貫いた。前者はまだ女形を使っているが,日本でほとんど最後の女形映画といわれ,後者にはやがてスター女優となる岡田嘉子,夏川静江(のち静枝)が出演している。こうして日活は,〈活動写真〉の時代から〈映画〉の時代へ入っていく。

〈活動写真〉が〈映画〉に生まれ変わっていくに際し,大きな役割を果たした人物の一人に,〈新劇の父〉小山内(おさない)薫がいる。1920年,松竹が演劇界から映画界への進出を目ざして松竹キネマ合名社(のち株式会社)を設立したとき,小山内薫は理事として招かれるとともに松竹キネマ俳優学校の校長に就任,東京蒲田の撮影所が開設されるや,総監督を任ぜられた。だが,小山内薫の映画改革志向はたちまち松竹内部の商業主義派と対立し,小山内薫は新設の松竹キネマ研究所を任されて,独自に映画づくりを始めることになった。俳優学校から研究所へかけて,小山内薫のもとには,監督の村田実,牛原虚彦(きよひこ),島津保次郎,脚本・監督の伊藤大輔,脚本の北村小松,俳優の鈴木伝明(当時は東郷是也),沢村春子,南光明,英(はなぶさ)百合子などが集まった。こうした人材によってつくられたのが,松竹キネマ研究所の第1回作品《路上の霊魂》(1921)である。小山内薫総指揮・牛原虚彦脚本・村田実監督によるこの映画は,シュミットボンの《巷の子》とゴーリキーの《どん底》に取材したもので,対立する父と子やどん底の人々を並行的に描く手法,寛容と不寛容という主題において,明らかにD.W.グリフィスの《イントレランス》(1916)の影響が見られ,日本映画としては画期的なものであったが,翻訳劇臭の強さなどが目だって,実験的試みの域を出ず,興行的にも不振に終わった。松竹キネマ研究所は,つづいて牛原虚彦の《山暮るゝ》と村田実の《君よ知らずや》をつくったのち,21年夏に閉鎖された。小山内薫による映画革新の動きは実に短期間のものであったが,映画界に刺激をもたらし,次代の日本映画を担う人材を育てたことで大きな意義をもつ。

 これとは別に松竹は,1920年の《島の女(むすめ)》(木村錦花監督)を皮切りに商業主義による映画製作にとりかかった。この松竹第1回作品の撮影をしたのが,ハリウッド帰りのカメラマン・ヘンリー小谷で,蒲田撮影所のスタッフにアメリカの撮影技術を伝授し,みずから監督もした《虞美人草》(1921)はヒットして,主演の栗島すみ子を最初のスター女優にした。《虞美人草》は内容的には旧来の新派となんら変わらなかったが,松竹はこの路線の映画を量産するに至り,ヘンリー小谷は早くも21年に松竹を離れた。

新劇の小山内薫とともに,文壇の若き鬼才・谷崎潤一郎が,当時の映画革新の動きに大きな役割を果たした。松竹キネマ設立と前後して,1920年,大正活映株式会社(大活)が浅野財閥の浅野良三によって創立され,アメリカ映画の輸入を手がけるとともに,近代的感覚による映画の製作を始めた。そのとき文芸顧問として迎えられたのが,映画に深い関心をもっていた谷崎潤一郎である。大活ではもう一人,松竹同様,ハリウッド帰りの俳優・トーマス栗原(1885-1926)を監督として迎え,谷崎潤一郎原作脚色・トーマス栗原監督《アマチュア俱楽部》(1920)を第1回作品として世に出した。この映画は従来の新派とは大きく違った近代的な明朗コメディで,水着1枚の女優(葉山三千子)が夏の海辺をはねまわり,クローズアップやカットバックなどの手法を駆使した斬新なものであったが,当時の観客には受けなかった。谷崎・栗原コンビは,一転して日本的な題材に取り組み,泉鏡花原作の《葛飾砂子》(1920)や上田秋成原作の《蛇性の淫》(1921)をつくった。しかし,ともに意欲的な作品ながら,近代的な演出と内容とがうまくかみ合わず,失敗に終わった。大活はこの間,ほかに数本の短編をつくっただけで,《蛇性の淫》を最後に製作を中止し,22年には松竹に合併吸収された。こうして大活は短命に終わったが,谷崎潤一郎のもとでの新しい映画づくりのいぶき,トーマス栗原のもたらしたアメリカ式演出法,そしてそこから次代の監督,内田吐夢,二川文太郎,井上金太郎,俳優の岡田時彦(当時は高橋英一)らが育っていったことによって,日本映画史に大きな足跡をしるした。

吉沢商店が東京目黒行人坂に日本最初の撮影所を建てた(1908)のにつづいて,Mパテー商会が東京大久保百人町に(1909),福宝堂が東京日暮里花見寺に(1910),横田商会が京都二条城西南櫓下に(1910),次々撮影所を建設した。以後,映画の隆盛に伴ってさらに多くの撮影所が生まれ,〈夢の工場〉と呼ばれるとともに,時代の推移と製作会社の転変に応じて興亡を繰り広げていく。撮影所の興亡史はそのまま日本映画の歴史といっていいだろう。

 1912年,上記の4社が合併して,日活(日本活動写真株式会社)が誕生したことは既に述べたが,その直前に横田商会は京都法華堂に撮影所を移していたので,日活は,その法華堂撮影所と旧吉沢商店の目黒撮影所とで映画製作にとりかかった。その後,東京向島に新スタジオを建てて目黒を閉鎖(1913),また京都でも法華堂から大将軍の新スタジオに移って(1916),以後,向島・大将軍の時代がつづいたが,関東大震災後,向島撮影所が閉鎖された(1923)。やがて大将軍撮影所が京都太秦(うずまさ)多藪町の新スタジオへと移転し(1929),東京調布の元日本映画株式会社の多摩川撮影所を買収(1934),日活は太秦・多摩川の時代に入った。しかし,42年,戦時下の映画新体制による統制によって,日活は大映(大日本映画製作株式会社)へと統合され,太秦撮影所,多摩川撮影所ともに大映撮影所となった。

 1914年創立の天活(天然色活動写真株式会社)は,東京日暮里元金杉と大阪鶴橋小橋の両撮影所で映画製作を始めた。日暮里撮影所は日活脱退組による常盤商会が建て(1912),それと提携した東洋商会が使っていたもので,鶴橋小橋撮影所は東洋商会の建てたものである。やがて大阪の撮影所は小坂の新スタジオに移り(1916),東京の撮影所も,日暮里撮影所が全焼したので,巣鴨庚申塚の新スタジオへ移転した(1919)。しかし,20年,天活は国活(国際活映株式会社)に買収された。国活は巣鴨撮影所と東京角筈十二社に建てた新スタジオとで映画製作を開始したが,まもなく角筈撮影所を閉鎖(1921),25年に解散した。この間,元天活の小坂撮影所は帝国キネマにひきつがれ(1920),天活から国活へと移った巣鴨撮影所はやがて河合映画社に買収された(1928)。

 20年には三つの映画会社が誕生した。松竹キネマ,大活,帝キネである。このうち大活(大正活映株式会社)の映画製作は,横浜山下町に建てた撮影所で始められたが,21年に終わった。

松竹(1920年創立の松竹キネマは37年に松竹株式会社に統合される)は,東京蒲田に建てた撮影所で映画製作を開始し,〈蒲田調〉の名をもたらした。一方,京都下加茂にも新スタジオを建設(1923),この下加茂撮影所はいったん閉鎖された(1925)が,阪東妻三郎プロダクション(阪妻プロ)や衣笠貞之助の衣笠映画聯盟が松竹との提携作品をつくるために使ったのち,ふたたび松竹時代劇製作の拠点となり,松竹は蒲田・下加茂の時代へ入った。やがて神奈川県大船に新スタジオが生まれるとともに,蒲田撮影所は閉鎖され(1936),〈蒲田調〉は〈大船調〉へとひきつがれた。また,京都太秦の元マキノ・トーキー撮影所を買収し(1940),松竹の京都第二撮影所とした。

帝キネ(帝国キネマ演芸株式会社)は,元天活の小坂撮影所で映画製作にとりかかったあと,兵庫県芦屋に新スタジオを建て(1923),関東大震災の際には,東京における各社の映画製作がとだえたのを機に,小坂・芦屋の両撮影所で低予算の娯楽映画の大量生産を行い,また一時,元国活の巣鴨撮影所も使った。1925年には争議によって帝キネは四分五裂状態になり,脱退組による東邦映画製作所が小坂撮影所で,同じくアシヤ映画製作所が芦屋撮影所で,それぞれ映画製作を始めたが,やがて事態はおさまり,帝キネは大阪長瀬に新スタジオを建てるに至った。しかし,資金難から松竹傘下に入り(1929),長瀬撮影所の全焼(1930)によって,帝キネの映画製作は元阪妻プロの太秦撮影所へ移った。31年,帝キネは経営不振のため,松竹の資本を得て,新興キネマ株式会社に生まれ変わり,以後,日活,松竹につぐ大会社となっていった。新興キネマは京都太秦のほか,東京大泉に新スタジオを建設した(1935)。そして42年,日活と同様,大映へ統合され,太秦撮影所,大泉撮影所ともに大映撮影所となった。

1921年,日活京都撮影所長の牧野省三が独立して,京都等持院にスタジオを建設,映画製作を始めた。会社は牧野教育映画製作所からマキノ映画製作所へ,さらにマキノキネマへと変わったが,24年,東亜キネマに買収合併された。東亜キネマは1923年,兵庫県甲陽の甲陽キネマ撮影所を買収して設立された会社で,甲陽と等持院で映画製作を行ったが,経営不振に陥って甲陽撮影所を閉鎖(1927),同撮影所は貸しスタジオになった。そして31年,東亜キネマは東活映画社となって等持院で映画製作をつづけたものの,32年に解散,等持院撮影所は消滅した。この間,牧野省三は1925年,根岸寛一,直木三十五らの設立した聯合映画芸術家協会に参加したのを機に,東亜キネマから独立,京都御室天授ヶ丘に新スタジオを建ててマキノプロダクションを興し,ふたたび映画製作に乗り出して,やがて名古屋道徳の東海撮影所をマキノ中部撮影所とするに至った(1927)。だが,牧野省三の死(1929)以後,マキノ映画の勢いは衰え,32年,御室撮影所が全焼,その跡地に建てられたバラックに新会社・正映マキノが生まれたが,数ヵ月で解散し,御室撮影所はその後,東活映画社の後身・宝塚キネマに使われたのち,34年に崩壊した。やがて35年,マキノ映画製作所が設立され,京都太秦に新スタジオを建設,36年,甲陽映画と合併してマキノ・トーキーとなったが,37年に解散した。太秦撮影所はその後,今井映画に使用され,40年,松竹に買収された。

このほか,1920年代後半から30年代にかけては,数多くの映画会社が各地の撮影所を舞台に興亡を繰り広げた。

 1925年,高松プロダクションが東京吾嬬町に撮影所を建てて映画製作を始めたが,27年に解散,撮影所は貸しスタジオになった。

 同じ1925年に設立された阪東妻三郎プロダクションは,高松吾嬬撮影所で映画製作にとりかかったのち京都太秦蜂ヶ岡に新スタジオを建設した(1926)が,やがて松竹傘下に入り,30年,阪妻プロが去って,撮影所は帝キネが使用した。阪妻プロは新たに千葉県谷津海岸に新スタジオを建てた(1931)が,35年に解散し,撮影所は一時,新興キネマに使用された。

 1927年には高木新平プロダクションが設立され,京都吉田山下に新スタジオを建てたが,まもなく解散した。

 同じ1927年,市川右太衛門プロダクションが設立され,奈良あやめ池遊園地に撮影所を建設,映画製作を始めたが,36年に解散した。撮影所は全勝キネマによって使用されたが,やがて全勝キネマは松竹傘下に入り,興亜映画となった(1941)のち,松竹に合体吸収された。

 1928年には,河合映画が東京三河島町屋の撮影所で映画製作を始めるとともに,元国活の巣鴨撮影所を買収した。やがて33年,河合映画を買収して大都映画社が創立されたが,42年,大都は日活・新興キネマとともに大映へ統合され,巣鴨撮影所は閉鎖された。

 同じく1928年に設立された片岡千恵蔵プロダクションは,京都双ヶ丘の貸しスタジオで映画製作にとりかかったのち京都嵯峨野に新スタジオを建てた(1929)が,35年に解散した。

 さらに1931年,月形龍之介プロダクションが奈良生駒山ろくに新スタジオを建設したが,32年に解散,撮影所は富国映画社が使用したが,同社もまもなく解散した。

 1934年には第一映画社が創立され,京都嵯峨野の千恵プロ撮影所で映画製作を開始したあと,同撮影所の隣に新スタジオを建てた(1935)が,36年に解散し,新設の撮影所は貸しスタジオになり,やがて壊された。

 1935年には,極東映画が元東亜キネマの甲陽撮影所で映画製作を始め,大阪古市に白鳥撮影所を設立した(1936)のち,37年,極東キネマとして新発足したが,40年,大宝映画に買収され,同社は41年に映画製作を中止するに至った。

1930年代には,やがて日活,松竹と並ぶ大会社になる東宝が生まれた。東宝成立は日本のトーキー映画の歩みとともにある。31年,東京砧(きぬた)に設立された写真化学研究所Photo Chemical Laboratory(略称PCL)は,国産トーキー社という別会社をつくってトーキー・スタジオを建設,32年,株式会社となって,同じ砧に新スタジオを建て,トーキー施設提供を始め,33年には別会社のPCL映画製作所で映画製作にもとりかかった。一方,1932年に設立されたJOスタジオが,京都太秦蟲の社にトーキー・スタジオを開設,別会社の太秦発声で映画製作を始めた。36年,PCLとJOスタジオの提携によって東宝映画配給が設立され,37年,3社が合併して東宝映画株式会社となり,PCLとJOスタジオの撮影所は東宝の東京撮影所と京都撮影所となった。やがて京都撮影所は,映画会社統合の動きのなかで閉鎖された(1941)。この間,1935年に設立された東京発声映画製作所が,東京世田谷に新スタジオを建て,41年,東宝の傘下に入った。

こうして第2次世界大戦中の統合(1942)によって,映画会社は松竹,東宝,大映となり,戦後の日本映画の歩みは3社の撮影所において始まった。すなわち,松竹の大船および下加茂・太秦,東宝の砧,大映の多摩川(元日活)・大泉(元新興)および太秦(元日活と元新興)の各撮影所である。

 このうち大映(1945年に大日本映画製作株式会社から大映株式会社に社名変更)の大泉撮影所は,戦時中に軍需工場に売却され,敗戦とともに閉鎖されていたが,1947年,貸しスタジオの太泉スタジオとなり,やがて太泉映画となって映画製作に乗り出した。大映は東京多摩川と京都太秦の東西撮影所で映画製作をつづけ,戦後映画史に大きな足跡を残したが,71年倒産し,東西撮影所は組合員管理下に置かれ,74年に会社が大映映画として再出発したのち,77年の合理化によって両撮影所は分離独立した。

 1947年,東横映画(1938創立)が京都太秦の大映京都第二撮影所(元新興)を使って映画製作に乗り出し,49年,東横映画,太泉映画の2社の作品を配給する東京映画配給株式会社(東映)が生まれ,この3社が合併して,51年に東映株式会社が発足した。以後,東映は太秦の京都撮影所と大泉の東京撮影所を両輪として,松竹,東宝,大映と並ぶ大会社に発展していく。また,57年には東京撮影所の隣に動画専用スタジオを建設した。

 東宝では1946年から48年にかけて労働争議の嵐が吹き荒れ,砧の撮影所は製作中止と再開を繰り返した。その間,47年,新東宝映画製作所が分裂,誕生し,世田谷成城の東宝第二撮影所と第三撮影所(元東京発声)で映画製作を始め,48年,株式会社新東宝となって,両撮影所を東宝から譲渡され,東宝,松竹,大映,東映と並ぶ大会社として映画製作をつづけたが61年に倒産した。新東宝の撮影所は国際放映となり,テレビ映画の製作に乗り出した。東宝はこの間,兵庫県宝塚にスタジオをもつ宝塚映画(1951),東京目黒上大崎にスタジオをもつ東京映画(1952)を傍系会社としてつくった。その後,東京映画は世田谷船橋の連合映画スタジオに移転(1961),目黒撮影所にはやはり東宝系の日映新社が入った。

 松竹の京都撮影所は下加茂と太秦の2ヵ所にあったが,下加茂撮影所は1952年,傍系の京都映画に譲渡されて,松竹優先の貸しスタジオとなり,また,多くの松竹時代劇を生み出した太秦撮影所は65年に閉鎖され,松竹の撮影所は大船だけとなった。

 日活は,戦時中に製作部門が大映に統合され,興行会社としてのみ存続していたが,1954年,東京調布の新設した撮影所を拠点に映画製作を再開した。これによって,1950年代後半,大手の映画会社は6社となり,戦後日本映画は黄金期に入っていった。

しかし,その後,新東宝の倒産(1961),大映の倒産(1971),日活の一時製作中止と〈ロマン・ポルノ〉路線への転向(1971)と,日本映画の衰微の勢いは深まって,撮影所は危機に陥った。そこでとられたのが広大な撮影所の切売りで,東映の京都撮影所の一部は観光施設・太秦映画村に(1975),松竹の大船撮影所の一部はショッピング・センターに(1976),日活の調布撮影所の一部はマンションに(1977)なった。いまではだれも撮影所を〈夢の工場〉とは呼ばない。

〈活動写真〉が〈映画〉へと変わった1920年代において,日本映画は三つの大きな渦を中心に動いていった。一つは時代劇で,迫真的なチャンバラで観客を魅了するとともに,映画としての表現を多様かつ高度に繰り広げた。あと二つは,〈蒲田調〉と呼ばれる作風の松竹映画と,これに対して〈日活調〉と呼ぶことのできる日活映画であり,ともに現代劇が中心になっている。

 松竹の蒲田撮影所からは,《虞美人草》(1921)で人気スターになった栗島すみ子につづいて,川田芳子,五月信子らの人気女優が続出し,日本映画における〈スター・システム〉誕生の転機となったことで知られる栗島・川田・五月共演の《母》(1923。野村芳亭監督)を一つの頂点とするメロドラマが多くつくられた。それらは従来の新派とあまり変わらなかったが,観客に受けて,その延長で流行歌《枯すすき》をとり入れた(無声映画だったので,歌詞が字幕に出て,弁士あるいは歌手が歌ったといわれる)岩田祐吉・栗島すみ子主演《船頭小唄》(1923。池田義信監督)がつくられて大ヒットし,〈小唄映画〉が各社で量産されることとなり,なかでも帝キネの《籠の鳥》(1924。松本英一監督)は大当りして,主演の沢蘭子を人気スターにした。やがて蒲田撮影所が関東大震災で一時閉鎖ののち,1924年に再開されるや,撮影所長が野村芳亭(ほうてい)(1880-1934)から城戸(きど)四郎に変わり,城戸四郎は新派的なものを排し,明朗で健康なユーモアと笑いに満ちた近代的感覚の映画づくりを目ざすとともに,母性愛を主とした女性映画の製作を推進した。これが〈蒲田調〉の始まりであり,小市民映画の先駆といえる島津保次郎《日曜日》(1924),田園風景のなかに人生の哀歓を情緒豊かにつづった五所平之助《からくり娘》《村の花嫁》(ともに1927),スポーツ俳優・鈴木伝明を主演に快活な青春を描いた牛原虚彦《陸の王者》《彼と東京》《彼と田園》(ともに1928),近代人の情感をユーモラスに描いた小津安二郎《大学は出たけれど》(1929),《東京の合唱》(1931),《生れてはみたけれど》(1932)などがつくられた。とくに小津安二郎の作品は小市民の平凡な日常生活を描いて〈小市民映画〉の名を生んだが,リアリズムで近代人の病める精神を見つめる点で,30年前後に現れた〈傾向映画〉の一群(〈プロレタリア映画〉の項目を参照)と表裏の関係にあるといえる。

 これに対し,日活の向島撮影所では,田中栄三の映画革新のあと,自然主義リアリズムによる鈴木謙作《人間苦》(1923)や溝口健二《霧の港》(1923)がつくられたが,関東大震災後,向島撮影所は閉鎖された。日活の映画づくりの舞台は京都大将軍へと移って,村田実(1894-1937)が抒情と心理的リアリズムに満ちた浦辺粂子主演《清作の妻》《お澄と母》(ともに1924)や岡田嘉子主演《街の手品師》(1925)で一段と名を高め,阿部豊が岡田時彦主演《足にさはった女》(1926),《彼をめぐる五人の女》(1927)でハリウッド仕込みのモダンな作風を示した。また,溝口健二が下町情緒にあふれた《紙人形春の囁き》《狂恋の女師匠》(ともに1926)から《日本橋》(1929),《滝の白糸》(1933)へと独自の作風を深める一方,内田吐夢が軽快な喜劇や浅岡信夫・広瀬恒美主演の活劇をつくるとともに,《生ける人形》(1929)で傾向映画の口火を切り,同じ精神で風刺時代劇《仇討選手》(1931)をつくった。当時,松竹の城戸四郎に対して,日活では根岸寛一が大プロデューサーとして映画づくりの中心となった。

 〈蒲田調〉〈日活調〉は近代的感覚にあふれることにおいては共通しているが,前者が女性的,後者が男性的という点で大きく異なる。また,東京でつくられた〈蒲田調〉と京都でつくられた〈日活調〉を比較して,筈見恒夫はその著《映画五十年史》で,〈概して,日活現代映画に現はれた東京風俗がロマンチシズムに満たされ,蒲田映画の東京風俗がリアリスティックなのは,遠くから望むものが美化される心理であらう〉と述べ,日活出身の監督たちを〈理想派〉,松竹の監督たちを〈現実派〉と呼んでいる。

映画の興隆のなかで人気スターとなった俳優は,独立してみずからの主宰する会社を興し,独自の映画づくりを始めるに至った。いわゆるスター・プロダクション(スター・プロ)である。その最初は1925年設立の阪東妻三郎プロダクションで,以後,主として時代劇スターによるスター・プロが続出し,サイレント末期の時代劇隆盛を担った。女優でみずからのプロダクションを興した最初は五月(さつき)信子(1894-1959)であるが,演劇活動を主とするもので,女優による(しかも現代劇の)スター・プロは入江たか子のそれが初めである。以下に,スター・プロを興した俳優名(プロ設立と解散の年,専用に建てた撮影所がある場合はその場所)を列記する。

(1)阪東妻三郎(1925-36。京都太秦蜂ヶ岡,千葉県谷津海岸)

(2)五月信子(1925-45)

(3)実川延松(えんしよう)(1925-?)

(4)勝見庸太郎(1926-31)

(5)片岡松燕(1926-27)

(6)市川右太衛門(1927-36。奈良あやめ池)

(7)高木新平(1927-27。京都吉田山下)

(8)諸口十九(つづや)(1927-27。神奈川県新子安)

(9)森野五郎(1927-27)

(10)市川市丸(1927-27)

(11)片岡千恵蔵(1928-37。京都嵯峨野)

(12)市川小文治(1928-28)

(13)中根龍太郎(1928-28)

(14)嵐寛寿郎(第1次寛プロ1928-28。第2次寛プロ1931-37)

(15)山口俊雄(1928-28)

(16)月形龍之介(1928-29/1931-32。奈良生駒山ろく)

(17)谷崎十郎(1928-28)

(18)山本礼三郎(1928-28)

(19)市川百々之助(もものすけ)(1930-30)

(20)沢村宗之助(1932-33)

(21)入江たか子(1932-37。京都双ヶ丘)

(22)高田稔(1934-36)

 以上が戦前のスター・プロで,寿命の長短ははなはだしいが,日本映画の大きな側面を担い,なかでも片岡千恵蔵プロダクションは稲垣浩,伊丹万作,山中貞雄ら俊才の作品を数多く世に出して,一時代を画した。戦後にもスター・プロは生まれたが,戦前ほどの勢いはなく,そのことは三船プロを除けば自前の撮影所をもたないことに現れている。戦後のスター・プロには次のようなものがある。

(1)長谷川一夫(1948-52)

(2)鶴田浩二(1952-53)

(3)山村聡(1952-65)

(4)岸恵子,久我美子,有馬稲子の〈にんじんくらぶ〉(1954-66)

(5)三船敏郎(1962- 。東京世田谷成城)

(6)石原裕次郎(1963- )

(7)三国連太郎(1963-65)

(8)勝新太郎(1967-81)

(9)中村錦之助(のち萬屋錦之介)(1968-82)

日本映画は1920年代後半,量産時代に入り,年間650本ほどの作品がつくられるようになった。まだサイレントの時代であり,全盛期には7000人の弁士がいたという。すでに〈旧劇〉〈新派〉という呼称はなく,〈時代劇〉〈現代劇〉という言い方が一般化していた。量的には時代劇が圧倒的に多く,ロケ撮影に適した風景や古い建物のある京都でつくられたが,〈剣戟王〉阪東妻三郎がみずからのプロダクションの撮影所を太秦に建設(1926)して以来,京都のなかでも太秦が時代劇映画のメッカとなった。田中純一郎著《日本映画発達史》は,30年,帝キネのスタッフが全焼した大阪長瀬の撮影所から太秦の元阪妻プロ撮影所へ移ったことを記したあと,〈嵯峨野の一寒村であった太秦は,これにより日本随一のスタジオ街となった。日活の九百人,東亜の五百人,マキノの四百人,千恵蔵プロの百人,それに帝キネの六百人,併せて二千五百人のスタジオマンが,この太秦へ集まったわけである〉と述べている。こうしたなかで,30年前後,伊藤大輔の《忠次旅日記》三部作(1927-28),《斬人斬馬剣》(1929),マキノ正博(のち雅弘,雅裕)の《浪人街》三部作(1928-29),《首の座》(1929),稲垣浩の《瞼の母》(1931),伊丹万作の《国士無双》(1932),山中貞雄の《盤嶽の一生》(1933)など,サイレント映画の頂点をなす時代劇が生まれた。

この間,トーキー技術がさまざまに開発され,国産のミナ・トーキーによる溝口健二の《ふるさと》(1930。日活)につづいて,1931年,国産の土橋式トーキーによる五所平之助の《マダムと女房》が本格的なトーキー第1作として松竹でつくられた。ここで日本映画は新しい段階に入り,現代劇においてめざましい達成がとげられるに至った。小市民映画と女性映画・メロドラマを中心とする松竹では,五所平之助《花嫁の寝言》(1933),島津保次郎《隣りの八重ちゃん》(1934),小津安二郎《一人息子》(1936),清水宏《風の中の子供》(1937),吉村公三郎《暖流》(1939),渋谷実《母と子》(1939)や,大ヒット作《愛染かつら》(1938。野村浩将監督)がつくられた。日活は,田坂具隆《真実一路》(1937),熊谷久虎《蒼氓》(1937),内田吐夢《限りなき前進》(1937),島耕二《風の又三郎》(1940)などをつくって,現代劇の黄金時代を迎えた。新生のPCL・東宝からは,成瀬巳喜男《妻よ薔薇のやうに》(1935),木村荘十二《兄いもうと》(1936),豊田四郎《若い人》(1937),山本嘉次郎《綴方教室》(1938)などが生まれた。また,溝口健二は第一映画で《浪華悲歌》《祇園の姉妹》(ともに1936),新興キネマで《愛怨峡》(1937),松竹で《残菊物語》(1939)を撮った。

 トーキー時代劇では,衣笠貞之助の《忠臣蔵》(1932),《雪之丞変化》(1935)など,純然たる時代劇が多くつくられたが,小市民映画の時代劇版ともいえる作品がいくつも出現した。稲垣浩《旅は青空》(1932),山中貞雄《街の入墨者》《丹下左膳余話・百万両の壺》(ともに1935),《河内山宗俊》(1936),《人情紙風船》(1937),伊丹万作《赤西蠣太》(1936)などである。それらはときに〈ちょん髷(まげ)をつけた現代劇〉と呼ばれ,時代劇が内容的に現代劇と変わらなくなったことを示している。

 1930年代における製作本数は年間500本ほどで,日本映画は質量ともに最大の黄金期に入ったといえる。ちなみに,全国の映画館数は1930年の1392から40年の2363へ,映画観客人口は1930年の約1億6000万から40年の約4億へと,飛躍的に増大した。こうした黄金期の絶頂のなかで,日本映画は戦争の荒波にもまれてゆく。

トーキー第1作《マダムと女房》が公開されて大当りしたのは1931年8月であるが,翌9月,いわゆる満州事変が起こった。これより日本は45年の敗戦まで15年戦争の時代に入る。つまり,トーキー以後の日本映画の黄金期はぴったり戦争の時代に重なるといってよい。戦争の進展とともに検閲などの映画統制は強化され,1934年には総理大臣監督下の映画統制委員会がつくられて,翌35年,それのもとで官民合同の国家協力機関,大日本映画協会が設立された。同協会の機関誌《日本映画》(1938年5月号)には,〈とにかく映画は,その持つ威力の絶大なる故に,国民の思想的団結の強化のために,思想政策の一翼として,最前線に積極的に動員されなければならない。而してその動員は,我国映画事業並に映画内容の現状に鑑み,国家の立場よりする統制の形態をとらざるべからざることも亦自明の理だ〉と述べた一文が見られ,国家にとって映画がいかに重視すべきものであったかをよく伝えている。こうして38年の国家総動員法公布を経て,第2次大戦の始まった39年,映画法が施行され,映画製作・配給の許可制,映画製作に従事する者(監督,俳優,カメラマン)の登録制,劇映画脚本の事前検閲,文化映画・ニュース映画の強制上映,外国映画の上映制限などが法定化された。この間,いわゆる日華事変の起こった1937年には中国東北部に満州映画協会が,映画法施行の39年には中国南京に中華電影,中国北京に華北電影が,いずれも国策会社として設立されて,国家による日本外地での映画工作が広がっていった。映画法に基づく映画新体制の強化はきびしく,41年の日米開戦ののち,42年,映画会社は東宝と松竹,それに新興キネマ・日活・大都を吸収した大映の3社となり,200以上あった文化映画製作会社は3社に,外国映画輸入会社は1社に統合され,また,映画配給も〈紅〉〈白〉2系統に統合された。

 映画はこうしたなかでトーキー全盛時代を迎える一方,15年戦争の初期には日露戦争を扱ったもの,1932年のいわゆる上海事変における爆弾3勇士を描いたものが多くつくられ,37年の日華事変の際にはニュース映画が量産された。そして,戦争に取材した劇映画が輩出し,それらは国策的内容のものから単純な娯楽映画や高度なリアリズムによる作品まで,実に多種多様ながら,戦時日本映画を形づくった。田坂具隆《五人の斥候兵》(1938),《土と兵隊》(1939),《海軍》(1943),熊谷久虎《上海陸戦隊》(1939),今井正《沼津兵学校》(1939),《望楼の決死隊》(1943),吉村公三郎《西住戦車長伝》(1940),阿部豊《燃ゆる大空》(1940),《あの旗を撃て》(1944),山本嘉次郎《ハワイ・マレー沖海戦》(1942),《加藤隼戦闘隊》(1943),マキノ正博《阿片戦争》(1943),木下恵介《陸軍》(1944)などである。また,満映と東宝の提携作品《白蘭の歌》(1939。渡辺邦男監督),《支那の夜》(1940。伏水修監督)が大陸ロマンスものとしてヒットし,満映の〈名花〉李香蘭(1920- 。山口淑子)をスターにした。こうした劇映画とは別に,すぐれた長編記録映画として亀井文夫の《上海》(1938)がある。

 1930年代には年間ほぼ500本つくられた劇映画は,40年の497本を最後に,41年232本,42年87本と激減し,45年にはわずか26本となった。

15年戦争が日本の敗北で終わった1945年8月15日以後,最初に公開された日本映画は,8月30日封切の松竹作品《伊豆の娘たち》(五所平之助監督)と大映作品《花婿太閤記》(丸根賛太郎監督)であるが,2作品とも戦時中に企画されたもので,真の戦後映画第1号は10月11日封切の松竹作品《そよかぜ》(佐々木康監督)であった。主題歌《リンゴの唄》が一世をふうびした《そよかぜ》は,GHQ検閲第1号の映画でもある。

 45年9月22日,連合軍総司令部(GHQ)は,軍国主義の撤廃,自由主義の促進,平和主義の設定を基本目標にした映画製作方針を指示,GHQによって検閲が行われることになり,さらに11月,GHQの民間情報教育部によって13項目の映画製作禁止条項が通達された。こうして,戦時中の映画法は撤廃されたが,GHQの占領政策が日本映画のうえにおおいかぶさることとなった。

 GHQの映画政策に沿う形で,観念的で生硬なものから真に自由な映画としての力をもったものまで,さまざまな民主主義映画が生まれた。45年の田中重雄《犯罪者は誰か》,松田定次《明治の兄弟》,牛原虚彦《街の人気者》,46年の木下恵介《大曾根家の朝》,今井正《民衆の敵》,黒沢明《わが青春に悔なし》,楠田清《命ある限り》,溝口健二《女性の勝利》,47年の五所平之助《今ひとたびの》,亀井文夫・山本薩夫《戦争と平和》などである。そして,すぐれた映画作家はさらに独自の展開を示し,黒沢明は《素晴らしき日曜日》(1947),《酔いどれ天使》(1948),《野良犬》(1949)を,吉村公三郎(1911-2000)は《安城家の舞踏会》(1947),《わが生涯のかがやける日》(1948)を,溝口健二は《夜の女たち》(1948)を,今井正(1912-91)は《青い山脈》(1949)を,木下恵介は《破れ太鼓》(1949)をつくった。

時代劇の戦後第1作は,丸根賛太郎の《狐の呉れた赤ん坊》(1945)であるが,こうした人情喜劇は別として,GHQの制限のためにチャンバラを描くことができず,伊藤大輔の《素浪人罷(まかり)通る》(1947)のように剣戟ぬきでつくられた。これにより,多くの時代劇スターは,時代劇のパターンをそのまま現代劇に移し変えた探偵映画,ギャング映画,いわゆる〈ちょん髷をつけない時代劇〉で活躍することになり,活劇の主流は現代劇となった。このほか,娯楽映画としては,エノケン,シミキン,ロッパらの喜劇が多くつくられ,《はたちの青春》(1946。佐々木康監督)が最初の〈接吻映画〉として話題になった。

 この間,1946年3月から東宝争議が起こり,47年には新東宝の分裂を生み,また,49年には映画業界の自主規制機関として映画倫理規程管理委員会(映倫)が設立され,審査検閲はGHQから映倫へ移った。しかし50年,GHQはレッドパージ(いわゆる〈赤狩り〉)に乗り出し,多くの映画人が企業から追われる一方,かつて戦争犯罪追及により公職から追放されていた映画人が,追放を解かれ,企業に復帰した。

東宝争議とレッドパージによって,1950年代前半,日本映画に新しい動きが起こった。企業を追われた人々による独立プロの隆盛である。その先駆となったのは,東宝争議の妥結資金によって日映演(日本映画演劇労働組合)が自主製作した《暴力の街》(山本薩夫監督)で,50年2月に大映系で公開された。そして,これの興行的成功をきっかけに,東宝退社組を中心に新星映画社が設立され,前進座との提携で第1回作品《どっこい生きてる》(1951。今井正監督)を製作した。以後,独立プロが続出して,独自の映画づくりを始める。戦前にも独立プロはあったが,この戦後の独立プロ・ブームの特徴は左翼独立プロを中心とするところにあった。

 これらの独立プロから山本薩夫《箱根風雲録》《真空地帯》(ともに1952),《太陽のない街》《日の果て》(ともに1954),《浮草日記》(1955),《台風騒動記》(1956),亀井文夫《母なれば女なれば》(1952),《女ひとり大地を行く》(1953),家城(いえき)巳代治《雲ながるる果てに》(1953),《ともしび》(1954),《姉妹》(1955),《こぶしの花の咲く頃》(1956),《異母兄弟》(1957),今井正《山びこ学校》(1952),《にごりえ》(1953),《ここに泉あり》(1955),《真昼の暗黒》(1956),新藤兼人《原爆の子》(1952),《女の一生》(1953),《どぶ》(1954),吉村公三郎《夜明け前》(1953),《足摺岬》(1954),五所平之助《朝の波紋》(1952),《煙突の見える場所》(1953),今泉善珠《村八分》(1953),山村聡《蟹工船》(1953),それに日教組製作の《ひろしま》(1953。関川秀雄監督)といった作品も生まれた。

 これらの独立プロ作品は,大企業の配給網に依存するほかに,独自に配給もされた。しかし,54年,東映が2本立て封切を開始し,日活が製作再開して,大手6社の市場獲得戦が激化するなか,独立プロ作品の市場がなくなっていって,55年ころをもって独立プロ・ブームは終わった。

映画の隆盛にとってはまず映画製作の指揮をとる大プロデューサーの存在が不可欠であり,ことに1950年代の量産時代に各社が打ち出した〈路線〉は,そうしたプロデューサーにより決定された。

 東宝では,森岩雄が前身のPCL時代からアメリカ映画のシステムに学んで映画事業経営の合理化・近代化をめざし,プロデューサーの主導権を重視した〈プロデューサー・システム〉を採用,戦後も同じ方針を貫いた。そしてその下から,東宝青春映画路線の基礎をつくった藤本真澄(さねずみ),《ゴジラ》(1954)をはじめとする特撮映画路線をつくった田中友幸らのプロデューサーが育った。

 松竹の映画づくりは,戦前につづいて城戸四郎の下で進められ,女性メロドラマ路線をさらに推進して,《君の名は》(1953-54),《二十四の瞳》(1954)などのヒット作を出した。

 大映では,永田雅一(1906-85)が戦前の第一映画,新興キネマでの経験に基づき,興行的価値を第一とする映画製作を行って,母もの映画路線と《羅生門》(1950),《雨月物語》(1952),《地獄門》(1953)などの文芸色豊かな王朝ものの大作で業績を安定させた。

 戦後に生まれた東映では,大川博(1896-1971)がかつての鉄道マン時代(鉄道省,東急)の経験をもとに,徹底した営利主義を貫いた。《きけわだつみの声》(1950),《ひめゆりの塔》(1953)の大ヒットによる業績安定のあと,大川博は1954年,〈東映娯楽版〉と名づけた中編時代劇を添えて2本立て興行を開始,時代劇路線を発展させて〈時代劇王国〉東映を築くとともに,映画市場の全収益の半分を東映がいただくと豪語して,60年に第二東映(のちにニュー東映と改称)を発足させるに至った。初期の東映では,この大川博のもとで,戦前から戦中にかけて日活,満映で活躍してきたマキノ満男(光雄)がプロデューサーとしての腕をふるった。

 戦後のプロデューサーとしては,ほかに,日活のアクション映画路線を主導した江守清樹郎,新東宝の危機を《明治天皇と日露大戦争》(1957)のヒットで救い,のちにいわゆるエロ・グロ路線を推進した大蔵貢らがいる。

1954年には日本映画界を揺るがす大事態が二つ起こった。東映による2本立て興行の開始と日活の製作再開である。これにより日本映画は量産時代に入り,1950-51年には約200本であった年間製作本数が年々増加,1956-61年には500本前後になって,〈プログラム・ピクチャー〉全盛期を迎えた。日活が製作再開を発表する直前,既存の5社(松竹,東宝,大映,新東宝,東映)は,俳優,監督などの引抜きを防止するべく〈5社協定〉を取り決めた(1953)が,日活は5社協定への参加を拒否し,トラブルの間を縫って映画づくりを進め,業績をあげていった。やがて新東宝の衰退(1961倒産)とともに,松竹,東宝,大映,東映,日活による〈5社体制〉ができあがった。

 〈5社協定〉〈5社体制〉のもとで,各社は専属スターをかかえ,スターの魅力を第一にする映画製作を行って,人気スターの顔ぶれを組み合わせる形で番組(プログラム)を組んだ。東宝では,三船敏郎,原節子,鶴田浩二などのほか,森繁久弥,小林桂樹ら喜劇スター,加山雄三ら青春スターが活躍。松竹では,高峰秀子,岸恵子,佐田啓二,高橋貞二,有馬稲子らがメロドラマないし女性映画路線を担った。大映では,長谷川一夫,京マチ子,山本富士子,市川雷蔵,勝新太郎らが時代劇路線を支え,若尾文子,田宮二郎,川口浩らが現代劇スターとして活躍した。東映では,片岡千恵蔵,市川右太衛門,大友柳太朗,中村錦之助(のちの萬屋錦之介),東千代之介,美空ひばり,大川橋蔵らが〈時代劇王国〉を担った。日活では,石原裕次郎,小林旭,赤木圭一郎,北原三枝,浅丘ルリ子らがアクション映画路線を彩り,吉永小百合,浜田光夫らが青春映画路線で活躍した。

 量産時代は質的な向上をももたらし,各世代の監督により多彩な作品が生み出されて,1930年代につぐ日本映画の黄金時代を出現させた。戦前派の監督では,溝口健二,小津安二郎,成瀬巳喜男,内田吐夢,田坂具隆,五所平之助,豊田四郎,また,戦中あるいは戦後まもなくデビューした監督では,黒沢明,木下恵介,今井正,渋谷実,川島雄三,市川崑,小林正樹らの活躍が見られた。

 この間,最初の国産カラー映画《カルメン故郷に帰る》(1951)が松竹で,最初のシネマスコープ作品《鳳城の花嫁》(1957。松田定次監督)が東映で,最初の70ミリ作品《釈迦》(1961。三隅研次監督)が大映でつくられ,日本映画はカラー・ワイド時代に入った。

 東宝の岡本喜八,堀川弘通,須川栄三,大映の増村保造,三隅研次,東映の沢島忠,加藤泰,新東宝の石井輝男,日活の中平康,今村昌平といった新しい世代の監督も生まれ,そして,1960年には,もっとも伝統的な映画づくりを行ってきた松竹から,大島渚,吉田喜重,篠田正浩らによる〈松竹ヌーベル・バーグ〉が生まれ,時を同じくして岩波映画からは新鮮なドキュメンタリー・タッチの《不良少年》(1960)で羽仁進がデビューする。

 日本の映画観客人口は,1958年に11億2000万になり,史上最高を記録した。映画館数のピークは60年の7457館である。しかし,年間製作本数は61年の535本から62年の375本へ下落し,大手映画会社の製作本数が年々減少するなか,62年から小独立プロによる低予算のセックス映画(いわゆる〈ピンク映画〉)がつくられはじめ,まもなく年間200本ほどに急増して,量的には日本映画の大きな一角を占めるに至った。

 1960年代のプログラム・ピクチャーでもっとも大きなものは,日活アクション映画と東映やくざ映画である。このうち日活アクション映画からは,井上梅次,舛田利雄,鈴木清順,蔵原惟繕らの監督が輩出した。また,東映やくざ映画はマキノ雅弘,佐伯清,加藤泰,山下耕作ら時代劇からの転進組によって支えられ,鶴田浩二,高倉健,藤純子らの人気スターを生み出すとともに,日活,大映にも類似のやくざ映画をつくらせるほどに隆盛したが,やがて最後のプログラム・ピクチャーとなった。

1961年の新東宝倒産を不吉な象徴として,以後,日本映画は衰退の一途をたどり,大手5社は64年には映画のテレビへの放出を決定せざるをえなくなった。70年には大映と日活がそれぞれの配給系統を維持できなくなって,ダイニチ映配として1本化し,翌71年,大映が倒産し,日活は一時製作中止ののち,ピンク映画にならった〈ロマン・ポルノ〉路線へ転向。70年代に各社が撮影所の一部を切り売りしたのも,衰退の現れである。そして,各社は専属のスターや監督をかかえることができなくなり,製作本数の減少に伴って俳優や監督はテレビに活動の場を求めることとなった。

 この間,映画が内容的にも衰弱したわけではない。東映では深作欣二,佐藤純弥,中島貞夫らによる《仁義なき戦い》シリーズ(1973-74)等の実録やくざ映画,松竹では山田洋次,森崎東,前田陽一らによる《男はつらいよ》シリーズ(1969-96)等の喜劇,日活では一時製作中止直前にあらわれた藤田敏八,沢田幸弘,長谷部安春らによる〈日活ニュー・アクション〉,そして〈ロマン・ポルノ〉の神代辰巳,田中登,小沼勝らによる諸作品,さらにはATG(日本アート・シアター・ギルド。〈アート・シアター〉の項目を参照)による意欲的な映画づくりと,さまざまに日本映画の力を示した。

 しかし,70年代から80年代にかけて,大手映画会社は製作本数をどんどん減らし,大作1本立ての長期興行に転ずるとともに,製作部門を切り離して独立プロ作品やテレビ映画の製作を手がけて,配給会社と化していった。その配給ルートに乗せるべく,1976年の角川映画以来,出版社,化粧品会社,広告会社,テレビ局などによる映画製作が盛んとなり,多種多様の独立プロが生まれた。

 しかし,それはかつて各社の映画がもっていた独自のカラー(作風)がなくなって,〈路線〉ならぬ〈点〉として1本1本の映画が存在するしかないことであり,日本映画の拡散状況を示している。
映画 →活劇映画 →時代劇映画
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「日本映画」の意味・わかりやすい解説

日本映画
にほんえいが

19世紀末に、アメリカ、フランスで発明公開された映画は、1、2年のうちに日本に伝えられ、製作も始められた。以来100年を超える歴史を刻んだ日本映画は、つねに大衆の娯楽として親しまれ、ときには優れた芸術作品として人々の感動をよんできた。日本映画の市場はほとんど国内に限定されてきたが、芸術面でも文化の反映としても海外から高い関心が寄せられている。1960年代からはテレビの普及に娯楽の王座を譲った形だが、若い世代を中心に独自のファン層をもち、テレビとともに映像文化の中核をなしている。

[登川直樹]

サイレント映画時代

19世紀末、アメリカのエジソンが発明したキネトスコープは1896年(明治29)に、またフランスのリュミエール兄弟が発明したシネマトグラフは翌1897年に日本に輸入され、「活動写真」の名で公開されたが、やがて国内でも製作されるようになり、「銀座街」「浅草仲見世(なかみせ)」などの風景実写のほか、『紅葉狩(もみじがり)』のように舞台の芸を書割を吊(つ)るした野外で歌舞伎(かぶき)俳優が演じたものもつくられた。

 映画の初期には、諸外国と同じく日本でも実写フィルムと寸劇風の短編劇映画を数本あわせて一番組として興行するのが普通だったが、しだいに実写は消えて劇映画も長編に変わっていった。ただ日本では最初から上映中にスクリーンの横で台詞(せりふ)を語り情景の説明を行う弁士(活動写真の弁士、略して活弁、のちに説明者とよばれる)がつく習慣で、これがサイレント映画(無声映画)を通して行われた。そのうえに初期の日本映画では女方(おんながた)が当然のように用いられ、大正後半になってようやく女優が普通に使われるようになった。

 1912年(大正1)には横田商会など4社が合併し、日本活動写真株式会社(日活)が創設され、牧野省三(しょうぞう)による尾上松之助(おのえまつのすけ)主演の旧劇(時代劇)映画が京都の撮影所で、女方を使った新派映画が東京の向島(むこうじま)撮影所で盛んにつくられた。これらはいまから考えれば荒唐無稽(こうとうむけい)で安易なものであったが、それにもかかわらず活動写真は目覚ましく普及して、たちまち大衆の娯楽として広まった。それは、当時の芝居に比べてはるかに手軽な入場料と、地方にも続々と増えた映画常設館によって全国に行き渡ったばかりでなく、その内容が、動く写真のもの珍しさのうえに、弁士の説明に助けられたわかりやすさ、映像の魔術的な魅力、スターの人気などが一体となって、新しい娯楽として人々の強い関心を集めたからである。

 しかし日本映画が独自の表現技術を備えるのはサイレント中期の1918年ごろからである。そのころから映画人のなかに、映画を舞台劇の模倣でなく映画固有のスタイルをもったものにしようという運動が広まっていき、純映画劇とよばれた帰山教正(かえりやまのりまさ)の『生の輝き』や『深山(みやま)の乙女(おとめ)』(ともに1918)、枝正義郎(えだまさよしろう)(1888―1944)の『哀(かなしみ)の曲』(1919)などが生まれた。続いて栗原(くりはら)トーマス(1885―1926)監督・谷崎潤一郎(じゅんいちろう)脚本の『アマチュア倶楽部(くらぶ)』(1920)、小山内薫(おさないかおる)総指揮・村田実(みのる)監督・牛原虚彦(きよひこ)(1897―1985)脚本らによる『路上の霊魂』(1921)などが新しい試みで注目された。

 しかし本格的な芸術映画の隆盛はサイレント末期の1920年代後半(大正末から昭和初期)にやってきた。時代劇では活気のある立回りシーンをもったチャンバラ映画が流行したなかで、主人公の世をすねたような生き方にニヒルな雰囲気を漂わせる力作が、阪東妻三郎(ばんどうつまさぶろう)主演・二川文太郎(ふたかわぶんたろう)(1899―1966)監督の『雄呂血(おろち)』(1925)、大河内伝次郎(おおこうちでんじろう)主演・伊藤大輔(だいすけ)監督の『忠次(ちゅうじ)旅日記』三部作(1927)など相次いだ。現代劇では新派の流れをくむ悲劇のほか叙情映画やメロドラマが大勢を占めるなかで、それに自然描写を溶け込ませた五所平之助(ごしょへいのすけ)の『村の花嫁』(1928)や、庶民の生活の悲哀を描いた小津安二郎(おづやすじろう)の『大学は出たけれど』(1929)など個性的な作風をもつ新鮮な映画が競ってつくられた。また社会批判的な主張をもったいわゆる「傾向映画」が時代劇・現代劇を問わず生まれたが、これらは当時の経済的、社会的に不安な状況に対する反応でもあった。こうしたサイレント末期の映画の隆盛を招いたのは、日活、松竹をはじめとする製作会社の安定、さらに阪東妻三郎、片岡千恵蔵(ちえぞう)、嵐寛寿郎(あらしかんじゅうろう)、市川右太衛門(うたえもん)らの俳優が中心となった独立プロ(独立プロダクション)の活況によるもので、大衆の支持を得ながら映画は経済的にも基盤を強化しつつあったといえる。娯楽映画がますます大衆のなかに浸透していくと同時に、たとえば衣笠貞之助(きぬがさていのすけ)の『狂った一頁(ページ)』(1926)のように思いきった実験映画もつくられて、日本映画全体が大きく枠を広げつつあった。

[登川直樹]

トーキー開始以後

日本で最初の本格的なトーキー映画(発声映画)は、1931年(昭和6)五所平之助監督、田中絹代主演の『マダムと女房』であるが、数年間はサイレントとトーキーは並行してつくられた。1930年代なかば以降の本格的なトーキー時代に入ると、文学作品の映画化によって日本映画の内容は一段と豊かになった。島津保次郎(やすじろう)の『お琴(こと)と佐助(さすけ)』(1935)、内田吐夢(とむ)の『人生劇場』(1936)、伊丹万作(いたみまんさく)の『赤西蠣太(あかにしかきた)』(1936)、田坂具隆(ともたか)の『路傍の石』(1938)、豊田四郎(とよだしろう)の『若い人』(1937)などの文芸映画が生まれた。また衣笠貞之助の『雪之丞変化(ゆきのじょうへんげ)』三部作(1935~1936)が林長二郎(後の長谷川一夫(はせがわかずお))主演により娯楽時代劇として大ヒットした。一方では原作に依存しないオリジナル脚本による映画も活発につくられ、溝口健二(みぞぐちけんじ)監督、山田五十鈴(いすず)主演の『浪華悲歌(なにわエレジー)』『祇園(ぎおん)の姉妹(きょうだい)』(ともに1936)、小津安二郎の『一人息子』(1936)、内田吐夢の『限りなき前進』(1937)、山中貞雄(さだお)の『人情紙風船』(1937)などの力作が生まれた。

 1931年満州事変が勃発(ぼっぱつ)して以来軍国主義的な色彩が強まるにつれて、『五人の斥候兵(せっこうへい)』(1938)のような戦争映画から『馬』(1941)のような農家が軍馬を育てる物語にまで、多くの映画にそれが反映し、1941年の太平洋戦争勃発によってさらにその傾向は強まった。『ハワイ・マレー沖海戦』(1942)、『加藤隼(はやぶさ)戦闘隊』(1944)、『あの旗を撃て』(1944)などの、いわゆる戦意昂揚(こうよう)映画が次々とつくられた。なかで稲垣浩(いながきひろし)の『無法松の一生』(1943)は、戦争とは無縁な世界を扱ったヒューマニズムを謳歌(おうか)した秀作として注目された。

 トーキー時代に入って以来、膨張した製作費などのため俳優や監督の独立プロは姿を消し、撮影所をもつ大手の会社による量産体制が確立していたが、戦時中の企業統制によって映画会社も松竹、東宝、および日活をはじめとする他社を合併した大映の3社に整理統合され、配給事業も一社にまとめられた。1939年には映画法が施行されて脚本の検閲など政府の干渉は強まり、フィルムの割当ても減少し、映画製作は質量ともに低下していった。

[登川直樹]

第二次世界大戦後の隆盛期

第二次世界大戦後、日本映画の復興は目覚ましかった。当座はフィルムも機材も乏しく、映画製作には難問が山積していたが、娯楽に飢えていた大衆の渇望に支えられて、わずか5年ほどで戦前の産業規模に立ち直った。占領軍の検閲を受けながら製作を続けた復興期は、木下恵介(けいすけ)の『大曽根(おおそね)家の朝(あした)』(1946)、黒澤明の『わが青春に悔なし』(1946)、山本薩夫(さつお)・亀井文夫(かめいふみお)の『戦争と平和』(1947)など、いわば民主主義的テーマをかざした力作が注目を浴びたが、やがて映画作家たちはそれぞれの個性を発揮する方向に伸びて日本映画の多様性が一段と増した。つねに社会的問題を追求した山本薩夫、今井正(ただし)、運命的な悲劇を描いた溝口健二、親子の別れを独自のスタイルでとらえた小津安二郎、女の哀れを追った成瀬巳喜男(なるせみきお)などそれぞれに個性的な題材や様式で秀作を競った。なかでも第二次世界大戦中に登場した黒澤明と木下恵介は新鮮な作風で異彩を放ち、市川崑(こん)、新藤兼人(かねと)らの新人も登場した。

 1951年(昭和26)にベネチア国際映画祭で、監督黒澤明、主演三船敏郎(みふねとしろう)・京マチ子(1924―2019)の『羅生門(らしょうもん)』がグランプリを受賞したのを皮切りに、日本映画の海外受賞は堰(せき)を切ったように相次いだ。その後もベネチアでは溝口健二の『西鶴一代女(さいかくいちだいおんな)』(1952)、『雨月物語(うげつものがたり)』(1953)、『山椒大夫(さんしょうだゆう)』(1954)、黒澤明の『七人の侍』(1954)、市川崑の『ビルマの竪琴(たてごと)』(1956)、稲垣浩の『無法松の一生』(1958)、小林正樹(まさき)の『人間の條件(じょうけん)』(1959~1961)と受賞が続いた。カンヌ国際映画祭では1954年に衣笠貞之助の『地獄門』(1953)がグランプリを獲得、ベルリン国際映画祭では1953年に五所平之助の『煙突の見える場所』(1953)、1959年に黒澤明の『隠し砦(とりで)の三悪人』(1958)、カルロビ・バリ国際映画祭では1954年に新藤兼人の『原爆の子』(1952)が受賞した。1955年アメリカのアカデミー賞の最優秀外国映画に稲垣浩の『宮本武蔵(むさし)』(1954)が選ばれたのも加えて、日本映画の受賞ブームは概して時代劇が欧米人の好奇心に迎えられたことにもよるが、やがて小津安二郎の『東京物語』(1953)、新藤兼人の『裸の島』(1960)、大島渚(なぎさ)の『少年』(1970)など現代劇にも及んで、日本映画の芸術的水準が海外から高く評価されるようになった。

 こうした1950年代の日本映画の隆盛は映画産業統計にも表れていて、1958年のピークに向かって上昇の一途をたどったことがわかる。日本映画の製作本数は年間500本を超え、映画観客は延べ12億人に迫った。映画会社は松竹、東宝、大映、東映に加えて日活が1953年に製作を再開、東宝から分かれた新東宝も加えると6社の態勢が確立した。技術的には、木下恵介監督、高峰秀子主演の『カルメン故郷に帰る』(1951)で国産方式の色彩映画がつくられ、『地獄門』(1953)でイーストマン方式が採用されるなどカラー映画の時代に踏み出し、またワイド・スクリーンも普及するなどして映画の魅力を高めた。これらは映画の内容とも呼応するもので、各社それぞれに得意とする娯楽映画のジャンルを開拓し、スター・システムを堅持して大衆との結び付きを強めた。松竹の『君の名は』(1953~1954)、東宝の『ゴジラ』(1954)、東映の『鳳(おおとり)城の花嫁』(1957)、日活の『嵐(あらし)を呼ぶ男』(1957)などに代表されるヒット映画の連作は映画企業を安定させ、その余裕のもとで芸術的な映画製作の冒険ができた意味でも重要であった。

[登川直樹]

テレビ時代の日本映画

しかし1960年を過ぎると、映画界はしだいに困難な状況に入っていった。日本全体の産業構造の変化によって人口が都市に集中し、地方の映画興行はたちまち不振に陥り、テレビの急速な普及は映画観客を減らす大きな要因となった。映画界は2本立て、3本立ての氾濫(はんらん)で量産競争に駆り立てられ、質よりも量を満たすことに追われた。そのため芸術的な冒険は退けられ、より安全な、ヒット映画をシリーズ化したいわゆる路線映画が増え、より刺激的な性や暴力の表現がしだいにエスカレートした。

 しかし、そうしたなかでも、大島渚、篠田正浩(しのだまさひろ)、吉田喜重(よししげ)ら松竹ヌーベル・バーグの若手の意欲的な試みもあり、今村昌平(しょうへい)の『にっぽん昆虫記』(1963)、勅使河原宏(てしがわらひろし)の『砂の女』(1964)、小林正樹の『怪談』(1964)、篠田正浩の『心中天網島(てんのあみじま)』(1969)、山田洋次の『家族』(1970)、熊井啓(くまいけい)の『サンダカン八番娼館(しょうかん)・望郷』(1974)など、新人監督も台頭して日本映画の新しい分野を開こうとする作品が生まれた。

 しかしテレビの普及浸透は徹底的であった。映画最盛期の1958年(昭和33)にテレビ受像機の登録台数は150万台で、全国世帯中わずか5%の普及にすぎなかったが、1960年には800万台、1980年には3000万台と急速に伸びて、全国家庭の80%以上に達した。これに逆行して映画館は減少の一途をたどり、最盛期の7800館から1980年代に2000館以下に減り、日本人の映画観覧回数も1人平均年12回から年1.4回に激減した。映画産業が深刻な打撃を受けたことはいうまでもない。

 映画製作は過当競争から一転して製作本数の切り詰めにかかり、大手各社は自主製作を減らして独立プロ作品の補充配給に力を入れた。その結果、野心的な作品が増え、新人が登場する機会も増えた。ベテラン監督である新藤兼人の『竹山ひとり旅』(1977、モスクワ国際映画祭ソ連美術家同盟賞)、黒澤明の『影武者』(1980、カンヌ国際映画祭グランプリ)、『乱』(1985)、鈴木清順の『ツィゴイネルワイゼン』(1980、ベルリン国際映画祭審査員特別表彰)、市川崑の『細雪(ささめゆき)』(1983)をはじめ、今村昌平の『楢山節考(ならやまぶしこう)』(1983、カンヌ国際映画祭グランプリ)、大島渚の『戦場のメリークリスマス』(1983)、篠田正浩の『槍(やり)の権三(ごんざ)』(1986、ベルリン国際映画祭銀熊賞)、熊井啓の『海と毒薬』(1986、ベルリン国際映画祭銀熊賞)、『千利休(せんのりきゅう) 本覺坊遺文(ほんがくぼういぶん)』(1989、ベネチア国際映画祭銀獅子賞)、山田洋次の『男はつらいよ』シリーズ(1969~1997)に混じって、東(ひがし)陽一の『サード』(1978)、大森一樹(かずき)(1952―2022)の『ヒポクラテスたち』(1980)、相米慎二(そうまいしんじ)(1948―2001)の『セーラー服と機関銃』(1981)、小栗康平(おぐりこうへい)の『泥の河』(1981、モスクワ国際映画祭銀賞)、『死の棘(とげ)』(1991、カンヌ国際映画祭グランプリ)、森田芳光(よしみつ)(1950―2011)の『家族ゲーム』(1983)、伊丹十三の『お葬式』(1984)、『マルサの女』(1987)、根岸吉太郎(1950― )の『ウホッホ探検隊』(1986)など、多数の新人監督がキネマ旬報などのベストテン上位に力作佳作を放ったのは注目される。

 その後、国の映画製作助成もようやく実現し、1990年(平成2)、芸術文化振興基金が創設された。約600億円を基金に芸術各般に補助金を交付するもので、映画にも長編劇映画1本に2500万円、年間約10本などの補助金を交付する制度が実施された。その後の金利低下などで補助する作品数や補助金額がやや減少したが、国からの助成制度としては初めて国際的水準に達したといってよく、良心作や野心作が企画の段階で支援を受けている。

 それでも日本映画はなお厳しい状況のもとにある。なかでもアメリカ映画の娯楽大作に押されぎみなのは深刻で、かつて1950年代まで邦画と洋画の配給収入比は8対2と日本映画が断然優位にたっていたが、その比率が1986年には逆転し、1990年代には邦画と洋画の比率は4対6となった。2000年代に入っても洋画優位の状況はしばらく続いていたが、2000年代中ごろから邦画が盛り返し、2006年(平成18)には21年ぶりに邦画が洋画を上回った(邦画53.2%、洋画46.8%)。2007年にはハリウッド娯楽大作の続編が相次いで封切られたため、ふたたび洋画が僅差(きんさ)ではあるが優位にたった(邦画47.7%、洋画52.3%)が、翌2008年からは邦画の優位が続いており、2011年時点で、邦画54.9%、洋画45.1%である。

[登川直樹]

多様化する映像メディアの時代

テレビの普及はほとんど飽和状態に達したが、ビデオの普及もこれを追っている。1982年(昭和57)にテレビを所有する家庭のわずか10%にすぎなかったビデオ機の普及は1990年代に入って過半数に達し、映画館はさらに窮地に追い詰められた観がある。いわゆる名画座は良心的な旧作の上映拠点であったが、しだいに立ち消えてほとんど姿を消した。これと対照的にビデオはますます活況を呈し、とくにレンタル・ビデオの収益は年間3000億円を超える。映画館も1990年代に入って同一建物に複数館を収めたシネコン(シネマ・コンプレックス=複合型映画館)が出現し、スクリーン数も増加して2010年(平成22)には3412となったが、2011年12月時点では3339と、やや減少している。

 1980年代以降の日本映画の注目すべき動向の一つはアニメーション映画の隆盛であろう。かつてはテレビ漫画や子供向け雑誌漫画の映画化が主であったが、やがてオリジナルの長編映画が活発になり興行的にもヒットした。『風の谷のナウシカ』(1984)、『天空の城ラピュタ』(1986)、『となりのトトロ』(1988)、『魔女の宅急便』(1989)、『もののけ姫』(1997)、『千と千尋(ちひろ)の神隠し』(2001、ベルリン国際映画祭金熊賞、アカデミー長編アニメーション映画賞)など、もっぱら宮崎駿(はやお)、高畑勲(たかはたいさお)(1935―2018)らの製作監督になるこれらの作品は、着想、作画、物語展開、技術処理などに独創性を発揮して広い客層の支持を得た。長編アニメの安定したヒットはその後も続き、2001年の統計では、アニメ映画の配給収入が日本映画の配給収入全額の50%を超えてピークであったが、2011年では、邦画の復権もあり28%程度となっている。

 こうしたアニメの隆盛に呼応するように、映画会社の自主製作の形態は大きく変わってきた。撮影所は量産体制をやめて最小限度の自主製作にとどめ、独立プロの作品を取り込んで配給番組を編成するようになった。量産体制の基盤であった撮影所はその必要性を失ったわけで、松竹大船撮影所の閉鎖売却は自然の成り行きともいえる。1936年蒲田(かまた)から大船に移転して以来、数々の名作を世に送ってきた大船撮影所は2000年6月、山田洋次監督の『十五才・学校Ⅳ』の撮影終了を最後に64年の歴史を閉じた。これからの映画製作に必要なものは、大きなステージや広いオープン・セットの敷地ではなく、撮影後のポスト・プロ(合成作業など)に威力を発揮する設備機材を備えた空間で、松竹が都内に設置した新撮影所もその事実を証明するにちがいない。

 1990年代以降、大手映画会社の自主製作切り詰めを埋め合わせるように、独立プロ作品が急増した。キネマ旬報などのベストテンにもそれが反映して、多くの新人監督が登場し注目された。なかでも周防正行(すおまさゆき)は『シコふんじゃった』(1991)、『Shall we ダンス?』(1995)を放ち、崔洋一(さいよういち)は『月はどっちに出ている』(1993)、『マークスの山』(1995)を、北野武は『その男、狂暴につき』(1989)、『キッズ・リターン』(1996)、『HANA‐BI』(1997、ベネチア国際映画祭グランプリ)、『菊次郎の夏』(1999)、『座頭市』(2003、ベネチア国際映画祭監督賞)などで、いずれも新鮮な話術や描写力をみせた。さらに『Love Letter』(1995)、『リリイ・シュシュのすべて』(2001)などの岩井俊二、『幻の光』(1995、ベネチア国際映画祭金のオゼッラ賞等)、『誰も知らない』(2004)などの是枝裕和(これえだひろかず)(1962― )、『萌(もえ)の朱雀(すざく)』(1997、カンヌ国際映画祭カメラドール)、『殯(もがり)の森』(2007、カンヌ国際映画祭グランプリ)などの河瀬直美(1969― )、『顔』(1999)などの阪本順治(1958― )、『ラヂオの時間』(1997、ベルリン国際映画祭国際映画団体連盟ドン・キホーテ賞)などの三谷幸喜(みたにこうき)(1961― )、『がんばっていきまっしょい』(1998)などの磯村一路(いつみち)(1950― )、『愛を乞(こ)うひと』(1998)などの平山秀幸(1950― )、『EUREKA(ユリイカ)』(2000、カンヌ国際映画祭国際批評家連盟賞)などの青山真治(1964―2022)、『GO』(2001)、『北の零(ぜろ)年』(2005)などの行定勲(ゆきさだいさお)(1968― )、『ジョゼと虎と魚たち』(2003)などの犬童一心(いぬどういっしん)(1960― )、『ALWAYS 三丁目の夕日』(2005)の山崎貴(たかし)(1964― )、『フラガール』(2006)の李相日(リサンイル)(1974― )、『長い散歩』(2006、モントリオール国際映画祭グランプリ)の奥田瑛二(1950― )とあげれば新しい顔ぶれは多彩である。

 新人監督輩出の一方、ベテラン監督もマイペースで活躍した。新藤兼人の『午後の遺言状』(1995、モスクワ国際映画祭ロシア映画批評家審査員賞)、『生きたい』(1999、モスクワ映画祭グランプリ)、今村昌平の『うなぎ』(1997、カンヌ国際映画祭最高賞)、深作欣二の『忠臣蔵外伝・四谷怪談』(1994)、『バトル・ロワイアル』(2000)、篠田正浩の『少年時代』(1990)、『スパイ・ゾルゲ』(2003)、市川崑の『どら平太』(2000、ベルリン国際映画祭特別功労賞)、『かあちゃん』(2001)、熊井啓の『日本の黒い夏・冤罪(えんざい)』(2001、ベルリン国際映画祭特別功労賞)、山田洋次の『学校』シリーズ(1993~2000)、『たそがれ清兵衛』(2002)、黒沢清の『回路』(2000、カンヌ国際映画祭国際批評家連盟賞)などである。とはいえ、1990年代には黒澤明、木下恵介、小林正樹、伊丹十三、2000年代に入ると相米慎二、深作欣二、野村芳太郎、今村昌平、黒木和雄、熊井啓、市川崑が相次いで他界。新藤兼人も『一枚のハガキ』(2010)を最後に2012年、100歳で亡くなった。また俳優では渥美清(あつみきよし)、三船敏郎、岸田今日子(1930―2006)、森繁久弥など多くの個性派人材がこの世を去った。

[登川直樹]

 若いころに大胆な実験的作風で注目された黒木和雄は、21世紀になると円熟の境地を示す秀作を連作した。いずれも戦争の末期を回想して反戦を訴える『美しい夏キリシマ』(2002)、『父と暮せば』(2004)、『紙屋悦子(かみやえつこ)の青春』(2006)である。李相日の『青 chong(ちょん)』(2000)は日本映画学校の卒業制作作品であるが、在日韓国・朝鮮人の自己主張の作品として画期的であり、これでデビューした李相日はやがて『フラ・ガール』(2006)、『悪人』(2010)などで若手の映画監督の先頭にたつ。崔洋一の『血と骨』(2004)は在日韓国人のすさまじい生き方の回顧である。荒戸源次郎(あらとげんじろう)(1946―2016)の『赤目四十八瀧(あかめしじゅうはちたき)心中未遂』(2003)、是枝裕和の『誰も知らない』(2004)、緒方明(おがたあきら)(1959― )の『いつか読書する日』(2004)は、いずれも現代の日本の一面を独自の視点で鮮かに切りとった佳作である。滝田洋二郎(たきたようじろう)(1955― )の『おくりびと』(2008)は葬式を美しく演出する仕事をていねいに描いて、この年のアメリカのアカデミー外国語映画賞を受賞した。若松孝二(わかまつこうじ)(1936―2012)の『あさま山荘への道程』(2008)は、連合赤軍事件を克明に追求した力作である。山田洋次の『母べえ』(2007)は戦争中に反戦思想をもって生きた家族の実話であり、ありそうでなかった貴重な内容のホームドラマである。木村大作(きむらだいさく)(1939― )の『劒岳(つるぎだけ) 点の記』(2008)は明治時代に剣岳に初登頂した人々の実話だが、撮影監督の木村大作がその撮影力を全開にして山岳に取り組んだところによさがあった。また、長年ごくわずかしかいなかった女性監督が、1990年代ごろから急速に増えてくる。『かもめ食堂』(2005)や『トイレット』(2010)の荻上直子(おぎがみなおこ)(1972― )や、『ゆれる』(2006)の西川美和(にしかわみわ)(1974― )などを代表にあげることができる。彼女たちによって日本人の生活をみる視野は確実に広がった。

 映画製作で近年目だつ現象は、大作と低予算作品との両極分解が進行していることである。大作は民間放送のテレビ局や映画会社をはじめ、出版社や商事会社など、いくつかの会社の共同出資によってつくられるもので、できあがった作品は、東宝をトップとする大手配給網で公開される。予算は潤沢でぜいたくな配役をすることができるが、一作ごとに資金を回収しなければならないので、商売的成功のプレッシャーが大きいため、内容的には通俗に流れやすい。他方、低予算映画は、客席が100程度のミニシアターでしか上映できないために、あまりにも貧相な作品になりやすい。商業主義と、芸術性や社会性を追求しようとする作家たちとの葛藤は、映画史上いつの時代にもみられる現象であるが、それが平成時代に入ってからは、シネコンを中心とする大手配給網の映画と、ミニシアターなどの単館系映画との分裂、という傾向が両極となっている。しかし、それぞれの映画にも良い作品はあり、さらなる前進を期待したい。

[佐藤忠男]

『飯島正著『日本映画史』全2巻(1955・白水社)』『田中純一郎著『日本映画発達史』全5巻(1957~1980・中央公論社)』『岩崎昶著『日本現代史大系 映画史』(1961・東洋経済新報社)』『佐藤忠男著『現代日本映画』全3冊(1969~1979・評論社)』『小川徹他編『現代日本映画論大系』全6巻(1971~1972・冬樹社)』『今村昌平他編『講座日本映画』全8巻(1985~1988・岩波書店)』『佐藤忠男著『日本映画と日本文化』(1987・未来社)』『『日本映画人名事典 女優篇』上下(1995・キネマ旬報社)』『『日本映画人名事典 男優篇』上下(1996・キネマ旬報社)』『佐藤忠男著『日本映画の巨匠たち1~3』(1996~1997・学陽書房)』『山田和夫著『日本映画101年――未来への挑戦』(1997・新日本出版社)』『『日本映画人名事典・監督篇』(1997・キネマ旬報社)』『岩本憲児編著『ビジュアル版日本文化史シリーズ 日本映画の歴史 写真・絵画集成』全3巻(1998・日本図書センター)』『丸山一昭著『世界が注目する日本映画の変容』(1998・草思社)』『村上世彰・小川典文著『日本映画産業最前線』(1999・角川書店)』『『日本映画ニューウェイヴ――「リアル」の彼方へ』(2000・エスクァイアマガジンジャパン)』『古川隆久著『戦時下の日本映画――人々は国策映画を観たか』(2003・吉川弘文館)』『岩本憲児編『日本映画史叢書1 日本映画とナショナリズム 1931~1945』(2004・森話社)』『岩本憲児編『日本映画史叢書2 映画と「大東亜共栄圏」』(2004・森話社)』『西嶋憲生編『日本映画史叢書3 映像表現のオルタナティヴ――一九六〇年代の逸脱と創造』(2005・森話社)』『岩本憲児編『日本映画史叢書4 時代劇伝説――チャンバラ映画の輝き』(2005・森話社)』『村山匡一郎編『日本映画史叢書5 映画は世界を記録する――ドキュメンタリー再考』(2006・森話社)』『斉藤綾子編『日本映画史叢書6 映画と身体/性』(2006・森話社)』『佐藤忠男著『日本映画史』全4巻・増補版(2006~2007・岩波書店)』『岩本憲児編『日本映画史叢書7 家族の肖像――ホームドラマとメロドラマ』(2007・森話社)』『佐藤忠男編『日本の映画人――日本映画の創始者たち』(2007・日外アソシエーツ、紀伊國屋書店発売)』『岩本憲児編『日本映画史叢書9 映画のなかの天皇――禁断の肖像』(2007・森話社)』『内山一樹編『日本映画史叢書8 怪奇と幻想への回路――怪談からJホラーへ』(2008・森話社)』『奥村賢編『日本映画史叢書10 映画と戦争――撮る欲望/見る欲望』(2009・森話社)』『岩本憲児編『日本映画史叢書11 占領下の映画――解放と検閲』(2009・森話社)』『神山彰・児玉竜一編『日本映画史叢書13 映画のなかの古典芸能』(2010・森話社)』『黒沢清・吉見俊哉・四方田犬彦・李鳳宇編『日本映画は生きている』全8巻(2010~2011・岩波書店)』『十重田裕一編『日本映画史叢書12 横断する映画と文学』(2011・森話社)』『藤木秀朗編『日本映画史叢書14 観客へのアプローチ』(2011・森話社)』『岩本憲児編『日本映画史叢書15 日本映画の誕生』(2011・森話社)』『加藤幹郎著『日本映画論 1933~2007――テクストとコンテクスト』(2011・岩波書店)』『『ぴあシネマクラブ 日本映画編』各年版(ぴあ)』『田中純一郎著『日本映画発達史』全5巻・決定版(中公文庫)』『四方田犬彦著『日本映画史100年』(集英社新書)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「日本映画」の意味・わかりやすい解説

日本映画
にほんえいが

日本映画の制作は 1899年に始められた。 1918年までの劇映画は,歌舞伎劇と新派劇の実写の域を脱しなかったが,18年から 20年にかけて「純映画劇」運動が起り,字幕使用,女優採用の外国なみの映画が作られるようになった。 31年本格的なトーキー作品が初めて作られた。第2次世界大戦中は国策的映画が大部分を占めたが,戦後は検閲が廃止され,映画の自由が回復された。 51年,黒沢明の『羅生門』 (1950) がベネチア国際映画祭で受賞,日本映画が海外にも知られるようになった。 1960年代には,ヌーベルバーグと呼ばれる新作家も現れたが,テレビやほかのレジャーの隆盛に押されつつある。

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世界大百科事典(旧版)内の日本映画の言及

【田中栄三】より

…日本映画の〈芸術的革新者〉として知られる監督・脚本家。東京生れ。…

【プロレタリア映画】より

…ソ連に次いで,東欧諸国,中国においても,同じように映画の獲得が,プロレタリア階級の大きな文化的目標となって映画史が形づくられることになるが,ドイツや日本ではそれが商業主義と結びついて〈傾向映画〉と呼ばれる屈折した流れとなった。以下,ここでは日本映画史に独自の重要な地位を占める〈傾向映画〉について述べることとする。
[傾向映画]
 〈傾向映画〉とは,資本主義的な企業のなかでつくられながら,社会主義的あるいは左翼的イデオロギーに〈傾向〉した昭和初期(1920年代末から30年代初頭)の日本映画の流れで,left‐wing tendency filmあるいは単にtendency filmとの英訳もされるが,呼称の語源は1920年代後半の一群のドイツ映画(ナチスが政権をとって民主的な企画が弾圧されるまでつづいた),すなわちG.W.パプスト監督《喜びなき街》(1925),ゲアハルト・ランプレヒト監督《第五階級》(1925)等々に冠せられたTendenzfilmの直訳といわれる。…

※「日本映画」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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