日比谷(読み)ヒビヤ

デジタル大辞泉 「日比谷」の意味・読み・例文・類語

ひびや【日比谷】

東京都千代田区南部の地名。日比谷公園がある。江戸時代以前は入り江であった。

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精選版 日本国語大辞典 「日比谷」の意味・読み・例文・類語

ひびや【日比谷】

東京都千代田区の地名。皇居外苑の南端部に接する。江戸初期までは東京湾の入江であったが、徳川家康の江戸入府後に埋め立てられ、江戸時代を通じて諸大名屋敷地となった。日比谷公園がある。

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日本歴史地名大系 「日比谷」の解説

日比谷
ひびや

現千代田区の南部、有楽ゆうらく町と永田ながた町に挟まれる地域の呼称。中世、旧江戸城大手門を北端とし、霞ヶ関かすみがせき・旧江戸城を西岸に、JR有楽町駅付近まで延びた砂洲である江戸前えどまえ島を東岸とした入海を日比谷入江とよぶ。浅瀬となり、ヒビが立並んでいたための地名か。日比谷の集落は西岸の霞が関から虎ノ門に続く桜田さくらだ台地の麓にあったと推定されるが、近世江戸城内に取込まれたため遺跡は残されていない。大永六年(一五二六)に小田原北条氏は牛込助五郎に対し「比々谷村陣夫、同小屋夫」の免除を許可しており(同年一〇月一三日「北条家朱印状写」牛込文書)、戦国期には牛込氏が当地の領主となっていた。なお芝増上寺の酉誉聖聡門下で、京都に上り知恩寺(現京都市左京区)・知恩院(現同市東山区)の住持となった大誉慶竺(応永一〇年―長禄三年)は、日比谷村の出身という(三縁山志)

〔日比谷公園〕

江戸時代には外桜田そとさくらだ御門を控えて、城郭の南側を防備する外桜田の一部で、大半は大藩の藩邸を含む武家屋敷によって占められていた。明治五年(一八七二)日比谷堀の南側に内山下うちやました町一―二丁目・西日比谷にしひびや町などが成立した。同一二年の東京府統計表によれば、当時旧長門萩藩などの諸藩邸に相当する西日比谷町合計約五万九千坪(約一九ヘクタール強)の跡地が陸軍練兵場として収用されており、これは深川越中島えつちゆうじま(現江東区)の練兵場の約一四万坪に次ぐ広さであった。当時日比谷練兵場では明治天皇の行幸・閲兵のもとに、隣接の霞ヶ関に駐屯する教導団兵営(下士官養成)の兵士による演習が繰返され、人々もそれを見物した。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「日比谷」の意味・わかりやすい解説

日比谷
ひびや

東京都千代田区南部、日比谷公園を含む一帯の通称。江戸以前には比々谷とも記し、日比谷入江とよぶ東京湾の続きであった。地名は魚やのりをとる篊(ひび)に由来するという。徳川家康入府以後、埋め立てられ、江戸城郭の内となり、譜代(ふだい)大名の屋敷地となった。明治になって陸軍練兵場(日比谷練兵場)となったが、1889年(明治22)練兵場跡地は公園と定められた。

[沢田 清]


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百科事典マイペディア 「日比谷」の意味・わかりやすい解説

日比谷【ひびや】

東京都千代田区南部の地名。徳川家康入府までは江戸湾岸の漁村であったが,埋め立てられて武家屋敷町となった。明治期には日比谷ヶ原として練兵場に用いられ,1903年日比谷公園が開設された。日比谷公園は日本最初の洋式公園で,面積16万4569m2公会堂図書館テニスコート野外音楽堂などがある。周辺は霞が関内幸町の官庁・ビジネス街,有楽町の繁華街

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