日産自動車(株)(読み)にっさんじどうしゃ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「日産自動車(株)」の意味・わかりやすい解説

日産自動車(株)
にっさんじどうしゃ

日本を代表する世界的自動車メーカー。鮎川義介(あいかわよしすけ)の率いる日産コンツェルンの本社である日本産業株式会社と戸畑鋳物株式会社の共同出資により、1933年(昭和8)自動車製造株式会社が設立され、翌年日産自動車改称。同社は快進社が開発したダットサンの製造権を譲り受け、横浜に工場を建設して大量生産に着手。1936年には自動車製造事業法による許可会社に指定されたが、第二次世界大戦時は乗用車の生産を制限され、生産はトラックに集中していった。

 第二次世界大戦後は朝鮮戦争特需をきっかけに復興し、1952年(昭和27)イギリスのオースチン社と技術提携し、オースチン車のノックダウン生産を開始したが、これは日産の乗用車量産技術の向上に大きく貢献することになった。そして1959年に小型車ブルーバードを、60年に中型車セドリックを発表。ブルーバードは日本で進行しつつあったモータリゼーション背景にドル箱の車種となった。さらに大型車プレジデント、大衆車サニーを発売して車種の多様化を図り、1966年には資本の自由化を控えてスカイラインなどを生産するプリンス自動車工業を合併して企業力の強化を図った。その後も新車種を加えて需要の多様化に対処するフル・ライン体制をとっている。1970年代に入ると、第一次石油危機以降、燃費と品質の良さが評価されて対米輸出の増加が目覚ましく、高水準の技術を蓄積するとともに、日産車のイメージが高まった。1980年代には、80年に米国日産自動車製造会社を、84年に英国日産自動車製造会社を設立するなど、貿易摩擦を背景に欧米での海外生産が本格化し、ヨーロッパ北米で地域統括会社を設立してグローバル体制の確立を目ざした。しかし、1990年代に入って、国内需要の低迷など経営環境が急変した。座間(ざま)工場の閉鎖などのリストラクチャリングに取り組んだが、多額の有利子負債を抱えるなど厳しい経営状況に陥り、世界主要自動車メーカー再編のなかでの生き残りをかけて、1999年(平成11)フランスのルノー社との資本提携に踏み切った。ルノー出身のカルロス・ゴーンが同年6月に最高執行責任者(COO)に就任(2001年6月最高経営責任者=CEOとなる)、ゴーンの発表した「日産リバイバル・プラン」のもと、村山工場をはじめとする国内5工場の閉鎖など再生計画を進め、2001年3月期決算では4年ぶりに黒字転換した。資本金6058億円(2008)、売上高3兆9232億円(2008)。

[中村青志]

『日産自動車株式会社編・刊『日産自動車三十年史』(1965)』『日産自動車株式会社編・刊『日産自動車社史1964―1973』(1975)』『日産自動車株式会社編・刊『日産自動車社史1974―1983』(1985)』『日産自動車株式会社編著『日産自動車のTPM』(1993・日本ブラントメンテナンス協会)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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